現代では、「勝ち組」「負け組」ということばが使われる。これらのことばは、社会的地位や経済的地位の優劣を表わすことばである。そこを意識して一喜一憂してしまうのが私たち人間だが、聖書は、ほんとうの意味での勝利者は、社会的地位や経済的地位のことではないことを告げている。
ヨハネは本日の箇所の前に、闇について言及していた。「しかし、自分の兄弟を憎んでいる人は闇の中にいて、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのかがわかりません。闇が目を見えなくしたからです」(11節)。「闇が目を見えなくしたからです」と、闇の中を歩む者たちは霊的に盲目になっている。ヨハネは、あなたがたは霊の眼を開いて、自分たちに与えられたすぐれた特権を知りなさいと言わんばかりに、本日の箇所を記す。
12~14節は、前後の文章と違って、一定の形式で書かれている。信条、信仰告白、讃美歌、そういったものと似た形式となっている。12,13節が一番、14節が二番といった内容である。12,13節では、「私があなたがたに書いているのは」という現在形の表現が三つある。14節ではそれに対して、「私があなたがたに書いてきたのは」と、過去形で三つ書かれている。しかし、そこで言われていることは似た内容となっていて、場合によっては繰り返しであったりして、大切なことであるから心に留めよという著者の意図を感じる。
呼びかけの対象も説明しておきたい。呼びかけの対象の理解について、しばし混乱が見られる。12節の最初に「子どもたち」とあり、14節の最初に「幼子たち」とある。対象は同じで、すべての読者たちであり、すなわち、すべての信仰者のことである。ヨハネは、読者たちに親愛の情を込めて、「子どもたち」また「幼子たち」と呼んでいる。年齢の低い者とか霊的に未熟な者に限定して、そう呼んでいるわけではない。ある人たちは、「子どもたち」は比較的若い信仰者への呼びかけだと主張する。けれども、そうではない。2章1節では、「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは」と執筆目的を伝えている。この手紙の最後の文章は、「子どもたち、偶像を警戒しなさい」(5章21節)である。「子どもたち」というのは、明らかにすべての年齢層への呼びかけである。しかし、「幼子たち」は「幼子たち」であって、かなり年少の者たちが意識されているのだろうよ、と言うかもしれない。そうでないことは、2章18節を読んでもわかる。「幼子たち、今は終わりの時です…」(3章7節も参照)。ヨハネは信仰者全般に呼びかけているのである。ヨハネは年齢問わず、キリストを信じたすべての信仰者を対象に、「子どもたち」「幼子たち」と呼びかけている。
「子どもたち」「幼子たち」に続く対象が「父たち」である。13節冒頭に「父たち」とあり、14節四行目に「父たち」とある。これは単に年齢が進んだ人たちということではなく、キリストを信じた後の信仰年齢が進んだ人たちで、霊的に成熟していることが想定されている人たちである。三つ目の対象が「若者たち」で、13節四行目に「若者たち」とあり、14節七行目に「若者たち」とある。彼らはただ若いというだけでなく信仰年齢の浅い人たちで、霊的にはまだ未熟かもしれない。このように見ていくと、ヨハネはまずすべての信仰者に呼びかけ、次に「父たち」、最後に「若者たち」と順を踏み、それを二回繰り返していることがわかる。一定のスタイルで書いている。これにメロディをつければ讃美歌になる。
大切なことは、私たちがどのようなものにされているのかと著者が語っているのかということだが、それを順次見ていこう。「子どもたち。私があなたがたに書いているのは、あなたがたの罪が赦されたからです」(12節)。これが冒頭に来ている。罪の赦し、これが最も大切なことで、これがなければ、神と断絶したままで、神を御父と呼ぶ神の子の立場もないし、滅びを待つしかない、ただのちりにしか過ぎない罪人として生きていくしかない。問題の元凶は、神との断絶をもたらしている罪である。この罪のために、2章2節で言われているように、キリストは私たちの罪のための宥めのささげ物として来てくださった。私たちはキリストを信じる信仰によって罪赦されている。また1章9節で学んだように、これからも罪の赦しを体験できる。キリストが十字架上で流された血潮のゆえに、である。罪の赦しはありがたいなぁという実感は、年齢が進むほど湧いて来る。自分の積もれる罪、後悔してもどうにもならない罪、そうした罪が悔い改めと信仰によって、ただ恵みによって赦されたことを知る時、罪の赦しほどありがたいものはないと知る。世の人は罪の赦しよりもご利益を願う。だが、真の信仰者は罪の赦しを喜ぶ。
「父たち。私があなたがたに書いているのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです」(13節a)。「初めから」という表現で思い起こすのは、この手紙の冒頭のことばである。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわちいのちのことばについて」(1章1,2節)。初めからあったいのちのことば、すなわち、それはキリストである。ヨハネは福音書においても、冒頭で「初めにことばがあった」と、キリストを宇宙の歴史の初めの存在、万物に先立つことばなる神として紹介している。偽りの信仰者たちは、キリストを霊的な存在と認めていても、ヨハネが語るようには信じていなかった。すなわち、「初めからおられる方」として信じていなかった。キリストはまがいもなく「初めからおられる方」である。私の場合、私をキリストを信じる信仰に至らしめたのは、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(ヨハネ1章1節)のみことばであった。永遠の初めにおられた「初めからおられる方」を知った時の感動は、人生で味わったことのない一番の感動であった。
「若者たち。私があなたがたに書いているのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです」(13節b)。まず「悪い者」とは誰だろうかと考えるわけである。実はヨハネはこの手紙において、「悪い者」という表現を五回使用している。その最初がこの節である。一番最後に使用されているのが5章19節である。読んで見よう。「私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを、私たちは知っています」。続く20節も読んで見よう。「私たちは真実な方のうちに、その御子キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです」。「悪い者」とは悪魔であると知る。そして悪魔に打ち勝たれた存在がキリストであり、私たちはそのキリストのうちにある。悪魔は闇そのものと言えるが、闇に打ち勝たれたお方がまことの光キリストである。闇は光に打ち勝てない。私たちはそのキリストのうちにある。私たちはキリストにありて、すでに勝利者である。ヨハネがなぜ若者たちに対して「あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです」と教えているのかと言えば、若い者はまだ霊的戦いに不慣れだからだと思う。まだ戦いに慣れていない。罪に直面し、罪と戦う時に、罪の誘惑に負けやすい。罪の背後にいる悪魔への意識も薄い。そして自分の力で打ち勝とうと失敗し、そのうち、惰弱な自分を嘆くことだけにもなってしまう。だがヨハネは、「キリストは悪い者に打ち勝った。我らはキリストのうちにいる。我らはキリストにありて勝利者だ」という霊的真理を、まず植え付けようとしている。その上でこれからの戦いを戦うように促している。
ヨハネは戻ってすべての信仰者に呼びかける。「幼子たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが御父を知るようになったからです」(14節a)。罪赦され、神の子どもとされるというのが、信仰者の特権である。罪人にすぎない私たちであるにもかかわらず、神を知り、神を「アバ、父よ」と呼びかける特権をいただいた。「天の父なる神さま」と祈り、頼る特権をいただいた。神を信じる前、私たちはいったい誰に頼っていたのだろうか。肉にすぎない自分か、それとも他人か、他の神々か。今、皆様は、神さまを信じ、神さまに頼って生きることができる毎日に安堵しているはずである。神さまを知らないで不確かな一生を生きることは恐ろしくて考えられないはずである。神さまを知り、神の子どもとして生きることができる幸いに感謝したいと思う。
「父たち。私があなたがたに書いてきたのは、初めからおられる方を知るようになったからです」(14節b)。キリスト教とはキリストである。初めからおられたキリストを信じることが信仰の土台である。時経ってこの世界にまことの人として来てくださったまことの神であるキリスト、このお方を信じているかどうかが、ほんとうの意味で神を知っているかどうかの試金石なのである。そしてこのキリストを信じ、キリストとともに歩むということが、真の信仰者の歩みである。神の名を口にする教えはいくらでもある。掃いて捨てるほどある。またキリストへの尊敬を口にする宗教も多い。だがキリストをまことの神として、「初めからおられる方」として信じていないならば、それは偽りなのである。けれどもヨハネは、「あなた方はそうじゃない。『初めからおられる方を、あなたがたは知るようになった』」と言っている。「初めからおられる方」を信じるキリスト信仰が信仰の土台である。
「若者たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが強い者であり、あなたがたのうちに神のことばがとどまり、悪い者に打ち勝ったからです」(14節c)。13節の表現と違うのは「あなたがたが強い者であり、あなたがたのうちに神のことばがとどまり」という事実を加えているということである。「強い者」と言われる所以は、悪い者に打ち勝ったからである。どのようにして悪い者に打ち勝ったのかと言うならば、神のことばがとどまったからである。ヨハネが、ここで悪い者を意識しつつ、「あなたがたのうちに神のことばがとどまり」というときに思い出すのが、キリストの次の祈りのことばである。十字架に向かう前の祈りのことばで、弟子たちのためのとりなしである。「わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です」(ヨハネ17章15~17節)。先ほど読んだ第一ヨハネ5章のみことばにあったように、世全体は悪い者の支配下にある。しかし、主は、弟子たちをこの世から取り去ってくださいとは願わず、悪い者から守ってくださるように願う。どのようにして守っていただくのか。それは真理のみことばによってである。真理のみことばを信じる信仰が彼らを神の側に取り分ける。真理のみことばは彼らをキリストのご支配の中に置く。パウロはコロサイ人の手紙でこのように述べている。「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました」(コロサイ1章13節)。私たちは真理のみことばを通して、まことの光キリストを信じる信仰によって闇から光に移された。闇は光に打ち勝てない。私たちはキリストにありて勝利者となったのである。
ヨハネが「悪い者に打ち勝った」とこのように書いている理由は、もう戦いというものは一切ありませんよ、ということを言いたいためではない。その反対である。ヨハネは、キリストを信じる者がこの世にいる間、霊的戦いが続くことを知っていた。だが、その戦いは負け戦の戦いと思ってはならない。実は続く2章15~17節は、12節から続く段落の後半部分である。つながっているのである。15~17節では世と世の欲について記されているが、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢といった世の欲が私たちに襲いかかることが記されている。世そのものは悪い者の支配下にある。悪い者の戦略は私たちを世の欲にいざなうことである。そこで世の欲との戦いが起こる。これが信仰者の具体的な戦いの一つである。皆さんもそうだろう。悪い者の戦略は、世の欲に誘うということである。ヨハネはこれを意識しながら、今日の区分において、悪い者に対して私たちは勝利者の立場にあることを語る。私たちは力関係五分五分の敵と戦うのではない。キリストが勝利者であるゆえに、キリストに対する信仰そのものが勝利となるのである。信仰は勝利なのである。この信仰を働かせるということである。
私たちは今朝、自分たちがどのような者とされているのか、四つの事柄を学んだ。第一は、罪が赦された。それは罪人にとって一番ありがたい恵みである。肩の荷が軽くなって、暗い刑務所から足取り軽く出所するような、いやそれ以上の喜びである。第二は、御父を知った。御父は人格の根源であり、まことの神である。放蕩し、迷子になっていた私たちは、帰るべき御父のもとに帰ることができた。御父は私たちをご自身の子どもとしてこれからも導いてくださる。第三は、初めからおられる方を知った。初めからおられる方、永遠から永遠まで生きておられることばなる神、キリストを知ることができた。キリストこそが私たちの救い主である。第四は、悪い者に打ち勝った。私たちはキリストにありて、すでに勝利者の立場にある。キリストは勝利者である。キリストはまことの光、闇は光に打ち勝てない。光は闇を打ち消す。そして私たちはキリストのうちにある。私たちはキリストにありて勝利者である。これらの事実は、なんてすばらしいことだろうか。感謝してもしきれないようなことである。私たちは、どうしても、この世の暗い現実や、また家庭や社会で置かれている自分のつらい立場や、情けないような自分の弱さにだけ心を奪われて、沈んでしまいがちだが、私たちはどのような者とされているのか、深呼吸して、落ち着いてみことばに心の目を開き、自分に与えられている特権に感謝しよう。そうして、信仰を働かせ、キリストとともに勝利ある人生を歩んで行こう。キリストが勝利者であるゆえに、キリストに働かせる信仰も勝利となるのである。

