神は私たちの父。そして私たちは神の子どもである。皆さんは、神の子どもであることを喜んでいるだろうか。2章14節でヨハネは書いていた。「幼子たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが御父を知るようになったからです」。本当にこれは幸いなことだった。そしてヨハネは今日の箇所で言う。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい」(1節a)。私たちはもともと神の子どもではなかった。滅びゆく罪人でしかなかった。けれども、キリストを信じる信仰によって、神の子どもとさせていただいた。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった」(ヨハネ1章12節)とある通りである。ヨハネは今日の箇所では、私たちを神の子どもとするための神の愛に強調を置く。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい」。それで私たちは、この神の愛を考えたいと思うのである。私たちは、「考えなさい」というときに、やはり、キリストを十字架で犠牲にして救い出そうとしてくださった神の愛を考えるわけである。私たちは、自分のつまらなさ、罪深さを思うとき、破格の恵み、破格の愛であると知る。私たちはこの愛をまだ知り尽くしてはいない。ヨハネが言う「どんなにすばらしい愛を」の「どんなにすばらしい」ということばは、驚きと感嘆を含んでいることばである。ヨハネは神の愛を体験し、経験した者の実感として、神の愛はどんなにすばらしいことかと言っている。そして、それを考えてみなさいと言っている。私たちが神の子と呼ばれるために御父である神がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、このメッセージの最後にも、また考えたいと思う。
さて、ヨハネは世の人々についても言及している。「世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです」(1節後半)。「世が私たちを知らない」というのは、神の子どもとしての私たちを理解できないということ。それは彼らが御父としての神を知らないから当然。御父としての神を知らないから、私たちと神との霊的な関係を知ることはできない。これはある意味、仕方がないことである。私たちとしては、父なる神がおられることを忍耐をもってお伝えしていくしかない。私たちが神を信じていることを話すと、奇妙な顔をされたりするわけだが、人間が造り主なる神とともに生きるというのは、人間本来の当たり前の姿。この当たり前のことが当たり前でなくなってしまっているのがこの世。
2節では神の子どもの未来について記されている。「・・・しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者となることは知っています。キリストのありのままの姿を見るからです」。「キリストが現れたときに」というのは、キリストの再臨が暗示されているが、キリストが現れたときに、私たちのたましいもからだもキリストに似たものとなる。身も心もボロボロと思うことがある私たちだが、疲れを知らない朽ちてゆくことのない栄光の姿に変えられるだけでなく、その内なる人もキリストに似せられる。
この希望が現在の私たちを形造る。「キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします」(3節)。経済用語で最近、「希望資産」ということが言われている。個人の生活の不安を払拭するために、未来にこんな希望があるよと、希望を与える資産形成をすることである。森林のもつ環境保全を強化しよう、道路や上下水道を整えよう、観光資源を見直そう、そのようにして未来の生活に希望を抱けるようにしよう、というものである。神の子どもは「希望資産」はばっちりある。まず天の御国が約束されている。ペテロは言う。「また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています」(第一ペテロ1章4節)。加えて私たちは、自分自身がキリストに似た者となるという望みがある。この望みで生きるならばどうなるのか。「自分を清くします」である。私たちは自分が意識する人に会おうとするとき、身なりを整えるだろう。急いでいる場合でも鏡を見て、突貫工事をして備えるわけである。やがてお会いするキリストを意識している人は、キリストにそぐわないものを心と生活から取り除こうとするだろう。キリストとお会いすることを待ち望む人は、キリストが清くあられるように自分を清くする。やがてキリストとお会いしたときに、御前で恥入ることがないようにするためである。
ヨハネは、この後、偽りの信仰者(異端)を意識しての文脈に戻る(4~10節)。偽りの信仰者たちは、罪の行いを肯定し、平然と罪を犯し続けていた。ヨハネは罪を罪としないで罪を犯している彼らを、「悪魔の子ども」とまで呼んでいる(10節)。4~10節では、神の子どもと悪魔の子どもを「罪」という視点から対比している。
実は、これから見る、神のこどもと悪魔の子どもの教えは、2章29節のみことばの延長である。「あなたがたは、神が正しい方であると知っているなら、義を行う者もみな神から生まれたことが分かるはずです」。「神から生まれた」と言われている者が神の子どもである。その特徴は義を行うということ。だが偽りの信仰者はそれとは全く反対で義を行わず、罪に対してルーズなのだと、3章4節以降で説明している。
「罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです」(4節)。ヨハネはまず罪とは何であるかを定義している。「罪とは律法に違反すること」。「律法に違反すること」<アノーミア>は、他の聖書箇所ではすべて「不法」と訳されている。「不法」<アノーミア>がどんな使われ方をしているかを知るため、参考箇所を開こう。「『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』」(マタイ7章22,23節)。これはキリストのことばであるが、偽りの信仰者が意識されている。「人の子は御使いたちを遣わします。彼らはすべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、火の燃える炉に投げ込みます」(マタイ13章41,42節)。これは毒麦のたとえの解説だが、やはり偽りの信仰者が意識されている。次にパウロのことばも見よう。「以前あなたがたは、自分の手足を汚れと不法の奴隷として献げて、不法に進みました。同じように、今はその手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなさい」(ローマ6章19節)。私たちは以前は「律法に違反すること」、すなわち不法を行っていたがが、不法ではなく義を行うよう召されている。「不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう」(第二コリント6章14節)。正義と不法は、光と闇が交わらないのと同じである。不法とは「律法に違反すること」であり、この不法を罪ではないかのように肯定しているのは、神の子どもとして許されないことである。
「あなたがたが知っているとおり、キリストは罪を取り除くために現れたのであり、この方のうちには罪はありません」(5節)。バプテスマのヨハネはキリストが出現したとき、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1章29節)と言った。キリストは罪を肯定するためにこの世に来られたのではない。罪を取り除くために来られた。そしてキリストご自身に罪はない。昔も今もこれからも永遠にない。それならば、キリストを信じ、キリストにとどまろうとする者はどうだろうか。
「キリストにとどまる者はだれも、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見たこともなく、知ってもいません」(6節)。「キリストにとどまる者はだれも、罪を犯しません」とはどういうことだろうか。「キリストにとどまる」とは、「キリストのうちに住む」という意味のことばで、罪の支配からキリストの支配に移し替えられていることを意味する。それならば、その人の生き方はどうなるだろうか。キリストはヨハネ15章において、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」と語られ、「わたしにとどまりなさい」と命じられ、わたしにとどまっていれば多くの良い実を結ぶと教えられた。それはキリストの性質を受けるからである。キリストにとどまる者はキリストの性質を受け、罪から遠ざかることはまちがいない。罪を嫌い、正しさを選び取るだろう。
だが、6節を読んで、この地上に住むかぎり、「罪を犯しません」というのは不可能ではないかと疑問に思う方もおられるだろう。「罪を犯しません」についてもう少し考えてみよう。実は、「罪を犯しません」という動詞は現在時制で、ギリシア語の現在時制は継続の意味がある。以前の新改訳第三版では、この継続の意味を汲んで、「罪のうちを歩みません」と本文で訳していた。ヨハネは今日の区分で、継続的に、積極的に罪とかかわっている偽りの信仰者を意識している。罪の行いを肯定して、罪を習慣的に犯し続けている偽りの信仰者を意識している。彼らは罪を罪とも思わないで平然と罪を犯し続けていた。だが真の神の子どもは、真のキリスト者はそうではないということである。キリストにとどまっているからである。だがそれは、もはや私には罪はない、という告白を許すことではない。聖書は、地上での罪なき完全は主張していない。ヨハネは1章8節で語っていた。「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません」。ヨハネは、このようにバランスをとっている。罪を平然と犯し続けることも、「自分に罪はない」と言ってしまうことも認めない。私たちは罪を肯定しなくても弱さから犯してしまうことがある。気づかずに犯してしまうこともある。たとい自分にやましいところはないといっても、それだから罪がないということにはならない。だから、私たちは罪に対しては注深くなり、キリストの血潮によって罪をきよめてもらおうとする姿勢は絶えず必要である。そのようにして私たちは、キリストに似せられて行く歩みを願っていくのである。
7~10節では、神の子どもと悪魔の子どもを見分けるよう注意を促している。悪魔の子どもを見分けるポイントは二つに分けてみることができる。悪魔の子どもを見分けるポイントの第一は、不法である罪を平然と犯し続ける、義を行わない、ということである。「罪を犯している者は、悪魔から出た者です」(8節a)。「罪を犯している」も、継続の意味を含む現在時制である。なぜ罪を犯し続けるのか。罪を罪とせず、罪を肯定しているからである。よって悔い改めることもなく、平然と罪を犯し続ける。ヨハネはその背後に悪魔の影響を見ている。罪の創始者は悪魔である。「悪魔は初めから罪を犯しているからです」(8節b)。おそらくこれは創世記1~4章の物語が念頭にあるだろう。悪魔は人類の最初のカップルを誘惑し、罪を犯させ、二人の子孫のカインはその罪の影響下で殺人の罪を犯す。悪魔のねらいは、私たち人類を罪の支配にとどめ、神から引き離すことにある。だが、「その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れた」(8節c)のである。悪魔の完全勝利と思われたあの十字架で、キリストはご自身のいのちの力で悪魔の力をくじき、ご自身を信じる者を罪と悪魔の縄目から解放し、神の子どもにしようとくださったのである。
「神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないからです」(9節)。悪魔の子どもと違って、神の子ども、すわなち「神から生まれた者はだれも、罪を犯しません」。すなわち、罪を肯定し、罪を平然と、継続的に、習慣的に犯すようなことはしません。その理由は何だろうか。キリストの性質を受けたからである。それをここでは「神の種」と呼んでいる。聖書において「種」の用法は、植物の種、また人の精子が代表的ある。種そのものをどちらに解釈するにせよ、ここでの種はあくまで比喩である。それは何かを表している。「神の種」が具体的に何を表わすのか、ヨハネの文書ではどこにも書いておらず、何を表わすのか明言はできない。みことばという解釈もあるが、キリストの御霊である聖霊と受け取るのが自然かもしれない。私たちを霊的に新しく生まれ変わらせる働きは御霊によることは確かである。キリストご自身、ニコデモとの会話の中で、新しく生まれ変わらせる働きをするのは御霊であると語っておられた(ヨハネ3章1~8節)。キリストの御霊が私たちにキリストの性質を与え、私たちを罪から遠ざけ、義の行いに進ませることは確かである。聖霊を受けたなら罪に対する態度は絶対に変わる。変わらなければうそである。
悪魔の子どもの見分けのポイントは第一に、平然と罪を犯し続ける、義を行わないということであったが、第二は、主にある兄弟姉妹を愛さないということである。「このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義を行わない者はだれであれ、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです」(10節)。この節において、見わけるポイントが二つ並べられている。悪魔の子どもは義を行わないとともに、神の子どもを愛さないのである。実は、これらの二つのポイントは、1,2章でヨハネが偽りの信仰者の目に見える特徴としてすでに語ってきたものであるが、ヨハネはくりかえし語っているのである。以上、神の子どもと悪魔の子どもを対比して見てきた。
最後に、「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい」(1節a)に今一度心に留めて、神の愛に思いを潜めて終わりたい。
「山立ち問答」という歴史小説がある(テレビドラマにもなった)。人格者という評判の一人の武士が主君の命を受けて、下僕とともに隣国に御用を果たしに出かけた。夜、山越えをしようと峠道を歩いていたとき、ぞろぞろと山立ち盗賊たちが大勢現れた。山をねぐらとする野武士たちである。彼らは言い寄る。金品はもちろん、身ぐるみ脱いで、衣服大小渡すようにと。でなければ斬るぞと。だが、その武士は少しも動じない。その武士は約束する。「今は主君の御用を果たしに行く途上なので裸になれないが、主君の御用を果たし戻って来たら、衣服大小も渡す。武士に二言はない」と。そして彼は主君の御用を果たすと、一昨夜の場所に戻って来た。別の道を通って帰ることもできたし、警護をつけることもできたが、そうはしなかった。そして、「オーイ、山立ち殿はいないか~」と叫んで、わざわざ彼らを呼びつけ、「約束を果たしにまいった」と、衣服大小身ぐるみ脱いで、山立ちどもに渡し、裸で堂々と帰って行った。このことが捻じ曲げてとられ、藩のすみずみまで悪評が野火のように広がった。「あいつは腰抜けの臆病者だ。山立ちと一太刀を合わせないで、手をつくようにして命乞いをして身ぐるみ脱いだんだ」。人格者と言われた彼の評判は一転して地に落ちた。罵詈雑言を書いた紙が、彼の家の塀にペタペタと貼られることまでした。
一人の奉行が真実を確かめに彼のもとに来た。なぜそのような未練なまねをしたのかと。その武士は弁明する。「御上の御用を仰せつかった大切なからだ。争いを避けなければなりませんでした。それで衣服大小渡しました」。奉行は、「渡さずとも帰って来れただろうに」と問うと、「相手が山立ちでも、武士として約束を守るのは当然だと信じます。武士の約束に相手の差別はありません。たとい相手が山立ち盗賊であっても、約束した以上、その約束を守るのが武士の義理です」。それを聞いた奉行は、「約束、約束、約束!正しい者が相手だったらわかるが、山立ち盗賊相手に何が約束だ!」と怒り心頭で帰ってしまう。その後、控えていた結婚破断となり、彼の家に仕えていた下僕たちも去ってしまう。だが、物語の終盤、大逆転がある。自分たちをいっぱしの人間として扱い、武士に二言はないと約束を守ってくれた武士に感動した山立ちどもは、我らが仕えるお方はあの人しかいないと、その武士を捜し求めていた。彼らは群衆が集まっているところで、その武士の前に土下座し、「家来にしてください。そして私たちを人間らしくし生かしてください」と懇願する。集まっていた人々は一同驚くことになり、真実が見えてくる。こうして、「たとい相手が山立ち盗賊であっても、約束した以上、その約束を守るのが武士の義理です」と発言した彼の評判は回復し、爆上がりすることになる。
私はこの物語を読んで、神の私たちに対する約束・契約を考えた。神が救いを約束しようとした相手は、ちりに等しい罪深い私たちである。一蹴されて当然の者たちである。ごろつき同然である。汚れた罪人である。真実に約束を守るのは似つかわしくない者たちである。そして、約束を通して私たちに与えようとした救いは、金品や衣服大小どころではない。キリストは身ぐるみ脱いで裸になってそれを渡して終わりではない。キリストは十字架について血を流し、ご自分いのちを差し出し、罪の赦しと永遠のいのち、神の子としての身分を私たちに与えようとしてくださった。しかも、それは私たちのほうで頼んだのでもない。それは一方的な約束であった。そして、その約束は真実だった。こうして私たちは罪の赦しと神の子どもの身分をいただいた。それゆえに、天の資産も保証されたばかりか、キリストに似せられるという希望もいただいている。王家の子息となるどころの話じゃない。私たちは本来、そこまでしていただく義理はない。神の愛は真実で余りにも大きい。私たちはどれほどすばらしい愛を受けたことだろうか。私たちもヨハネと同様の感動の域に達し、神の愛を日々新鮮に受け止めて、キリストにとどまり続けたいと思う。

