私たちは意識が夕靄に包まれているような鈍い感化でいるために、主のお心を知らず、また差し迫っている危険も知らず、主の日が近いことも知らず、ただの人として歩んでしまいそうになる。今日の主イエスの教えにしっかり耳を傾けたいと思う。
前回は5~24節までを学んだが、主イエスは紀元70年に起こるエルサレム陥落を中心に預言的みことばを語って来られた。エルサレム陥落はエルサレム滅亡を確定させる歴史的事件であった。そして主の預言の視野というものは紀元70年のエルサレム陥落にとどまらず、私たちの時代にまで及ぶものなのである。今日は後半の25~36節までを学ぶ。前回も少し触れたように、前半の5節から24節だけでなく後半の25節から36節までの預言も、紀元70年頃までの預言なのだと主張する方々がおられる。最近もその主張を良く目にするが、この解釈には無理がある。25節以降の預言は、世の終わりに諸国の民を襲う、全世界規模の災いの預言にもなっている。それとともにキリスト再臨の預言である。
今日の預言で、世の終わりに起こる苦難として取り上げられているのが、天変地異である(25,26節)。「太陽と月と星にしるしが現れ、地上では海と波が荒れどよめいて」とある。黙示録にも天変地異の預言が数ある。クリスチャンでない方々でも、これから地球はどうなるのだろうと不安視している方々は多くいらっしゃる。これを紀元70年までの出来事と解釈する人たちは、ここは文字通りに受け取る箇所ではない、あくまで比喩的に解釈すべき箇所であると主張する。この立場に立つ方々は、こうした天変地異の描写についてどのような解釈をされているのかと言うと、地上の国家へのさばきを暗示する比喩的表現なのだと解釈する。25節の場合、具体的にそれは、イスラエルに対するものだとする。彼らは文字通りに解釈すべきではないことを納得させるために、旧約聖書の預言を引用する。バビロンへの預言がある。「見よ、主の日が来る。憤りと燃える怒りの、残酷な日が。地は荒廃に帰し、主は罪人どもをそこから根絶やしにする。天の星、天のオリオン座はその光を放たず、太陽は日の出から暗く、月もその光を放たない」(イザヤ13章9,10節)。このような天変地異はバビロンに起こらなかったと言う。だからこの箇所は比喩的に解釈すべきであると。だが、ご存じのように、イザヤ書は、二重預言的に世の終わりに起こることも預言している。イザヤ書13章を読めばそれは明らかである。バビロンの滅亡と終末的審判が重ね合わされている。エドムの滅亡については次のような預言がある。「天の万象は朽ち果て、天は巻物のように巻かれる。その万象は枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から実がしぼんで落ちるように」(イザヤ34章4節)。これもエドムに文字通りには起こらなかっただろうと言う。文脈を見るとわかるが、イザヤ34章は全世界への審判、宇宙的規模のさばきの描写であり、エドムはその代表として名前が挙げられているにすぎない。そしてサマリアへの預言がある。「その日には、神である主のことば。わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗くする」(アモス8章9節)。これも起こらなかったよねと。だがアモスが預言して間もなく、紀元前763年に皆既日食があったことが知られている。その後、サマリアは陥落している。比喩的に解釈する人たちは、文字通り起こらなかったのだから、文字通り解釈してはならないというが、旧約の預言も、文字通り起こることが記されているのであり、また文字通り起こったことが記されている。主イエスのことばも文字通り受け取るべきだろう。
天変地異に続いて起こることがキリストの再臨である。「そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです」(27節)。主イエスは、ダニエル7章13節を意識して使っておられる。「見よ。人の子のような方が天の雲とともに来られた」。ダニエル書ではこの預言に続いて御国が完成する描写が記されている。ユダヤ人たちは、この人の子の到来を待ち望んで来たのである。「人の子」とはメシアの別称である。27節の預言も文字通り起こることだと解釈するのが自然だろう。しかし、この箇所も比喩的に解釈する人たちがけっこうおられる。これも紀元70年頃に起きたことを象徴的に書き表しているにすぎないと言う。「天の雲とともに」なんて、孫悟空じゃあるまいし、この描写を文字通り受け取るなんて愚かだと言う。ここは比喩的にしか解釈しえないと主張する。そして、次のように言う。「雲」は文字通りの雲ではなくて、神の栄光、または神の権威のシンボルである。「来る」「来られた」というのは、上から下へ来るのではなく、つまり、主イエスが昇天し、御座に着かれたこと、天上に臨在されたこと、すなわち、再臨ではなく高挙を読み取らなければならないのだと主張する。「これは天上に王として即位されたということであるから、ここでは、主イエスが天上において王としての権威をもって国々を支配し始められたことを読み取らなければならないのだ。ともに、天の御座から紀元70年にイスラエルの神殿体制についてさばきを下すことを読み取らなければならないのだ」と主張する。
だが、「そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです」は文字通りに受け取るのが自然ではないだろうか。「雲のうちに」ということではどうだろうか。使徒の働き1章9~11節を読もう。「こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして<雲がイエスを包み>、彼らの目には見えなくなった。イエスが上っていかれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。そしてこう言った。『ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、<天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります>』。文字通り、「雲のうちに来る」のを否定する根拠はどこにあるだろうか。
そして比喩的に解釈する人たちは、「偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです」の「見る」ということを文字通り取るなと言うのだろうか。そうなのである。どういうことだろうか。ローマ帝国初代皇帝は、主イエスが誕生時のアウグストゥスであったが、彼の養父にユリウス・カエサルがいる。やがて彼の名前の「カエサル」がローマ皇帝の称号に使われることになる。つまり、ユリウス・カエサルはそれくらい偉大な人物だったが、ユリウス・カエサルの死後、人々は彼のたましいが天に上るのを見たと宣誓した。だが文字通り見たわけではない。けれども見るという表現を使った。こうした事例と比較できると言う。こうした古代の描写との類似性に目を向けてしまえば、実際に主イエスのお姿を見なくてもいいことになってしまう。だが、主イエスの昇天の際に御使いが告げた、「天に上って行くのをあなたがたが<見たのと>同じ有様で、またおいでになります」というのは、主の再臨のお姿を文字通り見ることではないだろうか。主イエスが告げられた、「そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです」というのも、文字通り見ることとして話されたはずである。平行箇所のマタイの描写を見れば、さらに、文字通り見るとしかいいようがない表現となっている。「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです」(マタイ24章30節)。まことに、実際に見ることになる描写である。けれども、天上に臨在されたという解釈をしている人たちは、実際に見ることではないと頑張る。このように比喩的に解釈する人たちも、文字通りに解釈すべき箇所は文字通りに解釈して、比喩的に解釈すべき箇所は比喩的に解釈すべきだと一応は言うが、自分たちの理性で受け入れられない箇所は比喩的に解釈してしまう傾向が強いように思う。「人の姿をした者が雲に乗ってやって来る?」、比喩に決まっているでしょうと。太陽月星の極端な描写も比喩でしょうと。極端な、子供じみた解釈はやめましょうと。そこには深い神学的意味が隠されているのであり、それを読み解かなければならないのだと主張する。だが、主イエスは、全時代の一般庶民の誰にでもわかることばで預言されているのではないだろうか。古代ユダヤ史を専門に研究しなければわからないとか、暗号、比喩・政治といったことを勉強しないと読み解けないとか、修辞学を勉強しなければ理解できないとか、そういうものではないだろう。主イエスは一部の学者、賢者にしかわからないような秘儀をあえて語られたのだろうか。確かに聖書の中には、象徴的表現、比喩的表現を駆使して書かれている文章もあり、それらはかなり知恵を要する。だが、キリストの福音を伝える福音書とか新約の手紙は、ふつうの読解力があれば、いつの時代の人でも誰もが理解できるように書かれているのではないだろうか。ひねって読まないで、ふつうに読めばいいように書かれているのではないだろうか。
主イエスの預言は、人の子の到来の預言を含めて私たちにも関係する終末時代の預言であることは、31節の「同じように、これらのことが起こるのを見たら、あなたがたは神の国が近いことを知りなさい」や、33節の「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません」や、35節の「その日は、全地の表に住むすべての人に臨むのです」からも受け取ることができる。主イエスが神であり、歴史の支配者であり、メシアとしてまことの預言者であるならば、紀元70年までのことしか語らないということのほうが不自然である。旧約聖書の預言者でさえ、その時代に起こることばかりではなく、世の終わりの預言をしているわけだから。旧約聖書の預言書のほとんどが、世の終わりの預言を書き記している。
後半は、終末時代に生きる私たちが取るべき姿勢について三つのことを見ていこう。第一は、身を起こし、頭を上げる(28節)。「贖いが近づいた」とあるが、「贖い」は救いの同義語である。主イエスの再臨は救いが近づいたしるしであるということである。その時、「身を起こし、頭を上げなさい」。これは尊い誰かを待つ姿勢である。参考になるみことばが詩篇24編7~10節である。これは神の契約の箱がエルサレムの門に到着し、町に入ろうとしている描写である。契約の箱が、ここでは「栄光の王」とストレートな表現となっている。栄光の王を前にして「頭を上げよ」と言われている。私たちにとっての栄光の王とは誰か。それはイエス・キリストである。そのお方を待つ姿勢を取るということである。まだ来やしまいとまどろみ、突っ伏して寝ているような姿勢ではまずいということである。
第二は、心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いに押しつぶされないよう気をつける(34節)。これも先の姿勢と関係している。「放蕩」は協会共同訳では「二日酔い」と訳されているが、これはもともと酒に関係することば。「酒宴」という訳もある。酒で正常ではない状態である。次の「深酒」は酔っぱらいを意味することばで、協会共同訳は「泥酔」と訳している。しらふとは反対の状態。最後は「生活の思い煩い」。富や快楽といった世俗的生活に心が奪われてしまうこと。そういったことで心が押しつぶされないよう注意しなさいということである。「押しつぶされる」とは鈍くなる、鈍重になるという意味も持っており、つまりは、心が鈍くならないように、鋭敏でいられるように、しらふでいられるようにということ。
第三は、いつも目を覚まして祈っている(36節)。これは心が鈍くならないでいることの積極姿勢である。これが主を待ち望むほんとうの姿勢である。心を鋭敏にし、いつも目を覚まして祈っているのならば、主が来られても、不意打ちを食らわせられるようなことにはならない。盗人に突然襲われるようなことにはならない。この姿勢を保つときに、人の子の前に、すなわちイエス・キリストの前に立つことができる。主の再臨を待ち望み、いつも目を覚まして祈っていることは、ぜひ実践したいことである。今の時代は終わる時が必ず来る。主イエス・キリストの再臨がその節目となる。だがそれは、終わりであると同時に始まりの時となる。御国の時代が始まる。その時は必ず来る。希望はある。まどろみそうになる目をこすりつつ、いつも目を覚まして祈っていよう。今の時代の暗さに気落ちしてしまうことも、また今の時代の欲望に心奪われてしまうことも容易であろう。だが、私たちの心の焦点というものは、再び来られる主イエス・キリストに、そして御国に置くのである。それを祈りの姿勢で表していこう。主の日は近いのである。