信仰の試練を最初に受けた人物はアダムとエバである。二人は蛇を通して誘惑を受け、禁断の木の実に手を出し、食べてしまう(創世記3章)。蛇については黙示録12章9節では、「大きな竜、すなわち古い蛇、悪魔とかサタンと呼ばれる者、全世界を惑わす者」と言われている。「古い蛇」という表現は、創世記3章のいにしえの物語が意識されている。この古い蛇は「全世界を惑わす者」であり、キリストの弟子たちにも、その手は差し向けられる。22章3節では、「ところで、十二人の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った」とある。ユダは主イエスを裏切ることになる。サタンが入るというユダの心には、もう信仰というものはなかったのではないかと思われる。他の福音書を総合すると、彼はこの頃すでに、主イエスを裏切ろうとする思いがあったことがわかり、よって彼はこの頃、弟子を演じていたにすぎないことがわかる。だがペテロはそうではなかった。
今日の場面は、前回に続いて、最後の晩餐の場面である。そしてそれは、主イエスと十二弟子を代表するペテロとのやりとりである。ペテロはユダとは違う。ペテロは正真正銘、主イエスの弟子である。主イエスを救い主と信じており、従おうとする信仰をもっていた。それは32節で、主イエスが「あなたの信仰」と口にされていることや、33節での、主に従おうとする情熱ある告白からもわかる。ペテロにサタンは入らない。というよりも入れない。けれども、ペテロをゆさぶることは許された。
実は31,32節の主イエスのことばはルカの福音書だけが伝えている貴重なものである。見て見よう。「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。この主のおことばを三つに分けて見ていこう。最初は、「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました」。主は「シモン、シモン」と名前を二度呼んでいるが、これはねんごろに呼びかけるやり方である。愛情表現と言って良い。そして「見なさい」と言われる。これは注意喚起の表現である。サタンがすることは「麦のようにふるいにかける」ということである。麦ふるいというのは、おそらく、穀粒ともみ殻・ごみをえり分ける作業であると思われる。ここでふるいにかけるとは、主イエスのほんとうの弟子であるかどうかを試すためにゆさぶるということだろう。そのゆさぶる願いが「聞き届けられました」とある。なぜ聞き届けられたのかということだが、それは結果的に、ペテロの益となるからであろう。これと似たような物語がヨブ記にある。ヨブ記1,2章を読むと、サタンが主なる神に願って、ヨブをふるいにかけることを聞き届けられたことが記されている。「ヨブが神を恐れているように見えるのは、神さま、あなたがヨブに良くしてくださっているからです。彼の化けの皮は、災いをくだせば剥げるはずです。わたしにやらせてください」。こうして、サタンは、神によって制限をかけられつつ、試みることを許される。サタンは、人災(略奪)、天災(大風)、そしてつらい病をも用いる。ヨブは生きることでせいいっぱいの体なのに、妻には毒づかれ、友人たちには非難され、慰めのない状態になってしまうが、もみ殻やごみでないことが証明されることになる。結果として、彼の信仰はより堅固なものとなる。すべては益と変えられたのである。
そして31節の冒頭の文章を良く見ると、「シモン、シモン」の呼びかけで始まるが、ふるいにかけられる対象が「あなた」ではなく「あなたがた」と言われている。その中でもペテロがターゲットとして一番攻撃を受けることになるが、他の弟子たちもふるいにかけられることがわかる。
次は、「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました」。主イエスはただ傍観してはおられない。「しかし、わたしはあなたのために」と、父なる神の御加護を祈られた。それは「あなたの信仰がなくならないように」という願いをもってである。「信仰がなくなる」とはどういうことなのかと思うが、ペテロの場合は、自分に絶望して主から完全に離れてしまうということなのか、とにかく「わたしに従ってきなさい」という最初の召命のことばに背を向けてしまうことであることはまちがいない。主イエスはペテロの弱さを誰よりも十分に知っておられ、とりなしの祈りをささげてくださったのである。
三つめは、「ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。主イエスは、今見たように、ペテロの信仰回復のために祈られた。そして立ち直ることになる。それに準じて、私たちも兄弟姉妹のために祈るわけである。わたし自身も祈られた。信仰がふらふらしていたのを見た牧師や教会のメンバーたちから。さて、ペテロはこの時どうだったのだろうか。ふらふらしているようには見えない。33節では、「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと覚悟はできております」と豪語している。嘘偽りのない彼の本心であったろう。忠誠心はまがいもない。主イエスをゲッセマネの園で逮捕に来る場面では、50節を見ていただくとわかるように、剣で斬りかかる勇猛果敢さを見せている。だが、その数時間後には、主イエスを三度も否定するという失態を演じる。54節以降の大祭司の家の庭での記事である。真綿で首を絞められるようにして女中や男たちに語りかけられ、主イエスとの関係を何度も否定してしまうことになる。ペテロは闇の力に対抗できなかった。
ペテロの問題は何か。どこにあるのか。それは想像以上に弱かったということではなく、自信過剰ということになる。どんなことがあっても自分は大丈夫だという自信である。けれども、彼はそんなに強くなく、女中の一言で、もろくも崩れていく。私たちは自分の強さの上に立とうとする時、足もとが液状化し、足もとを救われることになる。自信過剰は主に信頼することと別物である。ただの自己信頼である。その先にあるのは、倒れる、沈む、萎む、枯れる、吹き飛ばされる、そのようなところである。もし、ペテロは、主イエスのとりなしの祈りがなかったら、どうなっていたかわからない。ペテロはこの後、自分自身の強さに頼ることがいかに愚かなことであるのかを思い知らされることになる。34節を見ると、その呼びかけは「シモン」ではなく「ペテロ」となっている。「ペテロ」は主イエスがつけたあだ名で、その意味は「岩」「巌」である。しっかりしているというイメージを抱かせる名前である。だが主イエスは、「ペテロ、あなたはその名前のとおり、わたしに忠誠を示すのだ」と言われない。「ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」。名前に反するふがいない結果に終わる。「鶏が鳴く前に」と言われているが、鶏についてよく知っておられる方は、鶏は夜明け前に鳴いたりする。この最後の晩餐の時間帯からすると、目と鼻の先の時間帯である。その時までに、一度だけではなく「三度」も、主を否定してしまうことになる。ただの自己信頼でいるのならば、ペテロは名前通りにふるまうことはできない。柔い豆腐と一緒である。だが彼は、この後、歴史の闇に葬り去られることはなかった。信仰が回復しただけではなく、信仰がより本物になった。
彼の驚く変化は、「ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」からわかる。彼はどん底にまで落ちるが、他の信仰者たちを励ます立場にまでなる。自分の強さに信頼して失敗したペテロは、その経験を活かし、神の恵みに拠り頼む者となるよう励ます者となる。彼の失敗は益と変えられることになる。人の弱さを知り、神の恵みに拠り頼むことを教える者となる。
今日の物語の概要は以上であるが、今日の記事から、私たちは四つのことを教えられるだろう。一つ目は、サタンの試み、誘惑は現実にあるということ。サタンという人格的存在を否定してしまい、ただの悪の象徴のようにみなす人たちがいるが、それは愚かなことである。サタンの狙いは、私たちを神から引き離すこと、キリストから引き離すことである。そのためなら、厳しいことばでも、甘言でも何でも用いる。サタンの誘惑の手段はコンビニの品数ほど揃っている。私たちは、この敵の攻撃を明確に意識しておきたい。
二つ目は、信仰とは自分の力に依拠するものではないということである。信仰とは私たちの側の信じる態度であることにはまちがいないが、信仰とは自分の自覚とか自意識を越えたところにあって、それは神の力に支えられるものであり、究極的には、それは神の恵みである。ペテロが信仰を完全に失わず立ち直れたのも、そして立ち続けることができたのも、ペテロの一本気の性格のおかげなのではなく、ペテロの強さのおかげでもなく、主イエスが彼を選んでくださり、そして背後でとりなしの祈りをささげてくださっていたからである。「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがから出たことではなく、神の賜物です」(エペソ2章8節)。「だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです」(ローマ8章34節)。「したがってイエスはいつも生きていて、彼らのためにとりなしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります」(へブル7章25節)。私たちが曲りなりにも信仰を続けておられるのも、それは神のおかげであり、キリストのとりなしのおかげである。すべては神の恵みである。この恵みに拠り頼むというのが信仰である。自己信頼ではない。
三つ目は、主イエスがとりなしの祈りをささげられたように、私たちも兄弟姉妹のためにとりなしの祈りをささげるということである。その人が試練の中にある、挫折の中にあるならなおさらである。そのとりなしの模範が主イエスである。主イエスはペテロをはじめとする弟子たちのために祈られた。今も聖徒たちのために祈っておられると言う。私たちもまた祈るのである。パウロは私たちの戦いは霊的戦いであることを教えた上で、次のように勧めている。「あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい」(エペソ6章18節)。私たちは兄弟姉妹のためにとりなしの祈りをささげるとともに、私たち自身も自分の弱さを自覚して、とりなしの祈りを要請する姿勢が必要だろう。私はペテロとは違う、私はどんなことがあってもといった強気の告白に終始するのではなく、自分の弱さを自覚して、とりなしの祈りを願う謙遜さが必要である。そのようにして、私たちは互いのために祈り合うのである。
四つ目は、ペテロのように、兄弟姉妹を力づけるということである。ペテロは、信仰者として一度もつまずくことがなく、胸を張った自信満々の姿のままであったら、真の意味で兄弟姉妹の理解者となることはできず、兄弟姉妹を叱咤激励しても、助けとなることはできなかっただろう。人とは弱く罠に陥りやすい者である。それを身に沁みて感じたペテロだった。自分の弱さに悩んでいる者に対して、ただ単に、もっと強くならなければだめだとか、自分を信じるんだとか、そんな弱いことでどうする、といった励ましは意味をなさない。ペテロは失敗し過ちを犯した者たちに対して、あわれみを示し、赦される道を語っただろう。そして神の恵みに拠り頼むことを教えただろう。ペテロはふがいない自分を赦してくれた主イエスの愛の大きさを知って、この愛の力が励ましの原動力となったはずである。自分を過信している者には、自分の経験から、そのこと自体が一番危ない態度であると諫めただろう。そしてキリストに拠り頼むように教えたであろう。
ペテロはほんとうに危なかった。危機一髪であった。だが立ち直って、兄弟姉妹を力づける者と変えられた。なんと素晴らしい物語ではないだろうか。私たちも同じ物語を生きて行きたいと思う。