今日の区分は、「あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません」で始まっている。世に住んでいるのに、「世も世にあるものをも愛してはいけません」とはどういうことだろうか。ヨハネは「世」<コスモス>という用語を多用していて、ヨハネの手紙第一だけでも23回登場している。それでは「世」とは何を意味するのだろうか。それは一つの表現でまとめてしまえるほど単純ではない。文脈で「世」の意味するところには変化がある。ヨハネの手紙第一では、「世」は良い意味では使用されていない。15節では「世を愛してはならない」と言われているわけである。それで思い起こすのが、有名なヨハネの福音書3章16節のみことばである。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに<世を愛された>。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。こちらでは、神が「世を愛された」ということが書かれている。けれども、今日の箇所では「世を愛してはならない」と命じられている。
「世」とは本来、神が創造された世界である。神がこの世界を造られたときのことについて、創世記1章31節は、「神はご自身が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった」とある。しかしご存じのように、この世界に罪が入った。地は呪われ、人々は罪人になった。具体的に人間はどうなったのかと言うと、この世界を造った神を知らず、また神に敵対する者となった。だが神は、このような世の人々を(私たちを愛しておられる)。ヨハネ3章16節で「神が世を愛された」というときに、神を知らず、神に敵対する世の人々を神が愛されたということである。「世を愛された」の「世」とは、この世界に住む罪人に焦点が置かれていることは、3章16節の後半の、「それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」からも明らかである。神はご自身を知らず、ご自身に敵対する世の罪人をなお愛しておられ、救おうとされている。
では第一ヨハネ2章15節において、愛してはいけないとされている「世」とは何だろうか。それは世の人々ではない。この場合、神に敵対する世の価値観や態度が念頭にある。パウロもそのことを念頭に、「この世と調子を合わせてはいけません」(ローマ12章2節)と命じている。そして覚えておきたいことは、ヨハネの場合、「世」に悪魔の支配を見ているということである。「私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを、私たちは知っています」(第一ヨハネ5章19節)。ヨハネは、神に敵対する存在が世を支配していることを告げている。それゆえに世の風潮はよろしくない。世の価値観や態度は誤っている。
世を愛してはならないという教えの序曲は、前回学んだ2章12~14節である。前回お話したように、2章15~17節は、12節から始まる段落の後半である。14節を見ていただくと、「悪い者に打ち勝ったからです」という文章で終わっている。私たちが悪い者に打ち勝ったと言えるのは、主イエスが悪い者に打ち勝ったからである。参考までに、ヨハネの福音書16章から二箇所読もう。11節を見ていただくと、「この世を支配する者がさばかれたからです」と、悪魔が「この世を支配する者」と呼ばれている。主イエスは「この世を支配する者がさばかれた」と言っておられる。次に33節で主は、「わたしはすでに世に勝ちました」と言われている。これは、悪い者に打ち勝ったということの言い換えである。「すでに世に打ち勝ちました」「この世を支配する者がさばかれたからです」が実際に成就するのは十字架と復活においてであるが、それは確実なので、ここで先取りをした表現となっている。私たちは、キリストが打ち負かそうとし、実際、打ち負かした敵にしっぽを振るというのはあり得ないわけである。私たちは今、キリストにあって悪い者に打ち勝った者であり、神に属する者たちである。にもかかわらず、世を愛し、慕うというのなら、それは「豚が身を洗って、また泥の中にころがる」と一緒で、勝った敵に対して奴隷か捕虜になることを望んでいるようなものである。
ここで実際に「世を愛する」ということはどういうことかを考えて見よう。「愛する」ということばは第一ヨハネ2章10節でも使われている。そこでは「自分の兄弟を愛している人は」とある。世の人々や主にある兄弟姉妹の幸せのために愛することは奨励される。けれども15節の「世を愛する」というのは、自分の欲望を満たすため、自分の快楽のためである。自分、自分である。世はこの目的を遂げさせてくれる。だから、続く16,17節において、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」といった欲望について言及されているのである。
悪魔の価値観に服し、この世の欲に負ける最初の実例は、アダムとエバである(創世記3章)。世の初めに、悪魔はアダムとエバの誘惑において、神が禁じた木の実に手を伸ばすようにと誘惑した。神の価値観は、「それを食べると死ぬ。それは食べてはならないものだ」。しかし悪魔の価値観は、「それはあなたにとってとても良いものだ。食べても死なない。美味であるし、神のようになれる。だから食べたほうが良い」。こうして欲が一気に解き放たれ、結果はご存じの通りである。これと同じことが繰り返される。
ヨハネは、「もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません」(15節後半)と語る。もし私たちのハートが二つあるなら、一つは世に捧げ、もう一つは神に捧げるということが可能である。しかし現実としてハートは一つしかない。もしそのハートを世に捧げたのなら、神を愛していないということである。「御父の愛」は、以前の新改訳第三版では、「御父を愛する愛」となっていた(欄外注参照)。「御父の愛」は「御父への愛」、すなわち「御父を愛する愛」と採ることが自然である。世を愛することの対比で、「御父を愛する愛」と解釈できる。そして「御父の愛」の解釈はもう一つの可能性がある。続く16節との絡みでは、「御父の愛」は、「御父に帰属する愛」「御父固有の愛」と採るのも自然である。ヨハネは16節で、世を愛する諸々の欲望は御父から出るものではないことを告げている。もし世を愛しているなら、その人のうちには、御父由来の、御父から出た、御父に起源のある、もともと御父に帰属する、御父本来の神的愛はないということになる。新改訳2017の訳は直訳であって、「御父の愛」は「御父に帰属する愛」「御父固有の愛」の解釈の可能性を残している。いずれにしろ、世を愛している人は、欲はあっても、神を愛する愛も、神本来の愛もないということである。
私たちは、世を愛してはならないというときに、次のヤコブのことばも参考にしたい。「節操のない者たち。世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです」(ヤコブ4章4節)。世を愛することは神に敵対することであって、神を愛することではない。世を愛するというのは、罪人であるならば誰しもが経験することである。お金や快楽や自己栄誉を求める過程で空しさを感じることはある。けれどもアダムの子孫である私たちは、こうした世の欲に弱い。私たちは湯船に浸かったとき、「ああ、いい湯だ」と心地よさを感じる。そうした心地よさを世に求めてしまう。また実際、そう感じてしまう。一時でもそう感じる。それは、欲が満たされることにおいてである。湯冷めのような後味の悪さを覚えることになっても、後先を考えられなくなり、世の欲を求めてしまう。そしてアダムとエバと同じ過ちを犯す。
「欲」ということばは「熱心に求めること」を意味することばである。熱心に求めて、それをどうしても手に入れたくなる。ヨハネはその欲を、16節において、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」として説明しているわけであるが、では続いて、これら三つの欲を順番に見ていこう。
最初に「肉の欲」である。肉の欲は、肉のからだが熱心に求めることである。行き過ぎた食欲であったり、性的な快楽であったり、むさぼりそのものが肉の欲と言えるだろう。イスラエルの民は、荒野の四十年の旅において、「あれが食べたい、これが食べたい」とわめくことになった。また性的快楽に溺れた。肉の欲というのは、続いての「目の欲」、「暮らし向きの自慢」に連動している根本的な欲である。だから最初に挙げられているとも言える。あたりまえながら、肉の欲は神には向かわない。どこに向かうかと言うと、この世に向かう。そして、この世に属することばかり考えさせ、それらを欲しい欲しいと熱心に求めさせる。
二つ目は「目の欲」である。私たちは目をつむっていても欲はあるが、目はやはりこの世との接点になるわけである。目が人の心のチャンネルになるわけである。自分で切り替えて、いろんなものを見て、心にその映像を焼きつけて、それが欲しいとなるわけである。禁断の実を見たエバがそうであった。目で見て、手に入れたくなるのが私たちだが、目の欲はコントロールが効かなくなる。ある方が、目は罪深いと言ったが、それは目の欲があるからである。
三つめは「暮らし向きの自慢」である。別訳では、「生活のおごり」「持ち物の誇り」「見栄を張った生活」といった訳もある。神さまが日々備えて下さるもので満足して生活するのとはほど遠い感じがする。「暮らし向きの自慢」の「自慢」<アラゾネイア>ということばは、<アラゾーン>ということばに由来している。<アラゾーン>の意味は、「うぬぼれのほら吹き、大言壮語する者、空威張りする者、見栄を張る者」である。したがって「自慢」と訳されている<アラゾネイア>の意味は次のようになる。「「他人に印象づけるために外側を良く見せようとする人の自慢」「見栄を張って相手に良く見せようとする人の自慢」。秋田弁の「ええふりこき」を思い起こした方もいらっしゃるかもしれない。何を自慢するかと言えば、「暮らし向き」ということだが、それは「生活」に関して、特に「持ち物」に関してである。天の御国に持っていくことができはしない家、資産、所有しているもろもろのものを誇る。だが私たちは、そうしたものを追求し、それらを誇るのではなく、「神の国とその義とを第一に求めなさい。そうすれは、それに加えて必要なものはすべて与えられます」という主イエスの教えを信じ、それを生きていくわけである。
ヨハネは、16節でこの世の欲の起源もはっきりさせている。「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです」。肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は「御父から出るものではなく」とあるように、神さまに帰属せず、起源は神さまにない。それらの欲望は神さまから発出しない。それは「世から出るものだからです」とあるように、この世に帰属し、この世に起源を持ち、この世から発出するものである。神からは出ない。次の認識も併せて持ちたい。
「世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます」(17節)。一時的なものにすぎず、やがて「過ぎ去ります」と言われているのは、「世と、世の欲」。それに対して、「永遠に生き続けます」と言われているのは、「神のみこころを行う者」。その人は、神に起源のない、神から発出しない世の欲にノーと言って、神を愛し、神の意志に従う者のことである。その人が永遠に生き続ける。それに対して、世と世の欲は永遠に過ぎ去る。
私たちは今日の箇所を通して、世と世の欲は愛してはならないことを教えられた。実は、「愛する」ということばは「慕う」とも訳せることばである。神を慕うのか、世を慕うのか。主イエスを慕うのか、この世を慕うのか。神の国を慕うのか、この世を慕うのか。私たちの心は何を慕い求めているのか、改めて振り返ってみよう。私たちは、神を、主イエスを、神の国を慕い求める者たちでありたい。
最後に、世に対して持ちやすい誤った態度について付け加えておきたい。世は悪であるからと厭世的になってしまう人がいる。悪である世から、煩わしい世間から距離を置いて生活しようと。そして世に対しては皮肉と非難のまなざしだけを向けて生きていく。しかし、聖書の教えは、私たちが地の塩、世の光になることである。主イエスは、「あなたがたは地の塩です」、また「あなたがたは世の光です」(マタイ5章13,14節)と言われた。「あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです」(マタイ5章16節)とも言われた。だから、厭世的になるのは望ましくない。主イエスは十字架につく前に、弟子たちのためのとりなしの祈りにおいて、「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました」(ヨハネ17章18節)と祈っている。私たちは世に遣わされた。そして、遣わされたこの世でキリストにならうということである。キリストは庶民の一員として生きられ、そればかりか、人々に顧みられないアウトカーストの人々の仲間にさえなろうとされた。そこで神の教えを時、神の愛を実践された。キリストに敵対するパリサイ人たちは傲慢で、自分たち以外の存在を、いわば世的と見下し、付き合うのもなるべく避けていたが、そうであってはならない。「罪を憎んで人を憎まず」ということわざがあるが、この世に住む人々はすべて神の愛の対象である。世と世の欲を愛してはならないが、キリストが愛されたように世の人々を愛するというバランスを保ち、神を証し、神の国に希望を置いて生きていきたいと思う。

