ヨハネは今日の区分を見ると、「幼子たち、今は終わりの時です」という書き方で始まる。「幼子たち」とは14節で学んだように、すべての読者、すなわちすべての信仰者たちのことである。驚くのは「今は終わりの時です」という宣言である。キリストの弟子ヨハネが在世中の、キリストが昇天して、まだ数十年しか経っていない時代であるにもかかわらず、「終わりの時」と言うのである。何の終わりかと言うのなら、ペテロはペテロの手紙第一4章7節において「万物の終わりが近づきました」と言っている。世の終わりということである。パウロは第二コリント人への手紙6章2節において、「今は恵みの時、救いの日です」と言っているが、同時に、今の時は「終わりの時」なのである。もちろんキリスト者にとって、これをただ悲観的に考える必要はない。聖書は終わりの時が来て、新天新地が到来し、神の国が完成することを教えているからである。神の国の完成のしるしは、28節で言われているキリストの再臨である。「キリストが現れるとき」「来臨のとき」という表現がそうである。このキリストの再臨の前に、神に敵対する力が働くのである。偽りの力が働くのである。

ヨハネは終わりの時のしるしとして、反キリストの出現を強調している。「反キリストが来ると、あなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であることがわかります」(18節後半)。なんと、一世紀にすでに多くの反キリストが出現していたのである。ヨハネは、この偽りの教えを広める異端グループと戦っていた。「反キリスト」は原語で、<アンティ クリストス>(例「アンチ巨人」)。<アンティ>の意味は、「反対して、敵対して」ということで、反キリストはキリストに敵対する者なのである。けれども、正面切ってではないから、人々は惑わされる。偽りの教えは、キリスト教的味付けがされている。キリスト教の衣をまとっている。だから、外部者の方々にとっては、キリスト教のグループに見えてしまうことがある。

反キリストたちは元々どういう人たちであったのだろうか。「彼らは私たちの中から出て行きました」(19節前半)とあるが、現代でも異端の方々を見ると、もと洗礼を受けたクリスチャンで教会に属していたとか、親がクリスチャンであったとか、そういう人々が多いのは事実である。ヨハネが戦っていたのはグノーシス主義と言って、現代のニューエイジムーブメントの源流となっている教えである。今朝は、反キリストの特徴を二つ述べよう。反キリストの特徴の一つは、キリスト観が誤っているということである。「偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否定する者、それが反キリストです」(22節)。ポイントは「イエスがキリストであることを否定する」ということ。グノーシス主義者にとってイエスはキリストではない。彼らはイエスという存在とキリストという存在を別々の存在と考えていた。当時、グノーシス主義者の次のような主張があった。「キリストはイエスのバプテスマの時から十字架の苦しみの時まで、イエスの上に降りて、彼に神の力を与えた。そしてイエスの苦しみの終わりの時に、キリストはイエスから離れた」。人間イエスの上にキリストの霊が降りて、イエスは活躍した、といった主張である。しかも、彼らの言うキリストとは、完全な神ではないのである。これは現代も見聞きするキリスト観である。偽りの教えは、イエスはまことの神キリストであるということを否定する。イエスが肉体をとったまことの神であることを否定する。イエスはまことの神にしてまことの人である。それを信じないのが反キリストである。偽りの教えは、神が受肉したこと、すなわち肉体をとったなどと信じたくなかった。彼らは霊肉二元論に立っていた。ヨハネの弟子で、スミルナ教会の監督を務めたポリュカルポスは、次のように述べている。「反キリストは、イエス・キリストが肉体をもって来られたことを告白しないすべての人である。そして十字架の証を告白しない人は誰でも悪魔のものである。そして自分の欲のために主のことばを曲げ、復活もさばきもないという者はだれでも悪魔の子どもである」。イエス・キリストが肉体をもって来られたことを告白しない人たちは、十字架の意味も骨抜きにしてしまう。私たちの罪の身代わりという立場には立たない。それ以前に、さばかれなければならない罪ということも認めようとしない。ヨハネは、偽りの教えを見聞していて、偽りの教えの柱に、彼らの誤ったキリスト観を据え置く。

たくさんのキリスト観がある。今お話したような、イエスは人間にしかすぎないが、神から来る霊をまとって偉大な指導者になったであるとか、イエス・キリストは神に造られた天使的被造物であるとか、私たち人間よりはりかに霊的進化を遂げた存在であるとか、はたまた別の星からやってきた人物であるとか、様々にある。一番多いのは、イエスは倫理的・道徳的指導者であって、あくまで人間にすぎないというもの。釈迦や孔子と同列に置いてしまう。ヨハネの時代以降も、キリスト観を巡って様々な主張がされ、教会内でも論争が起こった。主イエス・キリストはまことの神にしてまことの人という、二性一人格をゆがめる教えはいつの時代でもある。

私たちは、ある人が「神はただお一人であると信じています」と、そう告白するからと言って、その人が真の信仰者とは限らないことはわきまえておきたい。ある時、ユダヤ人たちが主イエスの前で、「私たちにはひとりの父、神がいます」と告白した時、主イエスは「あなたがたは、悪魔である父から出た者である」と断罪した(ヨハネ8章41~44節)。真正な教えは、イエス・キリストをどのように理解し、どのように信じているかにかかっている。ヨハネは23節で「「だれでも御子を否定する者は御父を持たず」と言っているが、イエス・キリストをどう信じているかが、その人の信仰の試金石なのである。神を信じているだけでは通らないのである。使徒であるヨハネたちの教えに則って、イエス・キリストを正しく信じていなければ、その人は神を知ってはいない、神を持ってはいないということである。

では、イエス・キリストを正しく信じさせてくれるものは何なのか。ヨハネは二つ提示している。一つは、真理のみことばである。21節において、「私がこのように書いてきたのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知っているからです。また、偽りはすべて、真理から出てはいないからです」とある。キリストは十字架にかかられる前に、弟子たちのために、「真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です」(ヨハネ17章17節)と祈られた。みことばが真理なのである。そのみことばに堅く立ち、みことばを伝えたのが、ヨハネを始めとする使徒たちである。24節で「あなたがたは、初めから聞いていることを自分のうちにとどまらせなさい」とあるが、「初めから聞いていること」とは、初めに聞いたキリストの福音のことであり、使徒の教えのことである。真理のみことばのことである。そこから逸れていく信仰者が、牧師を含めて非常に多いという現実がある。初めに聞いた教えでは物足りなくなったのか、みことばを薄めたり、混ぜ物をしたりして、偽りの教えに足をすくわれていった。真理のみことばから離れると、結果、キリストにとどまることとは正反対のことが起きてしまうのである。ヨハネは24節後半で、「もし初めから聞いていることがとどまっているなら、あなたがたも御子と御父のうちにとどまります」と宣言する。

そしてヨハネは、イエス・キリストを正しく信じさせてくれるものとして、みことばとともにもう一つ提示する。それは聖霊である(20節、27節)。「注ぎの油」とあるのが聖霊のことである。聖霊と真理が結びつけられていることに心を留めたい。聖霊は真理のみことばと同様、私たちをキリストにとどまらせる。パウロは言っている。「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」(第一コリント12章3節)。ほんとうに、その人に聖霊が宿っているのなら、「イエスは主です」と告白するはずであるし、偽りの教えは違和感をもって排除できるはずである。なぜなら、聖霊は真理だからである。主イエスはすでに御霊が真理であることを語られていた。「わたしが父のものから出る<真理の御霊>が来るとき、その方がわたしについて証してくださいます」(ヨハネ15章26節)。聖霊は真理の御霊であり、キリストを証する霊である。また主イエスは弟子たちにこうも言われた。「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます」(ヨハネ16章13節)。使徒たちを通して真理を伝えた聖霊は今、ご自身の著書である聖書をもって、真理を伝え、キリストを証する。私たちは、みことばと聖霊によってキリストを正しく知り、キリストにとどまる。ヨハネは27節後半において、「御子のうちにとどまりなさい」と命じ、28節前半では、「さあ、子どもたち、キリストのうちにとどまりなさい」と命じている。みことばと聖霊によって、キリストのうちにとどまろう。

さて、反キリストの特徴の一つは、キリスト観が誤っているということであった。もう一つの特徴は、罪の行いを肯定するということである。「あなたがたは、神が正しい方であると知っていながら、義を行う者もみな、神から生まれたことが分かるはずです」(29節)。ヨハネが「義の行い」を口にするとき、反キリストたち、偽りの教えを信奉する人たちが、罪の行いを肯定していることを意識している。ヨハネは彼らが罪の行いを肯定することを意識して、1章から「闇」ということばを使用してきた。彼らは汚れや偶像崇拝を肯定してしまう。彼らは使徒の教え、いうなれば聖書信仰に立たないから、罪を罪とできない。現代も聖書を絶対的で客観的な規範とみなさい教えが増えてきている。聖書を参考書としてみなす程度の教えが増えてきている。結果、自分がルールブックになる。だがそのルールブックはまちがいだらけなのである。

結局、客観的な真理がどこにあるかではなく、人の主観が真理とされ、判断基準とされる。このように、人の主観を尊ぶというのが現代の霊性である。善と悪というように、二つを対立させることも好まないのも現代の霊性である。悪は善の弱い状態とみなす。善は善、悪は悪、それが聖書の価値観だが、善悪の問題をスペクトラム的に(虹のようにはっきり境を設けない)、グラデーション的にみなす。それだから、結局はすべてのことは許されるという方向に向かう。多様性という名のもとに、聖書が禁ずる在り方や行為も許してしまう。神が定めた基準の無視である。偽りの教えが、いかような神学、哲学、思想を振りかざそうと、内実は、前回の2章15~17節で学んだように、人の欲望のままに生きたいということであり、それを許してしまうということである。アダムとエバが蛇に誘惑されたように、自分が神のようになって、善悪は自分が決めるということである。そうして自分の思いのままに、自分の欲望のままに生きたいということである。私たちは、罪とは神の善悪の基準を拒み、自分の欲望に従うことであると知っておく必要がある。聖書を絶対的な規範とせず、聖書に誤りがあるという立場に立つなら、聖書にどんな戒めが書いてあろうと、受け入れたくないことは無視してしまうか、自己流の解釈をして、それは私たちには当てはまらないとしてしまうことができる。結果として、自分の欲望に従う。

私たちは使徒ヨハネが望むような信仰の歩みを続けたいと思う。ヨハネは、今日の区分で、「とどまる」ということばを多く使っているが、彼の願いは、私たちが反キリストの教えの誤りを見抜いて、見破って、キリストにとどまることである。「さあ、子どもたち、キリストのうちにとどまりなさい。そうすれば、キリストが現れるとき、私たちは確信を持つことができ、来臨のときに御前で恥じることはありません」(28節)。キリストのうちにとどまろう。使徒たちが教えるキリストとはどういうお方なのか、キリストの意志はどこにあるのか、キリストの願いはどこにあるのか、それを知ることに努め、キリストと一つとなって歩んで行こう。