今日の記事は、オリーブ山での主イエスの捕縛の場面である。この直前に、主イエスは祈りの格闘をし、これから訪れようとする最大の試練に備えることができた。祈りは妨げられることはなかった。こうして主イエスはこれからの試練において、父なる神に従順を貫くことになる。十字架刑を通して人類のための贖いのみわざを成し遂げられることになる。反対に、弟子たちは「誘惑に陥らないように祈っていなさい」との主の警告に従い得ず、眠りこけてしまい、霊的に無防備になり、苦い思いをすることになる。

今日の場面は三つに分けることができる。それを順次見ていこう。第一の場面は、口づけによるユダの裏切りである(47,48節)。群衆の先頭に立ってユダがやってきた。この群衆とは一般庶民が暴徒となって現れたものではなく、ユダヤ当局が遣わした人たちである。ヨハネ18章3節では、「それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たちを連れ」とあり、一隊の兵士たちも動員されたことがわかる。「一隊の兵士」とは、ローマ軍隊の一単位で通常は六百人であるが、そこまでの人数が駆り出されなくても、相当数の兵士たちも動員されただろう。とにかく、主イエス一人逮捕するのに、「群衆」と言われるかなりの人数でやってきたということである。ショックなのは、その先頭に十二弟子の一人のユダが立っていたということである。「ユダという者が先頭に立っていた」とある。敵の先頭に立っていたのが側近の弟子の一人。驚くべき光景である。このユダには22章3節を見ればサタンが入っていたことがわかる。だから、敵の先頭はサタンと言って良い。

ユダは主イエスに口づけしようとして近づく。「ユダはイエスに口づけしようとして近づいた」。口づけはあいさつの表現の一つであったが、それは親しい者への親愛の表現であった。ユダにとってこの行為はある意味が込められていた。マルコ14章44節にはこうある。「イエスを裏切ろうとしていた者は、彼らと合図を決め、『私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえて、しっかりと引いて行くのだ』と言っておいた」。口づけを逮捕の合図として用いようとしたのである。親愛の情を表す口づけが合図である。ユダらしいと言えばユダらしい。これまで忠実な弟子を演じ、人目につくふるまいにおいてほころびがなかった。裏切ることを決めてからもそうであった。裏切る場面においても親愛の情を意味するふるまいをする。弟子ルカは、ユダが実際、主イエスに口づけした描写を省いているが、ルカの福音書独特のことばは48節である。「しかし、イエスは彼に言われた。「ユダ、あなたは口づけで人の子を裏切るのか」。ルカは、親愛の表現で主イエスを裏切ろうとするちぐはぐさを強調したいのである。これは最低の行為だということが強調されている。許されない偽善行為である。

同じようなことが旧約聖書にも記述されている。ダビデ王の将軍ヨアブの行為である。「ヨアブはアマサに『兄弟、おまえは無事か』と言って、アマサに口づけしようとして、右手でアマサのひげをつかんだ。アマサはヨアブの手にある剣に気をつけていなかった。ヨアブは彼の下腹を突いた。それで、はらわたが地面に流れ出た。この一突きでアマサは死んだ」(第二サムエル20章9,10節)。アマサはヨアブのライバルであった。ヨアブにとって彼を消すことが自分の地位確保につながる。アマサは油断していた。しかし主イエスの場合、油断はしていなかった。だから、ユダに平手打ちでも食らわせることができただろうし、近づいて来るのを知って、弟子たちを連れて逃げることもできただろう。だがユダの裏切りを叱責されただけである。そして、この後、さらに驚くべく態度に出る。

第二の場面は、弟子の一人が剣で切りつける場面である(49,50節)。この弟子は他の福音書からペテロであるとわかる。彼は大祭司のしもべに切りかかる。切りつけられた男の名前は、ヨハネ18章10節ではマルコスとある。ペテロは彼の耳を切り落としてしまったわけだが、ルカだけが「右の耳」と切り落とされた具体的な部位を書き記している。ペテロはもちろん、イエスさまのお命を守るのだと、剣をふるったのだろう。頭を狙って、外れて耳を削ぎ落してしまったと思われる。驚くのは51節の主イエスの言動である。「するとイエスは、『やめなさい。そこまでにしなさい』と言われた。そして、耳にさわって彼を癒された」。主イエスは乱闘騒ぎになるようなところ、「やめなさい」と言って、敵の傷までも癒してしまわれた。これは真剣に吟味に値する言動である。過去のキリスト教は、主イエスの教えにならわず、反対にキリストの名のもとに無益な戦いを行い、キリストの御名を傷つけてきた。今回は日本の例を挙げてみよう。秀吉や家康の時代、キリシタンは厳しい取り締まりを受けることになったわけだが、それは彼ら側にだけ問題があるのではなかった。秀吉は1587年に宣教師の退去を命ずる「覚」という文書と「伴天連追放令」を発布する。「伴天連」とは宣教師・司祭のことである。これらの文章を読むと、悲しむべき実体が記されている。宣教師の退去を命ずる「覚」という文書は、「個々人がキリスト教を信仰すること自体は否定しない」(現代訳)で始まる。「・・・大名が家臣に信仰を強制してはならない。・・・中国、朝鮮、南蛮に日本人の人身売買を行っていることは許しがたきことであり・・・」。当時、ポルトガル商人は日本人奴隷を海外に売り飛ばしていた。秀吉は以前からこれに対する警告を発していた。宣教師はこの実態に目をつむっていた。次に「伴天連追放令」の前半には、「大名が領国内で、キリシタン門徒に寺社を破壊させるようなことがあってはならない」とある。神社仏閣の破壊行為が続いていたのである。これには閉口していた。伴天連追放令が発布されても日本に留まった宣教師たちがいた。しかし、その宣教たちはスペイン・ポルトガル軍による日本人攻撃計画を練っていたと言われる。そして家康の時代になると、一時的に宣教師たちの活動は黙認された。だが1612年に江戸幕府直轄地に「キリシタン禁令」が発布され、1614年には全国に向けて発布される。このキリシタン禁令が発布されたのには幾つかの理由がある。キリシタンの教えが将軍の権威の上に神の権威を認めるというのは嫌悪感を抱かせるものであった。そして当時、キリシタンの数が爆発的に増えていた。当時人口一千万人の日本にあって、キリシタンは75万人とも100万人とも言われている。幕府にとっては脅威となった。しかしそれにとどまらない。スペイン・ポルトガルなどの植民地政策の影がちらついていたことも関係している。日本のキリシタンの千年王国運動と言われる島原の乱が1637年に勃発する。一揆が勃発し、農具や刀を振り上げた。実現はしなかったが、乱を決行した人々は、スペインやポルトガルの援軍を期待していたとも言われている。こうして諸外国の危険を感じた徳川幕府は1641年に鎖国体制を完成する。貿易が許されたのは長崎の出島限定のオランダ貿易のみである。禁教・鎖国に至るまでの経緯を見ると、将軍側の権威主義の問題だけではなく、陰で剣をちらつかせるような、政教分離の原則を外したキリスト教側の宣教体制の問題も大きい。純粋な信仰を持つキリシタンたちも多くいただけに、残念なである。

確認しておきたいことは、主イエスは剣の戦いを望んではいないということである。35~38節の学びのときに、主イエスが剣に言及されたのは、文字どおり剣を増やして戦ってくれることを望んでいたのではないことをお話した。今日の場面はそれを実証する。前々回もお話したように、マタイの福音書では、「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」(マタイ26章52節)と言われている。千年王国を期待する、神の国を期待する、この地にキリスト教が広まることを期待するというときに、主イエスのミッションは決して剣や武力によらないことを覚えておきたい。それは祈りとみことばによるのである。

私たちは平常、剣を携帯しているわけではないが、カッとなっても剣を鞘に収めるような信仰も必要であることを知ろう。怒りを収めるということである。主イエスに関してすごい行動だと思うのは、全く落ち着いておられ、味方を制し、敵を癒してしまわれたということである。ヨハネの福音書では癒していただいた男の名前はマルコスと言われているわけだが、名前が記事にされたということは、彼が信仰をもってくれたのではないかと期待をしてしまう。主イエスはこの時、敵を癒したということにとどまらず、ペテロの尻拭いをしたという見方もできるだろう。ペテロは傷害罪で訴えられても仕方がなかった。主イエスはその傷害の痕跡を消してしまわれた。味方を制し敵を癒す主イエスの行動は見事としか言いようがない。

第三の場面は、ユダヤ当局に向き合う場面である(52,53節)。主イエスは捕縛に来た面々を前にして恐れはない。剣や棒といった武器を携えて押しかけて来た群衆に対して、丸腰で剣も身に着けていない。全く堂々としておられる。主イエスは、捕縛に来たリーダーたちの背後に暗闇の力が働いている発言をする。「今はあなたがたの時、暗闇の力です」と。最後のことば「暗闇の力です」に目を留めたい。主イエスは霊的戦いを戦おうとしていた。そのための信仰の武具は身に着けていた。そのような意味において丸腰でいたわけではない。サタンは自分の意のままに働きかけるが、そして一時的に攻勢を見るようだが、彼は主イエスに打ち勝つことはできない。十字架はサタンの勝利とはならない。へブル人の手紙2章14節には、「悪魔をご自身の死によって滅ぼし」とある。十字架の勝利である。この勝利に向かって進むのである。主イエスにとっては十字架を避けることこそが敗北である。サタンの攻撃はこの時、弟子たちにも向けられていた。22章31節で言われていたとおりである。「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました」(31節)。このような揺さぶりは私たちにもある。だから、私たちも霊的敵に目を開こう。そして祈りとみことばを基本として、主の力で試みに打ち勝ち、主のみこころに服従しよう。私の願いではなく、あなたのみこころがなりますようにと。

最後に、「暗闇の力」を意識して、霊的戦いを教えるエペソ人への手紙6章10~18節のみことばに信仰の耳を傾けて終わろう。