ヨハネはこの手紙において、「命令」ということばをたくさん口にしている。「命令」ということばが好きだという人はいるだろうか。好まれている二字熟語を調べると、どこを調べても「命令」の二文字はなかった。二字熟語では、勇気、前進、青春、そういった響きを誰しもが好む。命令はあまり耳にしたくない。命令されたくないのが私たちである。ですが、ヨハネが言う命令は、神の命令のことである。だから、聞き逃すわけにはいかない。神の命令は、一番最初には、2章3節で言われている。ヨハネが神の命令を口にするとき、どのような命令を思い描いていたのだろうか。少し先に進んで、3章23節を読んでみよう。「私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおり互いに愛し合うこと、それが神の命令です」。「キリストが命じられたとおり互いに愛し合うこと」、それが神の命令なのである。ヨハネはこの神の命令を、今日の区分において「新しい命令」として提示する(8節)。本日は、この新しい命令について学ぶが、この新しい命令は、神の愛が前提としてある。私たちは神に愛されている。その神の愛は海よりも深く、天よりも高いものである。ヨハネは、今日の区分を「愛する者たち」という呼びかけで始めている(7節)。「愛する者たち」<アガペートイ>ということばは、神の愛である<アガペー>に由来している。<アガペー>は、神の無条件の愛、私たちの功績と全く関係なく私たちの上に惜しみなく注がれる愛、十字架の愛、キリストの愛である。それは計り知れない大きさをもつ無限の愛である。この神の愛が私たちに注がれている。「愛する者たち」とは、ヨハネの読書への呼びかけだが、これは読者が、また私たちが、神によってアガペーの愛で愛されているという事実が根底としてある。神の愛はキリストによってはっきりと示された。神のキリストは私たち人間のレベルまで下って、罪人の仲間となり、十字架で私たちの罪の負債を負い、身代わりとなっていのちまで捨ててくださった。神はその愛をもって今も私たちを愛してくださっている。この愛に心を開くことが神の命令に従う基礎である。
ヨハネは愛する者たちに対して、古くて新しい命令に言及する。「愛する者たち。私があなたがたに書いているのは、新しい命令ではなく、あなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いているみことばです」(7節)。ヨハネは、今まで一度も聞いたことがないような新しい命令について話そうとしているのではない。そうではなくなく、それは読者がすでに知っている命令であり、初めから持っていた古い命令である。「あなたがたが初めから持っていた」の「初めから」というのは、福音を聞いた時からということである。では、読者は福音を聞いた時、どのような命令を受けたのだろうか。それは、直近の10節の「兄弟姉妹を愛している人は」がヒントになるが、それはキリストが与えた命令のことである。その箇所を開いてみよう。
「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたを互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」(ヨハネ15章12節)。「愛しなさい」という命令は旧約聖書にもあった。だが、「わたしがあなたがたを愛したように」というのは愛の新しい範例である。キリストにならうという愛の範例である。そしてこの愛は、ご自身を信じる者同志の愛に反映されるべきなのである。こうして愛の命令は主イエスによって更新された。だから主イエスは、ヨハネ13章34節において、「新しい戒め」と呼んでいる。「新しい戒め」の「戒め」は、実は「命令」と訳されていることばと同じである。だから、「新しい戒め」とは「新しい命令」である。だが、この「新しい命令」は、すでに聞いていたという意味では、読者にとっては何も新しくはない。「あなたがたが初めから持っていた古い命令」である。読者にとっては古い命令なのだけれども、ヨハネはこの命令を古びさせたくはない。永遠に真理だからである。だからいつも新しい命令として受け取って欲しい。ヨハネは8節前半において、「私は、それを新しい命令として、もう一度あなたがたに書いているのです。それはイエスにおいても真理であり、あなたがたにおいても真理です」と語る。ヨハネは、彼らに新しい義務を課そうとしているわけでもなんでもない。そうではなく、すでに聞いている命令なのだけれども、それは神のキリストの大切な命令であり、それは永遠不変の古びることのない真理であるので、「新しい命令として」と念を押して提示する。それは兄弟愛の実践であり、主にあって互いに愛し合うことである。
ヨハネは、「互いに愛し合いなさい」と、耳にたこができるほど、教会で語っていたようである。ヨハネがいつも同じことを繰り返すので、飽き飽きした教会員たちが、「先生、どうしていつも同じことを言われるのですか」と尋ねたときに、「これが主が命じられた使信である。もしこのことが守られるなら、それで充分である」と答えた、という逸話が残っている。
私たちはこの命令を守るにあたり、主イエスの「わたしがあなたがたを愛したように」というおことばを思い巡らさなければならないだろう。ペテロをはじめとする愚鈍な弟子たちへの主イエスの愛はどうだっただろうか。主イエスは弟子たちに、「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ15章13節)と語られたが、弟子たちを友と呼び、いのちを捨て、この愛を実践されることになる。また弟子の予備軍ではあったが、人々に嫌われていた罪人、取税人、遊女、障がい者、病人、異邦人への愛はどうだっただろうか。それらはすべての福音書に記されている。キリストは罪人の仲間となることをよしとされた。アウトカーストの立場の人たちのところまで降りていかれた。そして彼らのニーズに応えようとされた。またご自分の人生を振り返ってみよう。救われる前のあなたに対するキリストの愛はどうだっただろうか。そこにもキリストの愛の足跡を見なければならない。子ども時代からのことを振り返ってみよう。キリストの愛の足跡を見出すことができるだろう。次に、救われる時はどうだっただろうか。救いの物語の中にキリストの愛を発見する。十字架を仰ぐことになる。そして、救われた後も罪と失敗を重ねることがあったあなたに対するキリストの愛はどうだっただろうか。そこにキリストの忍耐と赦しの数々、そして助けの御手を見出すはずである。こうして、「わたしがあなたがたを愛したように」を各自が受け止めて、その上で神の愛を実践したい。
ヨハネは愛の命令に続いて、8節後半から光と闇について語っていくが、この流れを不思議に思ってはならない。ヨハネはキリスト者(兄弟姉妹)を愛していない偽りの信仰者(異端)を意識しながら書いている。それだから、光と闇という表現が使われることになる。9節で「光の中にいると言いながら」という表現があるが、似たような文体がこれまでもあった。1章6節では「神と交わりがあると言いながら」とあり、2章4節では「神を知っていると言いながら」とある。どれも当時の偽りの信仰者たちが意識されている。異端グループは、自分たちは光の中にいると主張していたようである。ヨハネは、ほんとうに光の中にいるかどうかは兄弟愛によって証明されると言うのである。2章9節また11節で「闇の中にいる」とあるが、「闇の中にいる」とは具体的にはどういうことであろうか。それは、偽りを真理と取り違えていることであり、罪を罪とも思わず罪深いふるまいをしていることであり、その罪には、キリスト者との交わりを嫌い、憎むことが含まれる。それが偽りの信仰者たちの姿であった。「自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです」と、兄弟愛の命令を守ろうとしない者は闇の中にいるとぶった切る。憎しみは闇の一つなのである。そして、光と闇は何の関係もないのである。ただ、注意したいのは、憎むことがあるから救われていないということではなく、憎み続けているなら救われていないということである。9,11節の「自分の兄弟を憎んでいる人」は、原文において、「兄弟を憎み続ける人」ということである。憎んだことがある、だから救われていないということではない。しかしだからといって憎んで良いということにはならない。主の命令は、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」である。
このような話がある。ある兄弟は、一人のキリスト者に憎まれていた。あるキリスト教の大会があった時、その兄弟は自分を憎んでいるその人のところへ行って、「お元気ですか」と言って抱擁した。抱擁された人は、「抱きしめないでください。あなたを愛していません」と言った。ところがそれでもめげず、その兄弟は「愛しています」と言った。それに対して憎しみを抱いている彼は、「わたしはあなたの敵だ。あなたを愛することはできない」と言った。それでもめげず、その兄弟は言った。「主を賛美します。あなたがわたしの敵であることは知っています。しかし、これは敵を愛するチャンスです。イエスさま!わたしの敵のゆえに感謝します。どうぞ、敵を祝福してください」。このあと、二人の関係はみごとに回復し、友人同士になったということである。私たちは感情の動物だから、あのとき無視された、キッと睨まれた、すげないことばを返された、そうした一瞬のことでも赦せなくなり、感情は戻らず、関係がこじれることがある。けれども、「わたしがあなたがたを愛したように」という主の愛に立ち戻って、祈り、行動に移していくのが本当のキリスト者である。
これとは正反対の姿、11節の「しかし、自分の兄弟を憎んでいる人は闇の中にいて、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのかが分かりません」という姿は、完全に霊的に盲目になり、何が真理で何が罪かもわからなくなり、つまずいては罪を犯し、しかしそれが罪であるとも気づかず、しまいには滅びの穴に落ちてしまうような姿である。これが一番悲惨である。
最後に、私たちが光の中を歩むために、8節後半の「闇が消え去り、まことの光が輝いているからです」に注目したい。これを理解することが、愛の実践においてとても大切である。まず「闇が消え去り」であるが、「闇が消え去り」は原文において、「闇は消え去りつつある」という意味合いである。まだ完全に消え去ってはいない。けれども、闇が消えて行くというのは現在進行形の状態で、やがて完全に消え去る。闇とは罪に支配された領域である。罪深い欲望や罪深いふるまいがその特徴である。愛さないこともそうである。だが、闇は消え去りつつあり、やがて消え去る。実は、ヨハネが「闇が消え去り、まことの光がすでに輝いているからです」と語ったとき、時代は暗かった。それは、罪がのさばっていたというだけではない。また、偽りの教えが人々を惑わしていたというだけでもない。当時はローマ皇帝がキリスト者を迫害しており、闇の力が教会を包み込むような暗い時代であった。ヨハネももうすぐパトモス島という島に遠島になる運命だった。では、ヨハネはこの時、現実を見ていなかったのだろうか。そうではない。ヨハネは現実世界を知っていた。そのひどさ、暗さを実感していた。だがヨハネは目に映るこの世の外観や闇だけを見て発言したのではなく、霊のまなこを開いて、「闇が消え去りつつあり、まことの光がすでに輝いているからです」と発言したのである。まことの光がすでに輝いている。そして彼は、まことの光が闇を完全に消し去ってしまうことを知っていた。そして、今日も明日も、まことの光は闇に打ち勝つことを知っていた。闇は、偽り、汚れ、欲望、憎しみ、そうしたこの世の暗さのすべてを物語っており、私たちもその影響を受けてしまいかねない。だが、まことの光がすでに輝いている。それは闇を消し去る光、闇に打ち勝つ光である。ここに希望がある。では、すでに輝いている「まことの光」、闇に打ち勝つ光とは何のことか、誰のことだろうか。それはイエス・キリストのことである。
ヨハネの福音書の次の箇所を読もう。「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」(1章4,5節)。「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた」(ヨハネ1章9節)。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます」(8章12節)。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分かりません。自分が光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい」(12章35,36節)。「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです(12章46節)。
これらの箇所を読んで、闇にいざなわれる私たちは心に力が湧いて来ないだろうか。私たちはキリストがまことの光であり、私たちはキリストを信じているがゆえに闇ではなく光の側にあること、そして闇は光に打ち勝てないという真実を肝に銘じたい。そして、この事実が、対人関係において大きな意味がある。私はある時、ある人に対して、きりきりと憎んでいるというわけではないけれどもマイナスエネルギーしか向けられないというか、その人を恐れるというか、愛せないというか、気持ちが逃げてしまうというか、けれども、今日その人に会って一緒に過ごさなければならないというとき、このままではだめだ、リッセトしようということで、祈りながらみことばを求めた。その人の顔を思い浮かべると、会いたくもないし、愛せもしない。その人のことを考えると、心は騒ぎ、胃まで痛くなって来る。そこで、「主よ、みことばをください」と祈った。その時、心に強く思い浮かんできたみことばが、以外にも、「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1章4,5節)であった。自分の心が相手の黒っぽい感情を恐れ、しり込みし、その人に対する自分の愛のない思いに負けそうになって葛藤していたわけだが、キリストはまことの光であり、自分は光の子で、光は闇に打ち勝つのだ、とその真実が心にストンと落ちたとき、心にキリストのいのちが働いて、平安が訪れた。勝利が来た。そしてその後、その人にマイナスエネルギーを向けることなく、主の愛でその人と接することができた。
万が一、憎しみの感情に捕らわれてしまい、それが続いてしまうなら、悔い改め、早く脱した方が良い。憎しみの原因は、罵倒されたとか、理不尽な扱いを受けたとか、相手に原因がある場合が多いかもしれない。相手の正当な非難を自分が素直に受け止めきれないところから来たかもしれない。いずれにしろ、憎しみという感情そのものは闇に属するものである。私も憎しみの感情を何日も持ち続けてしまい、まことの光であるキリストの臨在を失った経験がある。本当に心に闇が来た。自分の周囲全体も暗くなったように感じた。けれども、それに気づけたからまだ良かった。主にその罪を告白した時、主の臨在は戻った。私たちは光の中を歩むために召されている。それ以外ではない。
今日の箇所から、私たちは、主の新しい命令を心にとどめよう。そして、主が闇に打ち勝つまことの光であることを覚え、闇ではなく、光の中を歩んで行こう。

