今日の区分は、ヨハネの中心的使信で始まる。「互いに愛し合いなさい」(11節)。この命令は主イエスが与えたものである。「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)。ヨハネはこの愛の戒めをこの手紙で繰り返すわけだが、そのことによって、私たちの心に愛の戒めを植え付けようとしている。今日の区分で、ヨハネは愛の戒めを印象づけるために、愛と憎しみを対比させている。

ヨハネは、憎むことのおぞましさを知らせるために、カインの事例を取り上げる(12節)。「カインのようになってはいけません」と、憎むことの愚かさを戒める。それは愛することと正反対だからである。カインは兄弟を憎んで殺してしまう。以前、二人の兄弟が母親の前で兄弟喧嘩を始め、片方が兄弟を刺殺したという事件があった。憎しみは破壊し、殺す。カインとアベルの物語は創世記4章にあるが、カインとアベルの場合は、カインのささげものは神に受け入れられなかった。アベルのささげものは神に受け入れられた。そこでカインは面白くなくなり、アベルを憎んで殺してしまう。ヨハネはカインとアベルの事件の詳細を取り上げない。有名な物語であるからだろうか。またアベルの名前は出さないでカインの名前だけを述べている。それはカインの悪さを強調し彼に焦点を絞りたいからである。彼は「悪い者から出た者」と呼ばれている。2章29節では「義を行う者もみな神から生まれた」とあるが、それとの対象である。「悪い者から出た者」とは8節で「悪魔から出た者」と呼ばれている。ヨハネはカインの行動の起源が悪魔にあることを伝えている。彼の行動の背後に悪魔を見ている。創世記4章のカインとアベルの物語に悪魔は登場していない。しかしながら、紀元前2世紀や紀元1,2世紀のユダヤ教の文書には、カインの殺人行動は悪魔によって吹き込まれたものであるという記述がある。ヨハネがカインの行動の背後に悪魔を見ているというのは自然なことである。

ヨハネが述べる「悪魔から出た者」「悪い者から出た者」という表現で、カインをオカルト的な存在や、特別な悪魔の手下とみなすことは正しくない。「悪魔から出た者」とは、世の罪人の総称と言って良いものである。私たち信仰者は、10節で言われているように「神から出た者」であるが、かつてはそうではなかった。エペソ2章1,2節を読んでみよう。「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者(悪魔)、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました」。罪と世と悪魔はセットで描写されており、私たちもかつては悪魔の支配の中にあったと言われている。だが今は、キリストを信じ、神から生まれた者とされたのである。

12節に戻っていただくと、カインが兄弟を殺した理由として、「自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです」と、単純に表現している。殺人の理由付けが余りにも単純すぎやしないかと思われるかもしれない。だが、悪と正しさの本質を知ると、そうではないことがわかる。ヨハネはこの文書で「悪」を悪魔を表わすのに用いている。悪魔は繰り返し「悪い者」と呼ばれている(2章13,14節、3章12節、5章18,19節)。それに対して「正しい」ということばは、神とキリストに対して使用されている(1章9節、2章1,29節、3章7節)。悪魔は悪で神とキリストは正しい。悪である悪魔は、正しい神とキリストを憎むという特徴がある。こうした事実がカインの兄弟殺しの背景にある。

今述べた特徴、悪魔は神とキリストを憎むという特徴を念頭に置いて、13節を読もう。「兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません」。「世」は悪魔の影響下にある。5章19節で「世全体は悪い者の支配下にある」と言われていることからもわかるように、世の人々は、悪い者に支配され、悪い者の霊性に浸って、悪い者の影響を受けている。神観、倫理観、価値観、ものの見方、考え方というものが。だから、この世の人々が神に敵対し、キリストを憎み、キリストを信じる神の子どもを憎んでも、それは驚くにはあたらない。3章5節においてキリストは、「この方のうちに罪はありません」と言われているが、罪がないにもかかわらず、憎まれ、十字架につけられ殺された。キリストは弟子たちにあらかじめ、こう話された。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたより先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです」(ヨハネ15章18,19節)。クリスチャンというのは概して、評判が良い。信頼が篤い。また、そうでなければならない。キリストの香りを放って、良い証を立てるべきである。そうでありながら、憎まれることがある。マルチン・ロイド・ジョンズは言う。「キリスト教の真理に対して人々が示す苦々しい反応ほど、ぞっとするものはない。彼らはそれを受け入れ信じることができないというだけでは満足せず、苦々しくなり、激しい憎悪と恨みをもつ。それは彼らが感じようと感じまいと、悪魔の働きである。なぜ憎悪が、怒りが、苦々しさが、なぜこのような敵意があるのか。神を激しく憎んでいる悪魔のせいである」。私たちがいじわるしたり、約束を破ったり、ドジしたり、ヘマしたり、私たちのほうから攻撃的になったり、そうであるなら、憎まれるのは私たちに責任がある。けれども聖書の教えにならって、正しいことを正しいこととしてやっているのに憎まれることがあるなら、それは私たちの責任ではない。私たちはこの世の緩い倫理観に倣わない。偶像も拝まない。そして唯一の神、唯一の救い主に対する信仰を表わす。それが頑なに思われたりすることがあるだろう。だが、私たちは長いものに巻かれろで、世の流れに従うわけにはいかない。

「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています」(14節)。ヨハネはこれまで、真の信仰者の見分けのポイントを語ってきたが、14節が伝えていることは、兄弟姉妹を愛していることが、その人が永遠のいのちを持っているしるしであるということである。兄弟姉妹を愛することが永遠のいのちを受ける条件ではないが、それはその人が新しく生まれ変わり、永遠のいのちを受けたことの証拠なのである。新しく生まれ変わり、主の絆で結ばれた者同志は愛し合うようになる。しかし、神から生まれた者を愛さない者は、未だ霊的に死んでいる。生まれ変わっていないということである。生まれ変わっていないので、神から生まれた者を愛せない。ヨハネは、当時の、神の名を口にしながら教会の兄弟姉妹を憎んでいた偽りの信仰者たちのことを念頭においていることは明らかである。

「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません」(15節前半)。この言及は12節のカインの流れから来ている。カインは兄弟を殺した。しかしヨハネは、兄弟を憎む者はみな、人殺しだと言うのである。「兄弟を憎む者はみな(誰でも)」ということである。実は、憎しみへの戒め自体は旧約聖書にもある。「心の中で自分の兄弟を憎んではならない」(レビ19章17節)。この憎しみと殺人の関係について考えてみよう。J.カルヴァンは言う。「さて、ヨハネは、兄弟を憎む者はみな殺人者であると言っている。これ以上、恐ろしいことばで語ることは不可能だが、一人の人を憎むとき、私たちは彼が死ぬことを望むようになる」。憎しみは相手を死なせたい願望。実は15節の「人殺し」ということばは、悪魔に対しても使用されている。「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません」(ヨハネ8章44節)。これは主イエスがご自身に敵対するユダヤ人たちに対して語ったことばだが、悪魔を人殺しと言われたとき、カインのことが念頭にあったかもしれない。悪魔はカインがアベルを殺すようにそそのかしたと言えるわけである。これは12節の解説のときにも言及させていただいた。

「兄弟を憎む者はみな、人殺しです」という宣言はショッキングなものであるが、憎しみの性質を言い当てている。実は、このことに関連する教えを主イエスは語っておられる。山上の説教においてである。「昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます」(マタイ5章21,22節)。「ばか者」とか「愚か者」は、粗忽を働いた者を戒めるために年上の方が使う叱責用語のようにもとれるが、ここではそうではなく、ののしり、悪口であり、怒り、憎しみ、憎悪の感情から来る蔑みのことばである。主イエスは、それは人殺しと同じなので厳しいさばきを受けると言っている。ヨハネの場合は、こうした人殺しの結果について、「あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません」(15節後半)と述べる。主イエスの場合は永遠のいのちがとどまることがないということを、「火の燃えるゲヘナに投げ込まれます」という描写で伝えていた。だから、この罪は悔い改めが必要である。パウロは回心前は、憎しみに燃えてクリスチャンたちを捕縛していた。「サウロは家から家に押し入って、教会を荒らし、男も女も引きずり出して、牢に入れていた」(使徒8章3節)。「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた」(使徒8章1節)ともある。パウロは教会の兄弟姉妹たちに対して憎しみのかたまりだった。けれども回心した。悔い改めとキリストに対する信仰を持った。

憎しみとは、キリスト者となってからも持ってしまうことがある。だから、今日のみことばに心を留めなければならない。最後に、オランダ人の婦人宣教師コーリー・テン・ブームの体験をお話して終わろう。彼女の一家は第二次世界大戦時に、ユダヤ人をかくまったためにナチスに迫害され、強制収容所に収容され、両親と妹が虐殺された。彼女だけが生き残った。戦後、彼女は、ドイツの教会に招かれ、「もう私の心の中にドイツ人に対する憎しみはありません。完全に赦しました」と語ったのである。ところが話し終わった時、彼女は会衆の中に決して忘れることのできない顔を発見し、からだ全体が固くなるのを感じた。どういうことかと言うと、何と収容所で自分の妹を殺す手伝いをした看護師がそこにいたのである。次の瞬間、彼女の足はその看護師のほうに向かっていた。その看護師は顔を伏せていたが、コーリーはその手を取り、「私はあなたを赦します。神さまが私の罪をキリストの十字架によって赦してくださったのですから」と語りかけたのである。コーリーは強制収容所時代に、キリストの愛を心に植え付けられていたのである。それで彼女は言っている。「私の心には憎しみが入る余地がなくなってしまったのです」。これぞ、神から生まれた真の信仰者の姿である。