今日のテーマは祈りである。しかも誘惑に陥らないようにとの祈りである。主イエスは先に、この祈りを教えていた。主の祈りに「私たちを試みにあわせないでください」(11章4節)とある。誘惑からの守りの祈りである。これは毎日祈るべき祈りの一つである。主イエスは最後の晩餐の席でペテロたちに大きな誘惑・試みがあることを示唆していた。「シモン、シモン、見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き取どけられました」(21章31節)。ペテロは自己信頼の強い男だった。サタンの誘惑のことなど真剣に考えてはいなかっただろう。そして、今日の警告にある神に頼る祈りをおろそかにしてしまうことになる。結果、見事にこけてしまう。ペテロの自我が打ち砕かれるというプラスの現象も生じるわけだが、失敗は失敗である。今日の警告は私たちへの警告にもなっている。私たちはペテロ同様、誘惑に弱い存在である。
先週まで最後の晩餐の席での教えであったが、場面が変わる。最後の晩餐の席から立つと、主イエス一行はオリーブ山に向かった(39節)。オリーブ山はキデロンの谷を越えて、エルサレムの東にある山である。「いつものように」と言われているが、オリーブ山で夜を過ごすのは、習慣になっていた(21章37節)。今日の場面は主イエスのゲッセマネの祈りとして、マタイ、マルコ、ルカの三福音書に描かれている有名な場面である。ルカの福音書の場合、他の福音書より短い文章になっていて、四割ぐらい短い。また、マタイ、マルコと違って「ゲッセマネ」という場所の名前を出さない。人の名前も出しておらず、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの名前を出さない。主は弟子たちの中でもこの三羽烏に祈るように命じられたわけである。文章が短くなっている一番の理由だが、主イエスは祈っておられる時、弟子たちが目を覚まして祈っているかどうかを二度にわたって見に行った。この二度にわたって様子を見に行った中間の描写がカットされていて、全体が要約された記事となっている。
では、ルカはこんなに要約して、十字架刑の前のこの祈りの場面を軽視しているのかというなら、そうではない。ルカならではの特徴がみられる。文章がシンメトリックと言われる対称構造となっている。対称とは左右対称もしくは上下対称ということである。
A 誘惑に陥らないように祈っていなさい(40節)
B イエスは弟子たちから離れ、一人で祈られた(41節)
C イエスの苦悩の祈り(42~44節)
B’イエスは祈り終え、眠っている弟子たちのところに戻られた(45節)
A’ 誘惑に陥らないように祈っていなさい(46節)
中心に主イエスの祈りの姿がある(C)。主イエスは、誘惑に打ち勝ってみこころに従うことができるようにと祈りをささげていた。42節の「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように」が軸となっている。そして両サイドに「誘惑に陥らないように祈っていなさい」という主の命令の壁を作っている(A,A’)。みごとな対称構造である。ルカの特徴である。弟子たちは誘惑に陥らないように祈れたかというと、祈れなかった。そのことにおいて、主イエスの祈りの姿との対比も浮き彫りになっている。誘惑に陥らないための祈りの模範は主イエスである。祈りに失敗した弟子たちは、生涯、「誘惑に陥らないよう祈っていなさい」という主の御命令を肝に据えたであろう。
その他のルカの特徴は、主イエスの祈りの描写である。41節に「ひざまずいて祈られた」という表現がある。マタイでは「ひれ伏して祈られた」(マタイ26章39節)とある。どちらも本当で、主イエスはひざまずいたり、ひれ伏したり、姿勢を変えながら祈られたのであろう。もう一つは、43節の「すると、御使いが天から現れて、イエスを力づけた」である。これもルカにしかない描写で、御使いを登場させる回数が多いのもルカの特徴である。
ルカの福音書の特徴をつかんだ上で、今日の記事から教えられていこう。主イエス一行がオリーブ山で祈ろうとした時間帯は真夜中か、真夜中過ぎあたりであると思われる。すなわち、眠い時間帯である。45節では「悲しみの果てに」とあるが、このような感情に襲われている時も眠くなると言われている。弟子たちは眠くてしかたがなかった。けれども、霊的戦いが本格化する時であったので、祈りを優先にしなければならなかった。ルカは先ほど見たように、今日の物語を、祈りの勧告で始まり祈りの勧告で終わるという形式で、誘惑に陥らないための祈りを重視させている。そして物語の真ん中では、主イエスがしっかりと祈りの模範を見せている。ということで、まず、主イエスの祈りに注目しよう。
「そして、ご自身は弟子たちから離れて、石を投げて届くほどのところに行き、ひざまずいて祈られた」(41節)。石を投げて届くほどの距離感を保ちながら、主イエスは祈り、弟子たちも祈るということ。弟子たちからすれば、主イエスの姿が見え、また主イエスの祈りの声が聞こえる辺りであっただろう。主イエスにとっては祈りに専念できる距離であるとともに、祈りの模範を見せることができる距離でもあった。また、この距離は弟子たちがちゃんと祈っているかどうか監視しやすい距離でもあった。「ひざまずいて祈られた」の「祈られた」という動詞だが、原文では継続を表わす動詞となっていて、つまり、主イエスは二言三言祈られたというのではなく、長い時間祈られたということである。その祈りは苦悩の祈りであった。へブル人への手紙5章7節にはこうある。「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました」(へブル5章7節)。「大きな叫びと涙」とある。弟子たちも主イエスの悲痛な声を耳にしただろう。弟子たちは、主イエスが雲行きが怪しくなる話をするし、祈りの姿はこれからどうなってしまうのだろうという大変さを物語っているし、彼らの心はいつしか悲しみで支配されるようになっていった。
中心的な祈りのことばは42節である。これが記されているということは、弟子たちも耳にしたのだろう。「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように」(42節)。「父よ」という呼びかけで始まっているが、ユダヤ人が神を父として呼びかけるのはまれなことであった。だが主イエスは「父よ」と呼びかけを用いるのが普通だった。弟子たちにも「父よ」という呼びかけをするように教えている(11章2節)。「父よ」は、尊敬とともに親しみを込めた呼びかけである。だが、この時の祈りの内容は切ないものであった。それは、「みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください」という願いからわかる。「杯」とは一つの比喩であるが、旧約聖書において「杯」は良い意味でも悪い意味でも用いられる。この場合は後者である。「杯」とは神の刑罰、神の御怒りを意味する。主イエスの場合、それは具体的には十字架刑という死の苦しみを意味していた。それは取り去っていただきたい種類のものである。それを願って祈っているのだけれども、「しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように」と祈っておられる。ある方は次のようにコメントしておられる。「ある意味では、祈りというのは『わたしの願い』を神さまの願いとして調整していく、そういう格闘なのです。『わたしの願い』はこうなのだけれども、神さまの願いへとその願いを合わせていこうとする営みなのです」。自分の願いを神さまの願いへと合わせていく、そこには葛藤があるものの、「みこころがなりますように」という精神で祈るわけである。主の祈りにも、「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」とある。それを自分自身のこととしても祈るわけである。
主イエスの場合、このみこころに合わせることがいかに大変であったかが、43,44節から思い知れる。「すると、御使いが天から現れて、イエスを力づけた」(43節)。何と、神のイエスさまでさえ、御使いに力づけられなければならなかった。それほどの大きな試練に直面していたということである。御使いは、主イエスを試練から逃れられるよう助け出さない。しかし、試練に勝利し、誘惑に打ち勝つよう、強めることはできる。
主イエスは血のしずくのような汗を流して祈り続けた。「イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように落ちた」(44節)。主イエスの内なる苦悩は、血のしずくのような汗となって表れた。その苦悩はいかほどのものであったのだろうか。主イエスはただ、個人としての死を恐れていただけではない。罪人たちの罪を負い死ぬ恐怖である。主イエスの死は、37節で主イエスが最後の晩餐の席で触れられた、イザヤ53章12節の成就のための死である。「彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする」(イザヤ53章12節)。罪のないお方が私たちの罪を負い、父なる神のさばきを受ける。それがどれほどの恐怖と悲しみを引き起こすものであったのか、想像を絶するものがある。主イエスの苦しみというものはゴルゴダの丘で最高潮に達するわけだが、しかし十字架の苦しみは、このオリーブ山ですでに始まっていた。実は、「汗が血のしずくのように」というのも、ルカ独特の描写である。人は強度のストレスで、汗に血が混じるとも言われる。そしてゴルゴダの丘では、文字通り血を流すことになる。
主イエスのこの祈りは、無駄にはならなかったのである。この時の祈りがあってこそ、主イエスは従順を貫き、十字架での贖いの御わざを全うできたのである。この主イエスの祈りのお姿を挟むようにして、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」というみことばが私たちの心を打つことになる(40,46節)。46節手前の45節を見ると、「イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに行ってご覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた」とある。時間帯が時間帯であったということに加え、悲しみが眠気をいっそう誘っていた。では、主イエスは悲しくなかったのかというと、そうではない。マタイとマルコにはこうある。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」(マタイ26章38節 マルコ14章36節)。死ぬほどの悲しみの中にあった。だが祈られた。そして、やはり悲しみに襲われていた弟子たちにも祈りを命じていた。45節の「悲しみの果てに眠り込んでいた」という描写も、実は、マタイにもマルコにはない、ルカ独特の描写である。ルカの福音書の捕縛前の祈りの記事は、他の福音書よりも短いと言ったが、対称構造で描かれているとともに、独特の描写が多いという特徴がある。
46節を見よう。「どうして眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」の「起きて」というのは、ただ単に、体の姿勢を持ち上げることが言われているのではないだろう。マタイ、マルコでは「目を覚まして」となっている。すなわち、意識朦朧ではなく、ちゃんとした意識で、しかも霊の眼を開いてということだろう。先に学んだ21章36節では、終末時代の祈りの姿勢として、主は「目を覚まして祈っていなさい」と命じられている。ぼーっとしていると足をすくわれるのである。この世界は神と悪魔、光と闇という二つの異なる霊性の戦いの場である。次週の箇所である53節において主は、「暗闇の力」に言及されている。主イエスは明らかに霊の敵を意識されている。この暗闇の力が私たちにも働くのである。私たちは霊の眼を開いて、誘惑に勝利できるように祈らなければならないのである。「自分は大丈夫」と、自分に信頼を置いて大丈夫だとすることは、ペテロのように敗北を招く。
誘惑の種類は精神的ストレスをかけてくるものから快楽まで、何でも揃っている。偽りを混ぜて知的な面に働きかけてくるものもあれば、感情を大きく揺さぶるものもある。ペテロたちの場合、恐怖心からキリストを見捨てる誘惑にかられることになる。そして実際、そうなる。33節で「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」と豪語したペテロであったが、それはことばで終わってしまう。ペテロは剣を携帯していたようだが、信仰の武具、武器は身に着けることなく、そういう意味では丸腰で、備えがなかった。彼本来の気性では闇の力に打ち勝てなかった。相手にもならなかった。ペテロは後に、ペテロの手紙を執筆することになるが、それを読めば、彼はみことばと祈りを尊ぶように勧めていることがわかる。彼は失敗を通して、信仰の秘訣を学習していったようである。今日の記事からは、誘惑に陥らないように目を覚まして祈ることを学習したい。そして、その模範として、主イエスの真剣な祈りに心の目を注ぎたいと思う。主イエスが祈ったのならば、私たちも祈らなければならない。主イエスでさえ祈りが必要であったのならば、私たちはなおさら祈りが必要である。