今日の記事は、最後の晩餐の席での最後の教えとなっている。主イエスが捕縛される時間が近づいていた。時は逼迫していた。それにふさわしい教えとなっている。教えの内容は、弟子たちに備えをせよという内容である。その備えとは何だろうか。

まず主は、過去を振り返らせる。35節をご覧ください。「それから、イエスは弟子たちに言われた。『わたしがあなたがたを、財布も袋も履き物も持たせずに遣わしたとき、何か足りない物がありましたか。』彼らは、『いいえ、何もありませんでした』と答えた」。これは主イエスが弟子たちを空手で伝道旅行に遣わした時のことである(9章1~6節,10章3,4節)。主イエスはその時、旅には何も持って行かないように命じた。身軽な旅をするようにと。必要は行く先々で備えられた。弟子たちはこの時の旅行について、不足する物は何もなかったと告白している。

ところが36節を見ていただくと、「しかし今は」と、伝道旅行の時と全く異なる備えを命じられる。それは時がガラリと変わるからである。様相が一変する。それにふさわしい備えが求められる。「すると言われた。『しかし今は、財布のある者は財布を持ち、同じように袋も持ちなさい。剣のない者は上着を売って剣を買いなさい。』」。財布を持つ、袋(バッグ)を持つ、そこまでは旅行者としてはふつうの姿だが、「剣のない者は上着を売って剣を買いなさい」が特徴ある命令である。つまり、上着を売ってでも剣を買いなさい、という命令だからである。えっ、上着を売ってでも剣?これは驚くような命令である。上着とは夜具にも使われ、質に取ることも禁止されていた、人としての最低の権利であった。それさえも売って剣を買いなさいと言う。これをどのように受けとめたらよいのか、解釈が分かれて来た。文字通り採るのか、比喩的に採るのか。この命令にはどのような意図があるのかと。

剣を買わなければならない理由は37節で示されている。「あなたがたに言いますが、『彼は不法な者たちとともに数えられた』と書かれていること、それがわたしに実現します。わたしにかかわることは実現するのです」。「彼は不法な者たちとともに数えられた」とは、旧約聖書イザヤ53章12節のメシア預言である。イザヤ53章はキリストの受難を示す有名な預言である。この預言の成就の時が近づいていたということである。主イエスには、ユダヤ当局から捕縛の権限を持つ者たちが差し向けられようとしていた。緊急事態である。時は迫っている。

では、主イエスが言われた「剣」は何を意味しているのだろうか。「あなたがたの身に危険が迫っている。剣をふるってしっかり戦うのだ」。このようにして、文字通り剣で戦うことを勧めているのだろうか。わずかの味方と多くの敵という状況になる。こうした中で、討ち死に覚悟で雄々しく戦えと言われたいのだろうか。もし主イエスが国粋主義者で過激派の熱心党であれば、文字通り剣で戦うように鼓舞するだろう。熱心党はローマとの戦いを主導して、紀元70年にはエルサレムの壊滅を招くことになる。しかし、主イエスは熱心党ではない。主イエスはこれまで、神の国の民としての生活はどのようなものであるのかを教えて来た。ルカ6章の平地の説教では、「あなたがたの敵を愛しなさい」といった教えを中心にして、敵を攻撃する教えと全く反対のことを説かれた。「敵を愛しなさい。敵があなたがたを苦しめるなら、逆に愛で返しなさい。そうするならば、もはや彼らは敵でなくなる。敵を打ちのめすことを考えるのではなく、敵のために祈りなさい」。ルカ9章54,55節では、弟子たちが天から火を下してサマリア人を焼き滅ぼしましょうか、と言った時、叱責された。ユダヤ人たちは剣と武力でイスラエルに君臨する救い主を待ち望んできた。しかし、主イエスは、それに通じる話は全くされなかった。今後、そうした戦いをすることを匂わせもしなかった。

弟子たちは主イエスの剣の発言を文字通りのこととして受け取った。38節前半を読もう。「彼らが、『主よ、ご覧ください。ここに剣が二本あります』と言うと、イエスは、『それで十分』と答えた」。敵は大勢で武装してきた。自分たちは少数でしかも剣二本しかない。自衛、防御ということでも、あまりにも数が足りない。十分のはずはない。小学生が考えてもわかる。けれども、主イエスは「それで十分」と言われた。もっと本数を増やすべく、早く剣をかき集めるようにと指示されなかった。

先の物語である、49~52節にも目を落とそう。52節で、剣や棒を持って来た人たちのことが記されているが、マタイの福音書では「剣や棒を手にした大勢の群衆」(マタイ26章47節)とあり、ヨハネの福音書ではローマの兵士たちが相当数動員されたことがわかる(ヨハネ17章3節)。主イエスを逮捕に訪れたのは、ユダヤ当局のリーダーたちばかりではなく、神殿警察、兵士たち、その数は少なく見積もっても百人以上。総勢数百人とも見積もれないことはない。その手には剣や棒があった。かたや主イエス側は剣二本のみ。戦う意志があるのならば、「それで十分」で話が終わってしまう数ではない。剣二本は無きに等しい数でしかない。にもかかわらず、50節を見れば、弟子のうちの一人が、マタイの福音書からそれはペテロであることがわかるが、勇猛果敢に、二振りの剣のうちの一つで相手に切りかかってしまう。51節で、主イエスは間髪入れず「やめなさい」と忠告し、傷を負った相手を癒してしまわれたのである。主イエスは剣で戦うことを正当化しない。平行箇所のマタイでは、剣を抜いて戦おうとした弟子に、「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」(マタイ26章52節)と教え諭している。剣を取ることを否定している。ということは、36節の「しかし今は、財布のある者は財布を持ち、同じように袋も持ちなさい。剣のない者は上着を売って剣を買いなさい」というのは、迎える厳しい事態に対して、「信仰の備えをせよ。霊的戦闘態勢に入れ」という比喩的教えとして捕らえなければならなかったことがわかる。先の21節では、主イエスが弟子たちに対して、「サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかける」と言われている。主イエスはサタンの攻撃を意識されている。霊的戦いを意識されている。パウロはご存じのようにエペソ人への手紙の6章後半において、信仰者の戦いとは霊的戦いであり、信仰の武具と武器を身に着けるよう教えている。「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身につけなさい」(エペソ6章11節)。文字通りのそれではない。弟子たちはこの後、残念ながら霊的戦いの備え、信仰の備えに失敗する。この後、主イエスは弟子たちを連れてオリーブ山に祈りに行くわけだが、46節を見れば、弟子たちは、「どうして眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」と忠告を与えられていることがわかる。彼らは備えに失敗する。

「それで十分」ということばをもう少し説明しておきたい。「それで十分」と訳されていることばは、どのように受け取っていいのか難しいことばの一つと言われている。肯定的にも否定的にも受け取れることばである。肯定的な意味として受け取ると、「それで十分な数だ」となる。剣の数はもう十分ということである。もし、主イエスがこの時、「それで十分」と言ってあげなければ、彼らは文字通りのことであると思い、剣を集めに走ったかもしれない。そしてその剣でもっとたくさんの血が流されたかもしれない。主イエスは「それで十分」と言われ、ご自分は丸腰で、武器を一切携帯しないで、剣や棒を持った大勢の敵たちに相対することになる。なんというお姿だろうか。

そして、「それで十分」にはもう一つの可能性がある。「それで十分」を否定的な意味に受け取ると、ご自分が話していることを理解できない弟子たちに対して、これ以上話しても仕方がない、理解できないだろう、事態は切迫していて時間もないと、「剣についての話はもう十分だ」と話を打ち切る意味で、このことばを使われたということになる。申命記3章26節にはモーセへの神のことばとして、「もう十分だ。このことについて二度とわたしに語ってはならない」とある。「剣についての話はもう十分。これでおしまい」。こちらの理解に立つ方も多いので、一応、耳に入れておいていただきたい。「それで十分」を「それで十分な数だ」と受け取るか、「この話はもう十分」と受け取るかどちらにしても、「それで十分」は、もっと剣は必要だという意味にはならないことは知っておこう。

主イエスご自身はいつも丸腰であったことを覚えておこう。主イエスはみことばと祈りという武器によって戦いを進めて来られた。荒野の誘惑では、聖書にはこう書いてある、こう書いてある、と言ってサタンの誘惑を打ち砕かれた。また、この後に続くオリーブ山(ゲッセマネの園)では、汗を血のしずくのように流して祈りの格闘をして、十字架の勝利へと向かわれる。主イエスは公生涯において、上に立つ改革者が当たり前にしてきたように剣を帯刀しなかった。弟子たちにも勧めてこなかった。もし「上着を売って剣を買いなさい」を文字通りに解釈すべきだとしても、主は剣を二本以上に増やすことを弟子たちに求めなかったことに注意を払うべきである。その所持していた二本の剣にしても、人を切りつけるための攻撃の剣であることを主は望まなかったわけである。ただ自衛の用具として帯刀しておくべきだっただろう。

この帯刀について歴史的なことを述べておこう。日本の国では江戸時代、「帯刀御免」と言って、町人や農民であっても、特例で刀を携帯することが例外的に許可された。しかしふつうの場合、武士以外の庶民は、刀をさすことは禁じられた。これは世界的には珍しい文化と言えるかもしれない。つまり、刀も武器ももたない庶民が生活しているということにおいて。狩猟とか牧畜が主要な職業となっている文化では、剣を持つというのは至極当たり前のことであった。ローマ帝国の属州となっていたユダヤ社会でも、人々が平素、剣を携帯するのは至極当然のことであった。だから、十二弟子が剣を二振りしか持っていないというのは少なすぎる話である。けれども、主イエスはそれを気にしていない。さきほど見たように、それどころか剣で攻撃することを戒めた。日本では明治9年に「廃刀令」が出され、軍人、警察官吏以外が刀を帯刀することを禁止した。所持は良いが帯刀は禁止ということ。武士の間では反発が起こり、反乱事件が勃発している。これが西南戦争にもつながっていく。多くの平民の摘発もあった。こうして刀を携帯する時代は終わり、現代は、携帯と言えば携帯電話である。これを使って攻撃する時代となった。併せて、武器は銃とかミサイルとか、飛び道具が剣に変わるようになった。

残念なことに、剣にしろ、銃にしろ、ミサイルにしろ、自衛、防衛のためというよりも、明かに攻撃のために使用し、血を流すために使用することを正当化するキリスト者たちがいる。ローマ人の手紙12章19節には、「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい」と書いてあるにもかかわらず、復讐行為も正当化してしまうのである。そして、新約の時代に生きているにもかかわらず、旧約時代の聖戦・正義の戦争の概念を持ち込んでしまうのである。中世の長期にわたる十字軍や、ヨーロッパ各地で繰り広げられた戦争、近年では9.11を契機に勃発したイラク戦争、最近ではロシア・ウクライナ戦争、これらを肯定するために聖戦の概念が持ち込まれた。モーセ五書やヨシュア記を熟読すればはっきりわかるが、カナンの地で繰り広げられた聖戦は一時代の特殊なものである。聖戦はカナン人の咎が満ちる時に起こることを、カナン入国の600年以上前に、アブラハムに暗示があった(創世記15章16節)。神はカナン人の罪が満ち満ちた時に、カナン人への審判の道具としてイスラエルの民を用いるという計画である。それはいにしえからの神の御計画である。それはある情勢の軍法会議で決まった人の思いつきの戦いではないし、政治的思惑や人間の私利私欲によるものではないし、まして復讐心が入り込む余地は全くないものであった。あくまでも主の戦いで、主の御計画によることであり、主の代理人としての悪への審判であった。神はモーセを通してイスラエルの民に、あなたがたが正しいからカナンの地を占領させるのではなくて、カナン人が邪悪なのでそうするのだと確認させている。そして、あなたがたも神の戒めに従わなければ滅びるのだと、繰り返し戒めている。そして、神の戒めを破ったイスラエルの民たちは、個人単位で、また群れ単位で聖絶されることになる。神はイスラエル人であるからと言って差別はしなかった。むしろ、厳しかったと言えるだろう。聖絶されるのはイスラエル人も同じだった。カナンの地の征服のリーダーとしてはヨシュアが立てられた。神はヨシュアを通して戦いに行く民全員に、律法のことばを守るように教え込む。兵士は全員信仰に堅い者であらなければならなかった。主の代理人という立場だからである。兵士は無神論者とか、他の神々を拝む者とか、刑務所に入っていた犯罪人とか、信仰者といっても名目上の信仰者であるとか許されなかった。とりあえず健康な男子であればとか、数が足りないので、とりあえず頭数が揃っていればとか、そういったいいかげんなことは許されなかった。全員、主のことばをたたき込まれた信仰者で、正真正銘の聖徒であることが要求された。そして、その地の咎を罰するために遣わされた。このような戦いは、後にも先にもない。この時の聖戦の概念を適用できる戦いは、新約時代以降、記録が残されている戦いを見るかぎり一つもない。その時は、聖戦だと叫んだ。しかし、十字軍をはじめ、その後に続く近世における戦いも、後になれば、いったいあれは何であったのだと評価されることになった。私利私欲の戦い、復讐心から来る戦いであったのではないかと評価されるようになった。主の名を使って戦いを正当化していただけである。今日も適用される聖戦ということばは、その戦争を正当化するための隠れ蓑でしかない。結果として証を損なうだけである。

はっきりしていることは、新約時代の民は全員、主イエスの教えにならわなければならないということである。その人の地位や職務柄、武器を携えているということはあるだろう。それは当然である。キリシタン時代に帯刀していたキリシタン武士がいたように。私はクリスチャンの警察官にお会いしたこともあるが、警察官が拳銃を携帯しているのは当たり前である。主イエスが言われたいことは、それらの所持や携帯うんぬんのことではなく、試み・誘惑への備え、霊的備え、信仰の備えである。53節を見ていただくと、主イエスは「あなたがたの時、暗闇の力です」と言われている。一気に暗闇の力が襲って来る。こうした緊急事態に立ち向かうべく必要なものは、目を覚まして用いる信仰の武器である。自衛、防衛のために所持している剣二振りを用いるのは許されるかもしれない。だが、もっと大切な武器があるということである。私たちは地位・職業に関係なく、私たちの戦いは霊的戦いであることを覚えよう。そして信仰の武器を携帯しよう。クリスチャンが備えるべき真の武器とは、目に見える武器や何かではなく、具体的には「祈りとみことば」であることを自覚しよう。次週の39~46節の箇所では、主イエスが弟子たちに対して、サタンの誘惑の備えとして祈ることを強調することになる。剣をかき集めることや、隠れ場を確保することや、逃げる手段を検討することに時間を費やすのではなかった。祈りである。次回は祈りを中心に学ぶことになるが、私たちは心の目を覚まし、信仰の武器を用いていこう。