22章から、物語は十字架刑に向けてクライマックスに入っていくことになる。過越の祭りが近づいていた。エルサレムの町全体がその準備に入っていた。だが祭りという喜ばしい祭典の裏で、表には出ない不穏な動きがあった。今日の箇所はその記事である。祭司長たちが主イエスを殺すための良い方法を探していて、弟子のユダが手を貸すという内容である。では見ていこう。

「さて、過越の祭りと言われる、種なしパンの祭りが近づいていた」(1節)。日本人にはあずかり知らぬ二つの祭りの名前が記されている。実は、過越の祭りと種なしパンの祭りは、二つの別々の祭りである。過越の祭りは、エジプトで奴隷とされていたイスラエル人が、エジプトを脱出する際に、子羊を屠って、その血を門柱とかもいに塗ったことに由来している。子羊を屠ったその夜、子羊の肉と種なしパンを食べた。その夜、エジプトに神のさばきが下ることになるのだが、子羊の血が塗ってあるイスラエル人の家は過ぎ越された。この時の子羊を「過越の子羊」と呼んだ。これはキリストによる救いの型である。こうして、年に一度、ニサンの月の14日に子羊を屠り、その夜、過越の食事をすることが慣例となった。これが過越の祭りである。種なしパンの祭りというのは、過越の食事に続く七日間、種なしパンを食べるというものである。エジプトを脱出する時、パン種(イースト)を入れてパンをゆっくり膨らませてパンを作っている暇などない。パン種を入れないパンを作って急いで食べて、またそれを食料としてもって脱出しなければならなかった。これを記念してパン種の祭りが過越の祭りに続いて制定された(出エジプト12章)。今、説明したように、過越の祭りと種なしパンの祭りは別々の祭りなのだけれども、連続して開催されるところから、一つの祭りとして表現される慣習が生まれた。

「祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を探していた。彼らは民を恐れていたのである」(2節)。しかしながら、殺すための良い方法に頭を使うなどというのはイカレテいるとしか言いようがない。救うための良い方法に頭を使うというのならわかるけれども。しかも、それをしていたのは、民の模範となり、民を指導する立場にあった祭司長と律法学者たちである。彼らは、福音書において「まむしの子孫たち」(マタイ3章6節)とか、「蛇よ、まむしの子孫よ」(マタイ23章33節)というように、良く言われていない。サタンの手先というイメージである。

「イエスを殺すための良い方法」というのはどういう意図で言われているのかということだが、「彼らは民を恐れていたのである」と関係している。先ほど見たように、過越の祭りの時期が近づいていた。ということは、エルサレムは祭りでごったがえすことになる。たくさんの民が集まる。いや、もうそういう状況である。そして民たちの多くは主イエスのファンだった。次の箇所を見よ。ルカ19章47,48節、20章19節。町は主イエスのファンになっていた民たちで溢れていた。もしこういう状況下で、主イエスに手を出そうとしたら、民衆は暴徒化する。そして、恐れていたように、自分たちのほうが殺されるかもしれない。祭り自体もめちゃくちゃになる。マルコ14章2節には「祭りの間はやめておこう。民が騒ぎを起こすといけないから」とある。彼らは、祭りが終わってから主イエスを殺す計画を、ああでもない、こうでもないと練っていただろう。にもかかわらず、主イエスは祭りの期間に処刑されてしまうことになる。どうしてなのか。なぜ祭りの期間に実現してしまったのか。そこには、主イエスを過越の子羊、世の罪を取り除く神の子羊とするという神の御計画があったことは確かであるが、人間的には、ユダの裏切りがあったからということである。主イエスを連行するためには、群衆がいないひっそりとした場所で、ひっそりとした時間帯に実行に移さなければならないが、その知恵をユダが授け、ユダがその主役を買って出た。

ユダはどのような人であったのだろうか。そして主イエスを裏切る動機は何だったのだろうか。情報は多くはない。彼は「イスカリオテと呼ばれるユダ」と言われている(3節)。当時は姓はないので、ナザレのイエスというように、出身地で呼ばれることがよくあった。「イスカリオテ」の「イス」は「人」という意味である。「カリオテ」はユダヤ地方にあった「ケリヨテ」という町の名前ではないかと言われている。そうすると「イスカリオテ」は「ケリヨテの人」といった意味となる。これが有力な説である。「カリオテ」に「大きな町」という意味を読み込むこともできる。田舎の漁師たちの集まりの中では異彩を放っていた存在ではないかと思われる。そして彼は頭が切れたのであろう。会計係を担当していた。彼はいわゆる秀才の部類に入っていたと思われる。

そのユダに「サタンが入った」。サタンは人を誘惑する存在である。サタンはこの後、ペテロを始めとする弟子たちを麦のようにふるいにかける(22章31節)。使徒の働きを見ると、アナニアという初代教会の信者に関して、「サタンに心を奪われて」とある(使徒5章3節)。サタンは信者たちを攻撃する。しかし、ユダの場合、特別な表現が使われている。「サタンが入った」という表現である。ふつうではない。ユダの裏切りが特別なものであったことがわかる。ユダが主イエスをなぜ裏切ったのか、様々に言われてきた。イエスがメシアとしてあまりに不活発な動きしかしないので、イエスを発奮させ、本来の力を行使させるために、イエスのためを思ってしたといった善意の解釈もある。ユダを飛び切りの善人に仕立て上げるものもある。だが、そうすることはできないだろう。ルカは6章の十二使徒の紹介では、「このユダが裏切る者となった」(16節)と、裏切った事実だけを書いている。他の福音書を読んでも、裏切ろうと思ってやったのではないけれども、結果、裏切り行為になってしまった、などという回りくどい解釈を後押しする文章は皆無である。

彼は、自分の本心や隠れてしていることを知られないようにふるまえるタイプであったようである。用心深い。エルサレム入りする前のベタニアでの記事だが、参考までにヨハネ12章4~6節を読んでみよう。「イエスを裏切ろうとしていた」(4節)とあるように、主イエスを裏切ろうとする思いはエルサレム入りする前からあったことがわかる。そして、彼はここベタニアで善人であるかのようにふるまっているが、6節から、金入れを預かりながら、そこに入っているものを誰にも気づかれないようにして盗んでいたことがわかる。周囲の人々は、ユダには主イエスを裏切る思いがあることも、盗みの罪が常態化していたことにも気づいていなかっただろう。ユダはポーカーフェースで良き弟子としての自分しか周囲に見せていなかった。冷静沈着に、慎重に行動し、表面的には忠実な弟子としてふるまい、自分のもう一つの顔は隠していた。主イエスに対しても慇懃にふるまっていただろう。

ルカ22章に戻っていただいて、先の記事の22章21~23節も読んでみよう。主イエスはご自分を裏切る者がこの中にいるとお話になっている。それが誰なのか皆にはわからない様子である。ユダはすでにこそこそと隠れて行動し祭司長たちと会ったりしていたが、誰にも気づかれず行動し、表情にも出さずにいた。だが主イエスは、一皮むけばどのような実体が潜んでいるのかを知っておられた。

「サタンが入った」というのは、サタンとの一番悪い関係である。サタンが入るのを許すという心理状態は、相当に悪い心理状態になっていたということである。ここに気づかなければならない。だから、ユダを善人に仕立て上げようとする解釈は成り立たない。サタンが入るなどというのは誰の心にも起こることではない。彼の心は罪にひどく病んでいたのだろう。ヨハネ13章2節も読もう。「夕食の間のこと、悪魔はすでにシモン子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていた」とある。「悪魔はすでに」とあるように、すでにサタンからの思いがユダの心に入っていた。ユダはサタンから来たよからぬ思いを捨てずに心で飼いならし、それで占領させ、心を汚し、毒し、そしてこの時を迎えた。「サタンが入った」。これは、サタン本人が入ったということだろう。ユダは病魔に完全に侵されてしまった。

聖書は、ユダの裏切りの動機は全く記してない。ルカでは「サタンが入った」と記しているだけである。サタンが入ったという彼の心は、もう誰にも理解しきれないような複雑怪奇な状態になっていたかもしれない。サタンが入った彼の心は、人間には理解不能なところまで行ってしまったのかもしれない。ただ言えることは、自分のメシア像とは食い違っているという思いがユダの心にあったということは事実であろう。

彼は、初め、この方こそメシアであると思ったからこそ弟子となっただろう。だがその心は冷めていく。彼はメシアのもとでの自分の出世、地位ということも強く考えていたかもしれない。そうであるならば、それは失望へと変わっていっただろう。そして裏切りの思いを抱くようになる。だが彼は、立ち振る舞いにおいてそれを表わさない。自分の不利になるそぶりは見せない。優秀で、秀才で、知的な彼は、周囲の信頼をくずさないようにして、ことばにおいてもふるまいにおいても、忠実な弟子を演じ通す。他の弟子たちは最後まで気づかない。ユダは自分の本性を最後まで隠し通した。彼は最後の最後までスマートな立ち振る舞いをする。ゲッセマネの園において、尊敬の念を表すくちづけをもって主イエスを売り渡す(22章47節)。礼儀があって品よく見せる身のこなしで裏切りを果たす。彼は粗暴ではなく紳士的であったが、このような悪もあることを知っておこう。このような悪が一番手ごわいかもしれない。悪のエリートと言えるかもしれない。

ユダの裏切りとは計画的であった。ペテロのように恐怖心から裏切ってしまったというのではない。「ユダは行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡すか相談した」(4節)。ユダは主イエスと他の弟子たちの目をかいくぐって、こっそりと相談に出かけたのか、買い物へ行って来ますと言って、彼らと会ったのか。その彼らとは「祭司長たち、宮の守衛長たち」。「宮の守衛長」とは祭司長に次ぐ祭司で、宮の警備隊長。ユダは彼らと相談し、報酬としてお金をもらう約束もしたようである(5節)。その相談内容とは6節であり、群衆がいないときにイエスを引き渡すというものである。ユダヤの当局者たちとしては、もともとひと気のないところで主イエスを捕まえてしまいたかっただろう。けれども、それは容易なことではなかった。それが十二弟子の一人という側近が手筈を整えてくれるという、彼らの思案にもなかった、これ以上ないというプランが提出された。「側近のユダが我らのスパイを務めてくれる。やれるぞ!これで自分たちの地位も神殿体制も安泰だ。」

ユダはペテロとちがって冷静沈着で頭も良く、スパイの適正検査合格かもしれない。だがほめられたものではない。ユダは人前では賢く見られ、誠実そうに、自分が良く見えるように取り繕っていたが、金入れにあるものを盗んでいたことからもわかるように、ケチくさくてずるくて、そしておそらく小心者で、案外セルフイメージも低くかったに違いない。彼は罪深い妄想に走り、そして周囲にバレないように常軌を逸した行動に出る。彼自身は賢い選択と思ったのだろうが、彼はサタンの駒として使い捨てにされるだけの身となる。だから大バカ者である。頭の良い彼であったが、心は尋常ではなく病んでいた。しかしそれはユダだけではなく、ユダヤ当局者たちの心もそうであった。人を殺すための良い方法を探すなどというのは完全にイカレテいる。けれども彼らは、神の御名のためにとか、国民の安泰のためにとか、もっともらしい理由付けで、それを実行に移そうとしていた。そしてまた、2節の「民」(民衆)のことも付け加えておきたいと思う。民衆は主イエスの味方なのだろうか。一見、味方であるが、彼らも自分たちのことしか考えていない。この民衆は一日、二日後には、「十字架につけろ、十字架につけろ」と狂い叫ぶことになる。23章13節を見ていただくと、「ピラトは、祭司長たちと議員たち、そして民衆を呼び集め」とあり、その彼らはどうしたのかということだが、「しかし彼らは一斉に叫んだ。『その男を殺せ。バラバを釈放しろ。』」(18節)。「しかし彼らは、『十字架だ。十字架につけろ』と叫び続けた」(21節)。「けれども、彼らはイエスを十字架につけるように、しつこく大声で要求し続けた。そして、その声がいよいよ強くなっていった」(23節)。もちろん、十字架刑に反対する民たちもいたわけである。だが、今読んだ箇所などは、民衆は容易に愚衆になりえることを物語っている。人の心の闇は深い。そしてはなはだ偽っており、病んでいる。

最後にエレミヤ17章9節を開こう。「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。だれがそれを知り尽くすことができるだろうか」。「ねじ曲がっている」を新改訳第三版は「陰険」と訳していた。「陰険」とは、何気なさを装いながら悪意を隠し持っていることや、悪だくみをする性質のことなどを言うわけである。ユダの心がまさしくそうであっただろう。「ねじ曲がっている」と訳されている原語は、「ひねくれている、偽っている、病んでいる」、そういったニュアンスのことばである。それは私たちの心にも適用される。だから、自分の心をのぞき込むのは、ほんとうは恐ろしい作業なのである。外側をつくろって生きることのほうが容易である。主イエスはそのような私たち罪人の心をすべてご存じの上で、十字架の上で私たちの罪の身代わりとなってさばきを受け、尊い血潮を流してくださった。サタンの陰謀をも救いのみわざに変えてくださった。

主イエスは私たちを何から救ってくださるのだろうか。主イエスは私たちを罪のさばきから救うだけではなく、罪からきよめ、罪の力そのものからも救ってくださるお方なのである。そして御霊によって新しい心をくださるお方なのである。主イエスは、私たちの心の癒し主であることも覚えよう。このお方の前に、心かたくしていたり、自分の心を隠そうとすることは愚かである。このお方の前に心低くし、真正面から向き合い、心を開いて差し出し、主イエスの治療に与ろう。クリスチャンにとっては定期健診をしていくということである。主イエスが主治医である。主は血潮によるきよめをしてくださるだろう。必要なみことばをくださるだろう。心の中に主の光が射しこみ、聖霊の風が心を吹き抜けるという新しい景色を見させてくださるだろう。暗い湿った汚い地面を見つめるのをやめさせ、目線を上に上げさせてくださり、大空を仰ぐように天を仰ぐ喜びを与えてくださるだろう。