いつまでも若々しく、みなそれを願っている。主イエスは、この若々しさということにおいて、この世の人々とは違う視点で語っている。若見えしても、もし今日の主イエスの教えを無視してしまうならば空しいことがわかる。
今日の場面は、前回に続いて、過越の食事の席である。十字架につけられる前日のことである。この食事は、主イエスが過越の子羊として贖いを成し遂げられることを象徴する大切な食事だった。ともに、完成した神の国で味わう祝宴の前味となる食事でもあった。15節において主イエスは、「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを切に願っていました」と言われたことからもわかるように、相当に思い入れがある食事であった。だから、誰にも十二弟子たちとのこの食事を邪魔されたくはなかった。この頃、ユダヤ当局の祭司長、律法学者、長老たちは、主イエスの殺害計画を練っていた。先ずは捕縛することが必要だが、そのためには人の少ない機会を狙う必要があった。イスカリオテ・ユダが彼らのスパイを買ってでていた。主イエスは彼らに知られないように食事の席を用意しなければならない。主イエス自ら食事の会場を定め、席の用意を頼んでいたようである。主イエスは当日の朝を迎えても、弟子たちに食事の会場を教えない。食事の準備に弟子の筆頭格を遣わす段になっても、その弟子たちにさえ会場を教えない。水がめを運んでいる人に会ったら、その人について行きなさいと謎めいた指示を出される。これではどこが会場になるか、ユダも知りようがない。主イエスは、この時ばかりは手の込んだやり方で過越の食事の準備をされた。主イエスの人気は都では高まっていたので、別の邪魔が入る可能性もあったが、誰にも邪魔されずに過越の食事の時間を迎えることができた。そして、そこでパンとぶどう酒に新しい意味を与え、私たちの罪を赦す「新しい契約」を口にされた。
この大切な食事の席で、二つの議論が持ち上がった。最初は、誰が主を裏切るのかという議論である(23節)。きっかけは、主イエスが裏切りを口にされたからである。「しかし見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓の上にあります。人の子は、定められたとおりに去っていきます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです」(21,22節)。まず、「しかし見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓の上にあります。」ということばである。「食卓の上に」という表現が意味深長である。「食卓」ということばで、ともにする食事は親しい交わりであることを意味させているが、親しい交わりをし、親しい絆で結ばれているはずの者が裏切ることを、「わたしとともに食卓の上に」ということばで表現している。だから、ふつうの裏切りではないということが伝わって来る。そして、それは、キリストを裏切るという最悪の裏切りである。「しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです」にも注目したい。「わざわいです」と訳されていることばは、6章24~26節でもくりかえし使われている。「哀れです」と訳されていることばがそうである。「しかし、富んでいるあなたがたは哀れです。・・・今満腹しているあなたがたは哀れです。・・・今笑っているあなたがたは哀れです。・・・人々がみな、あなたがたをほめるとき、あなたがたは哀れです。」「哀れです」の原語は<ウーアイ>という嘆きのことばである。このことばは、「不幸である」とか「わざわいである」と訳せることばである。この嘆きのことばは、神のさばきが下るときに使われることばである。ユダはウーアイの人になってしまうのである。ただ、主イエスがこの食卓の場で裏切りを口にされたということは、ユダに悔い改める最後のチャンスを与えたと言えるかもしれない。他の福音書からもわかるように、ユダは、この食卓でもポーカーフェイスで正体を表わさない。マタイ26章25節を見ると、「先生、まさか私ではないでしょう」とシラを切っている。「まさか私ではないでしょう」ということばは、他の弟子たちも代わるがわる話したセリフなのだが、ユダもそれに準じて、右倣えで言っている。だがルカは、そうしたユダの姿に焦点を当ててはいないようである。弟子たち全体の愚かな姿に焦点を当てようとしている。
弟子たちは主イエスのことばを受けて、誰が裏切るんだと議論を始める。「そこで弟子たちは、自分たちのうちのだれが、そんなことをしようとしているのかと、互いに議論をし始めた」(23節)。ごもっともの議論かもしれない。しかし、次の議論の様子を見ると、彼らの犯人捜しをする姿とは、自分のことは棚に上げておいて、他人を非難しようとする姿。だから議論になっている。決して自己点検や自己反省には向かわない。そのまんまの姿勢で、一番偉いのは誰なのかという議論に突入する。二つの議論はつながっていると言えるだろう。
次の議論が、自分たちのうちで誰が一番偉いのかという議論。「また、彼らの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか、という議論も起こった」(24節)。誰が一番ダメか、危ういのかという議論から、誰が一番偉いのかという議論に移る。精神においては同じ精神で議論している。誰が裏切りなんていう最低のことをするのかと言って、他の仲間を詮索しているうちに、じゃあ一番偉いのは誰なのかという議論に変わった。これは順位付けの議論である。「だれが一番偉いのだろうか」という文章を観察すると、人から見て誰が一番偉く見えるのか、人から誰が一番偉く思われるのか、という文体となっている。人からどう見えるのか、人にどう思われるのかを気にしている。これは私たちの姿でもある。少しでも人に偉く見られたい、りっぱに見られたい。そのような人物になりたい。偉い人を目標にすること自体は別に悪くはないが、彼らが目指す偉い人の中身がどうも怪しい。
ご存じのように、主イエスは奴隷のようにへりくだり、今、十字架に向かおうとしている。下へ下への歩みの途上におられる。だが弟子たちは、上へ上への議論をしていた。人の上にのし上がることである。しかし主イエスはこれ以上ない低さに向かっていた。主イエスにとって十字架は最大の試練の時でもあった。主イエスは今、その最大の試練に向かおうとしている。それゆえの苦痛を心に感じておられる。だが彼らは主人の心知らずで、いたずら小僧たちのように能天気な議論をしていた。主イエスの心に寄り添うような内容の話ではない。しかも、主イエスのいないところでではなく、彼らはこの議論を主イエスの前で堂々としていた。かなり能天気。彼らは後で恥入ることになっただろう。
主イエスは彼らの議論を聞いていて、眉間に皺を寄せたり、ハァ~とため息ついたり、首を横に振ったり、馬鹿者と怒ったりという、ありきたりの反応はしなかったようである。平静さを保ち、彼らをたしなめたりせず、冷静にお答えになった(25~27節)。主イエスのお答を見ると、ほんとうの意味で偉い人とはどういう人であるのかを教える内容になっている。25節では、この世の偉い人たちの例として、王と守護者が取り上げられている。「守護者」について説明しておくが、これは一つの称号で、王たちや社会で人々を治める立場にある人たちが、この称号で呼ばれることがあった。一般に、こういった人たちが偉い人という印象であっただろう。現代も、王、大統領、首長、会長、社長等、様々な地位に着く方はいらっしゃる。だが主イエスは、26節において、ほんとうに偉い人とは立場、地位うんぬんではなく、仕える人であることを教えている。「しかし、あなたがたは、そうであってはいけません。あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい」。まず「一番若い者のように」と言われているが、「若い者」と訳されていることばは、下働きをする若者衆のことである。年上の者たちに指図されて動く若者衆のことである。ここに「仕える」という姿を読み取るべきである。次の「給仕する者のように」の「給仕する者」については、27節でも繰り返し登場する。「食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょうか。食卓に着く人ではありませんか。しかし、わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています」。「しかし、わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています」と、なんと、主イエスはほんとうに偉い人の模範としてふるまってくださっていたのである。ヨハネの福音書13章では、主イエスが弟子たちの足を洗い、手ぬぐいで拭いて上げたことも記されている。弟子たちに対して腰を低くして仕えておられたのである。主イエスは地上の誰よりも謙遜で、地上の誰よりも偉いと言っていいだろう。「給仕する者」は後に教会用語となり、「奉仕者」「執事」とも訳されるようになった。主イエスは給仕する者のようにへりくだって人に仕えなさいよ、と諭しておられる。主イエスはその人を高くしてくださるだろう。
主イエスは、弟子たちがやがて高くされる姿を28~30節で提示する。28節でまず、「あなたがたは、わたしの様々な試練の時に、一緒に踏みとどまってくれた人たちです」と、感謝と評価のことばを述べている。この後すぐ、最大の試練の場面において全員が主イエスを見捨ててしまうことになるのだが、主イエスはいわばお褒めのことばを語ってくださっている。続いて、彼らに御国を治める権威を与えることが言われている。29節で「王権」ということばがあり、30節で「わたしの国」の「国」ということばがある。実は原語はどちらも同じ<バシレイア>で「王国」を意味することばである。29節で「王権」に印が付いていて欄外注に「あるいは『御国』」とあるが、「王国」のことである。その王国の王とは主イエスである。彼らはやがて完成する王国、すなわち御国において、主イエスとともに統治する立場になるということである。この時点では、「自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか」などというような無益な議論をしていた彼らであったが、やがて彼らは、主イエスの教え通りに、「一番若い者のように」「給仕する者のように」なって、自分のいのちを削って神と教会に仕えていき、教会の土台となるのである。
今日のタイトルは「一番若い者のように」とさせていただいたが、主イエスの教えを一言でまとめると、「仕えるしもべになりなさい」ということに限る。私たちは年を重ねていくとどんどん偉くなってしまう。肩書がどうのという前に、精神的に偉くなってしまう。姑にいじめられて泣いていた嫁が、気づいたら同じ様になっていく。若気のいたりでとやっていた人が、近ごろの若い者はと批判的になっていく。年を重ね、人より技術を身に着けたり知識を身に着けたことを笠に着て、年下の者に対してその程度なのかと見下し、さばく。たくさんの苦労を重ねてきたことを誇りにして、お前たちはまだまだ苦労が足りないと見下げる。こうしていつしか様様になって、へりくだって仕える姿勢も失っていく。柔和さや人への忍耐も見られなくなる。プライドが錆びのようにたましいにこびりついていて、神の目には好ましくない錆び付き人間になってしまっている。そのプライドゆえに、人の世話になることを拒むということも起きる。そのような錆び、プライドは不要なものとして落としてしまったほうが良い。そして御霊の実をいただくのである。
主イエスは神であるにもかかわらず、天から下り、世話してもらわなければ何もできない赤ん坊の姿で来られた。そして公生涯においては、どれだけの民衆に仕えたかわからない。そして弟子たちにも忍耐の限りを尽くして仕え、仕えるしもべとしてのリーダーシップを発揮された。仕えるお姿の究極は十字架刑となる。何の罪もないにもかかわらず、ご自分のいのちを差し出して、罪人のために、弟子たちのために、私たちたちのために、身代わりとなって死ぬというお姿である。それは無駄死にとはならなかったのである。
私たちはどんなに年を重ねても、一番若い者のように「仕える」という姿勢を見失わないようにしよう。いつまでも若々しくとはこのことである。