前回は、1節の「さて、過越の祭りと言われる、種なしパンの祭りが近づいていた」という記述で始まったが、いよいよ、その祭りの初日を迎えた。7節において、「過越の子羊が屠られる、種なしパンの祭りの日が来た」と言われている。前回お話したように、過越の祭りと種なしパンの祭りは本来別々の祭りなのだが、連続して行われるため、二つの祭りを被せて表現している。これはユダヤの日めくりが関係している。現代では一般的に夜中の零時で日めくりが変わる。ところがユダヤの暦では日没で日めくりが変わる。ニサンの月の14日の日没前に、夕暮れ直前に子羊を屠る。時間としては午後3時頃に屠られたらしい。キリストが十字架上で死んだのも午後3時頃である。これは偶然ではなく、過越の子羊というのは、神の子羊キリストの型である。屠られる子羊は傷のない一歳の雄でなければならなかったが、それは犠牲となるキリストが罪のないお方であることの暗示となっている。屠られた子羊は日没後に食べる。種なしパンと苦菜(苦いハーブ)を添えて食べる。この時は、暦の上では翌日15日。日没後に食べるということは、パン種の入っていないパンは日没前に、すなわち14日に焼いて用意しておかなければならない。そして日が傾き暗くなったら食べる。この日没時というのは暦の上では15日なのだけれども、「14日の夕方」という表現もとれる橋渡しの時間帯である。こうした連続性ゆえに、出エジプト12章18節では、「最初の日の十四日の夕方から、その月の二十一日の夕方まで、種なしパンを食べなければならない」というように、種なしパンを食べるのが「最初の日の十四日の夕方から」と、過越の祭りと種なしパンの祭りの日を被せて書いてある。食べるのは日めくりの上では翌15日になってからなのだけれども、しかし、日めくりが切り替わる時間帯というのは、過越しの祭りの14日の夕方でもある。二つの祭りは内容的にも時間帯的にも連続していて一体である。

そして、過越の祭りと種なしパンの祭りの一体性のゆえに、子羊と種なしパンと苦菜を食べる食事は、「過越の食事」と言われている(8節)。「過越の食事」の原語はギリシア語で<パスカ>と言う。実は、1節の「過越の祭り」の原語も<パスカ>、7節の「過越の子羊」も<パスカ>、そして今述べたように、8節の<過越の食事>も<パスカ>となり、<パスカ>で祭り全体を意味させるとともに、また屠られる子羊も意味させ、その期間に食べる食事全体も意味させた。祭りも子羊も食事も<パスカ>。<パスカ>ということばは「過ぎ越し」ということばに由来していて、大切なのは、過越をもたらす子羊という存在になるだろう。モーセがイスラエルの民を率いてエジプトを脱出する時、子羊の血を家の入口に塗った家々は、神のさばきが過ぎ越した。死の御使いのさばきが下らなかった。そしてエジプトを脱出できた。今、キリストは過越しの子羊として、第二の出エジプトのみわざをしようとされていた。

さて、主イエスは過越の食事の準備のために二人の弟子を遣わした(8節)。遣わされたのは、弟子の筆頭格のペテロとヨハネである。ということは、この食事は主イエスにとっていかに大事なものかということである。その準備のさせ方が普通ではない。9節で「どこに用意しましょうか」と尋ねているのに、どこどこの家に行って、と指示しない(10節)。主イエスは、その家とは誰の家でどこにあるのかを話すことができた。しかし言わない。都に入ると水がめを運んでいる男に会うので、その男について行くように指示する。水がめは女が持つことが多かったわけだが、水がめを持っている男が目印と言うわけである。この水がめを持っている男は、自分の家に主イエスを迎える手筈をすでにしていた。弟子たちに呼び止められて、ああそうなんですかと、あわてて準備したのではない。12節で、「席が整っている二階の大広間を見せてくれます」とある。主イエスは誰かを通じて、すでに準備させていた。一般にこの家はマルコの家であったとされている。マルコの家であったか、誰の家であったか真実はわからないが、主イエスはなぜこのような、謎めいた、手の込んだことをしたのだろうか。遣わされた弟子たちは、どこの家に行くのか全くわからず送り出された。そして水がめを持った男と出会い、ついて行き、そこで打ち合わせと最終準備をした。ペテロとヨハネが「どこに用意しましょうか」と尋ねた時、どうして主イエスは、「どこどこに」と即答してくれなかったのだろうか。一つの理由を6節に見ることができる。「ユダは承知し、群衆がいないときにイエスを彼らに引き渡す機会を狙っていた」。パスカと呼ばれる期間に入って、引き渡す最初のチャンスは、群衆のいない過越の食事の時。この食事は家にこもって家族だけでするものである。だから、それは引き渡す絶好の機会となる。過越の食事の会場がどこなのか、あらかじめ分かれば、密告し、手配し、そこに踏み込んでもらえばいいわけである。だが、主イエスは十二使徒の誰もがわからないように、内々に手配され、過越の食事の準備のために二人の筆頭格の弟子がその会場に向かう段になっても、まだ誰もわからなかった。お昼を過ぎて、晩餐の会場がまだ誰もわからないという状況。準備に出かける本人たちさえわからないという状況。主イエスは教えない。これでは、ユダはユダヤ当局者たちに情報を提供する時間を生み出せない。主イエスは15節で、「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました」とあるように、主は死の苦しみの前に、この過越しの食事を弟子たちとともにすることを本当に願っていた。この食事に少しでも邪魔が入ることは願わない。ユダヤ当局のみならず、誰にも邪魔されることは望まない。おっかけファンの乱入も困る。この食事は、主イエスが過越の子羊として贖いを成し遂げられることを象徴する大切な食事だった。この食事を側近の弟子たちとともに分かち合うことが絶対に必要だった。

では、過越の食事の様子を見て行こう。「その時刻が来て、イエスは席に着かれ、使徒たちも一緒に座った」(14節)。「その時刻が来て」で始まるが、何時と決められていたわけではない。日没となって夜明けまでの間であれば、いつ食べてもよいのだが、そんなに遅い時間帯ではなかったことが流れ全体からわかる。「席に着かれ」とあるが、一般の食事は椅子と机ですることが多いのだが、過越の食事をする時だけは、必ず床に寝そべって、左肘で頭を支え、体を横に投げ出して、右手で食べた。どうしてこのような姿勢で食べるのかと思うわけだが、エジプトの奴隷状態から解放されたその解放感を、過越の食事の姿勢で表すということらしい。実は12節において「席が整っている」とあったが、このことばは、「クッションを敷き広げられた」といった表現である。椅子を並べてという表現ではない。日本人は座布団に座って食べるが、クッションに体を長々と横たえて食べる。解放感、くつろぎ感満杯の姿勢である。このようなクッション席があらかじめ用意されていて、ペテロとヨハネはそこに必要な食品を持ち込んだのだろう。

過越の食事は家長がリードするのだが、この時、その役割をされるのは主イエス。食事を開始する前に、主イエスは15,16節にあるように、この過越の食事を弟子たちとともにすることを切に願っていたことと、救いが完成するという神の国到来の時までは、わたしが過越の食事をすることはないということを告げる。主イエスが再び、過越の食事をされるのは、具体的には、ご自身の再臨の後となる。その時、全き救いを祝う神の国のパーティがある。それは18節において、表現を変えて繰り返し言われている。

ルカの過越の食事の描写の特徴は、他の福音書と違って、杯が二回出て来るということである(17,20節)。実は、過越の食事では、杯は通常四回使われた。初めに家長が第一の杯を祝福し、全員が分けて飲んだ。17節が第一の杯のことだろう。

19節では、種なしパンを分ける描写である。種なしパンはマツァと言われた。急いでエジプトを出なければならないので、パン種(酵母菌)を入れて発酵させている暇などないということで、パン種を入れないビスケット状のパンとなったが、主イエスはこのパンに新たな意味を加える。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです」。この時食べるパンは、十字架で犠牲となる主イエスのからだを表すものとなった。そして、「わたしを覚えてこれを行いなさい」と、出エジプトを記念してというのではなく、キリストによる救いのみわざを記念して行うということ。エジプトから脱出した夜、神さまに過越していただき、奴隷生活から解放されたというあの出来事そのものも、キリストによる救いの型であった。いわば、ここでのパンは新しい出エジプトを記念して食べるということ。

そして、キリストの犠牲を表すパンに続く杯である。「食事の後、杯をも同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です』(20節)。この杯は一番目ではないことは確かで、何番目なのか議論があるところである。主イエスが通常の過越の食事の手順を踏まれたのか、少しアレンジされたのか、それも定かではなく、杯としてはおおよそ三番目だろうと言われたりもしている。「食事の後」とあるが、子羊を食べ、種なしパンを食べ、苦菜を食べ、その後ということになる。大切なことは、この時に、主イエスはこの杯にどのような意味を与えられたのかということである。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です」。杯、すなわち、ぶどう酒は、キリストが流される血を表している。へブル人の手紙では、旧約のいけにえはキリストの型であったことを丁寧に教えてくれているが、へブル9章22節には「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません」とあり、キリストが流された血は私たちの罪の赦しのためであったと知る。

そして心に銘記しなければならないのは、これが「新しい契約」と言われていることである。新しいということは旧い契約もある。キリスト到来までの文書は「旧約聖書」と言われている。旧い契約について記されている。どちらにも共通していることは、血による契約ということである。出エジプト24章5~8節を読んで見よう。モーセの時代にシナイ山でイスラエル民が結んだ契約である。「あなたがたは、主のすべてのことばと、すべての定めとを守るか?」「はい、守ります。主の言われたことはすべて行います」。これは、つまり、「あなたがたは律法に従うか?従うなら祝福する」ということで、民は「従います」と誓った。その誓いを血判状のようにしていけにえの血で結んだ。だが、ご存じのように彼らは神にそむくことになる。レビ記にあるとおりに罪が赦されるためのいけにえの規定も定められるが、ヨシュアの時代になっても、そむきの罪は止まない。ダビデの時代を経ると、国家が消滅するまでに民たちは堕落していく。時代は進んでも、人の心は変わらないという現実がある。もはや、最初の契約では罪人を救うことも立ち直らせることもできない。先週エレミヤ書17章9節を学んだごとく、「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか」である。すなわち「律法を行うことによる救い」を超えた、救いの道を提供する新しい契約が必要なのである。

この新しい契約の新しさとは、ただ新しく結び直したということではない。時間的な新しさを意味するのでもない。内容が一新され、完全なものとなったという契約である。それは恵みの契約と言っていいものである。旧い契約と違って、私たちの側で何もいけにえは献げていない。私たちの側で何もいのちをかけたわけではないし、血は流していない。何の犠牲も払っていない。いけにえは神ご自身が用意してくださって、私たちの側では何もしていない。すべては神がしてくださった。一方的な神の恵みである。そして、その献げられた犠牲というものは、動物のように不完全なものではなく、神の御子イエス・キリストという完全なものであった。まことの神がまことの人となり、従順を全うされたという完全ないけにえだった。キリストは私たちの罪の身代わりとなり、血を流された。それは完全な救いのみわざであった。一度限りの犠牲において、完全で永遠の贖いのみわざを成し遂げてくださった。このキリストを信じる者に完全な罪の赦しと、永遠に神と交わり生きるという特権が与えられる。これが新しい契約である。

この過越の食事について、二点、付け加えておきたい。一点目は、19節の「これを裂き」ということについてである。裂いて与えられるからだはキリストの尊い犠牲を表すものなのだが、「これを裂き」ということで、キリストのからだが裂かれる痛々しさに心を向けて終わってしまうだけなら、受け取り方としては足りない。これは、一つのパンをちぎって皆に与えるということに意味がある行為なのである。パンはもともと一つなので、「これを裂き」から、みなが一つのキリストのからだに与っているという真理を汲み取らなければならない。「パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです。皆がともに一つのパンを食べるのですから」(第一コリント10章17節)。だから、私たちは聖餐式の度ごとに、私たちはキリストにあって一つなのだと覚えなければならないのである。皆で聖餐式にあずかる意味はここにある。

二点目は、キリストの再臨を待ち望むということである。16節で「過越しが神の国において成就するまで」とか、18節で「今から神の国が来る時まで」とか、神の国の到来が意識され、強調されているが、すでにいまだの神の国は、キリストの再臨によって完成をみる。私たちは、このキリストの再臨を待ち望みつつ、聖餐式に与るのである。キリストの再臨が救いの完成の時である。

過越しの食事の場面はこの後も続くが、今日は、主イエスが過越しの食事の本体であり、私たちも主イエスが話された新しい契約に招かれたことの幸いを受け止めたいと思う。この世界に、これ以上の契約はない。この世の契約では、災害の補償、事故の補償、入院費の保障、様々あれど、どれも地上の生活に関する一部で、支払うものがついてくる。保険に入っている方はわかるように、保障内容も変わって来てしまう。しかも保障期間は限定。死亡保険なるものもあるが、永遠のいのちを保障するものではない。この世の契約はすべて、主イエスが提示する契約と比べようもない。罪を完全に赦す、永遠のいのちを与える、御国での生活を約束する、そのようなものはないし、全き愛・永遠の愛で愛するという保障でもない。新しい契約が与えるすばらしい保障は夢物語のような保障になっている。だからこそ、この素晴らしい保障を与えるためには、想像を絶する犠牲が必要だったのである。罪人には不可能な犠牲が必要だったのである。神のひとり子であられる罪のないキリストが十字架にかかり、私たちの罪の身代わりとなり、犠牲の血を流すことが要求された。これが契約金、贖いの代価となった。人の側ではできないすべてを、神の側でしてくださったのである。今、キリストはその契約が執行されるために、十字架に向かおうとしてされていた。それは人類史上、人間が一番心に留めなければならない出来事だった。歴史の勉強で、様々な出来事があったことを私たちは学んだだろう。けれども、キリストの十字架以上に価値のある出来事はない。人類史の金字塔である。これがなければ私たちの救いはなかったのである。