今日は献金の教えである。しかしながらよく見ると、献金のささげ方というよりも、神さまに対する献身の姿勢を教えていることがわかる。聖書で献金の最初の教えはどこに出て来るのかと思ったが、考えて見れば、超古代では金銭というものがなかった。作物とか動物とか、物そのものがささげものであった。それを踏まえてのささげものに関する最初の記事は、創世記4章のカインとアベルのささげものの記事である(創世記4章前半)。兄のカインは大地の実りを主へのささげ物として持って来た。弟のアベルは自分の羊の初子の中から最良のものを持って来た。主なる神が受け入れたささげものは、カインのささげものではなくアベルのささげものであった。なぜだったのかということだが、アベルは真心から最善のものをささげようとしたのだが、カインはそうでなかったということである(へブル11章4節,第一ヨハネ3章12節)。根本的には信仰姿勢、態度の問題なのである。今日の記事では、金持ちの献金の姿勢と貧しいやもめの献金の姿勢が対比されている。
今日の記事の流れを見ていくと、主イエスは神殿で教えておられた。19章47節では、「イエスは毎日、宮で教えておられた」とあり、直近の20章45節では「また、人々がみな耳を傾けているときに、イエスは弟子たちに言われた」とあるように、民衆や弟子を対象に教えておられたことがわかる。その流れで、今度は献金の教えなのだが、20章を見ると、主イエスはサドカイ人やパリサイ人といったユダヤ教の指導者階層の罪や過ちを取り扱っていたことがわかる。サドカイ人は富裕な人たちが多かった。パリサイ人も金好きな人たちがいた。今日の記事では1節にあるように「金持ちたち」が取り上げられているが、「金持ちたち」はサドカイ人のことなのか、パリサイ人のことなのかわからないが、いずれにしろ、彼らとは無関係ではない上層階級の人たちであると思われる。
「イエスは目を上げて、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れているのを見ておられた」(1節)。「イエスは目を上げて」とあるが、当時のユダヤ教の教師たちは、通常、腰をかけて教えるのだが、座っているその姿勢から「目を上げて」ということだろう。目を上げて金持ちたちの献金の様子を見ておられた。
主イエスが神殿におられた場所も説明しておこう。ここは「婦人の庭」という領域である。以前、19章の「宮きよめ」のお話の時にお伝えしたように、神殿の建物の前に「祭司、レビ人の庭」があった。その外に「イスラエルの男子の庭」がある。そのまた外に「イスラエルの婦人の庭」がある。そしていちばん外にあるのが「異邦人の庭」であった。そこでの門前市を、主は「強盗の巣」にしていると問題にされたわけだが、今おられるのは、婦人や子どもたちまでが入れる「イスラエルの婦人の庭」である。ここはイスラエル人ならば性別、老若男女問わず、誰でも入ることができる領域である。ここに13個のラッパ型の容器があったと、ユダヤ教のミシュナーという書物に記されている。投げ入れ口は大きくて、だんだんすぼんでくる形体。この13個のラッパ型の容器のうちの六つが自発的な献金用であったと言われる。1節で言及されている「献金箱」は、そのうちの一つである可能性が高い。主イエスはこの献金箱が見える位置に座っていた。
金持ちたちが献金している中、ある貧しいやもめが献金をささげた。「そして、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二枚投げ入れているのを見て」(2節)。「レプタ銅貨」と言われてもわからないのが私たちだが、「レプタ銅貨」のところの脚注を見ていただくと、「一レプタは一デナリの128分の1に相当する最小単位の銅貨。一デナリは当時の一日分の労賃に相当」。やもめが投げ入れたのは銅貨二枚、二レプタなので、計算すると、およそ5分の手間賃である。よくとっても10分。だれがどう考えても、わずかの値でしかない。
それにしても、主イエスは献金の額まで良く見ておられたものだと思う。ふつう、かなりそばに来ない限り、見えるもんじゃない。だから、銅貨を投げ入れる音でわかったのではという人もいる。また目的献金の場合、係の祭司に何の目的の献金であるかを告げ、その額も口にして、それを祭司に承認してもらってから入れることになっていたとも言う。これらのやりとりは大きな声で行われ、部外者も聞いていたと言う。だから、その声を聞いていたのではないかと言う人もいる。しかし、音や声を聞いていなくても、主イエスであるなら、すべてがわかるはずである。その人の家計がどうなっているかも、献金の額も。実際、主イエスは4節後半で、やもめについて、「持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから」と見通しておられる。主イエスはやもめに聞かなくとも、やもめの経済状態を見通しておられた。持ち金が全部で幾らあるのかをご存じであられた。私たちであれば、預金がいくらあって、手持ちがいくらで、その他のものがいくらでと、主イエスはすべてお見通しということである。このやもめにとっては、およそ5分の手間賃分が、生きる手立てのすべてであった。
ルカの福音書では、やもめに関する言及がどの福音書よりも多く、七回登場する。その七回のうちの最後が今日の箇所である。やもめを模範的に取り扱っていたのが、18章冒頭から始まる、「不正な裁判官とやもめのたとえ」である。また2書36~38節には、実際の人物として、神殿で断食と祈りをもって仕えていた84歳のやもめアンナが登場している。またルカ7章11~17節では、一人息子を失って悲嘆にくれる、やもめとなった母親が慰められる物語となっている。主イエスはこのやもめの一人息子を生き返らせるわけである。ルカの福音書は未亡人を励ます福音書ともなっている。
さて主イエスは、貧しいやもめの献金を通して何を教えられたいのだろうか。「こう言われた。まことにあなたがたに言います。この貧しいやもめは、だれよりも多く投げ入れました。あの人たちはみな、あり余る中から献金として投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから」(3,4節)。ここからある人は、献金とはささげた額ではなくて、財布に残した額で決まるという。貧しいやもめは財布に一銭も残さなかった。けれども、そうした財布に残した額のことを言われたのだろうか。またある人は、献金とは持てる一切をささげることが大事なのだという。貧しいやもめは持てる一切をささげたので。これらのどちらも、財布にいくら残ったかとか、全部ささげたかどうかだとか、数字的尺度で献金の良し悪しを言っているように思う。しかし、主イエスの言われていることを良く観察すると、献金する人の心のあり方に重きが置かれていることを知る。それが、金持ちとの献金の比較で教えられる。
4節を注深くご覧ください。金持ちについては「あり余る中から」献金を投げ入れたことが言われている。このことばは「溢れ出る」という意味のことば。この溢れ出てしまうものを献金としてささげたということである。つまり、金持ちたちは余裕をもって生活を送っていて、しかも溢れ出たものがあったときに、それを献金というかたちで持って来たということ。余剰金を持って来た。余ったお金である。そこには、ある意味で犠牲というものはない。余りをささげただけなので。では、やもめの場合はどうだろうか。「乏しい中から」とある。溢れ出るものはない。むしろ足りない。「乏しい中」ということばは「窮乏」とか「欠乏」という意味を持つ。足りなくて、不足していて、欠けていて、生活は楽ではないけれども、なんとかやりくりして生活しているという状態。まさに貧しい。生活に余裕はない。そんな中から、「持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れた」。協会共同訳は、「持っている生活費を全部入れたからである」と訳している。今手持ちの財布に入っているすべてだったらまだわかるが、「生きる手立てのすべて」「生活費を全部」投げ入れた。ただでさえ生活に余裕がないのに、これをした。つまりは、金持ちたちと違って犠牲を払ったということである。犠牲あってのささげもの。これぞ献金という姿勢。「生きる手立ての」の「生きる」ということばは、「人生」とか「生活」をもともと意味することばだが、彼女は姿勢として、金銭以前に、自分の人生と言おうか、自分の生活をささげ切る信仰があったわけである。だから、生活費の残りをささげるとか、余っていたらささげるとか、そういう姿勢はない。主なる神のためにということで、自発的に進んで犠牲を払う信仰があった。新約聖書でささげものというと、ナルドの香油をささげたマリアを筆頭に思い浮かべる方も多いと思うが、この名もないやもめも忘れてはならない。彼女はインタビューしてみたい信仰者の一人である。
お金の使い道としては、まず神さまのことが第一。彼女の献金とはその姿勢の表れであった。それにしても犠牲の大きいささげものということで、彼女がその後どうなったのかと案じる人もいるだろう。だが、主がすべてをご存じであられたので、大丈夫ではなかっただろうか。
彼女の信仰姿勢に近い旧約聖書のやもめの記述がある。シドンのツァレファテのやもめの物語である。第一列王記17章8~16節である。読んでみよう。預言者エリヤはツァレファテのやもめのところへ行き、「一口のパン」を求めた。しかし、それすら与えるのが難しい状況にあった。彼女は非常に貧しいやもめであったということである。この彼女のところにエリヤを遣わしたのは神さまである。貧しいやもめにとっては、神さまにささげ物をする機会が訪れたようなものである。しかし、あったのは、一握りの粉と油が少々、これがすべて。二レプタしかないのと同じような状況。17章の冒頭から読んでいくとわかるが、実は、この近辺一帯、飢饉に見舞われていた。貧しいやもめは息子とともに餓死を覚悟していた。餓死を待つ貧しいやもめ親子である。
彼女は預言者エリヤのチャレンジに応えることになる。まずエリヤのためにパン菓子を作り、その後で自分たちのものを作るという順番。つまり、神さまファーストである。彼女はそれを実践し、結果、神さまの豊かな養いに与ることになる。もし、これをしていなかったら、彼女は子どもとともに餓死していただろう。私たちは、「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」(マタイ6章33節)のみことばを思い起こす。あり余るもの、溢れ出るものがある無しに関係なく、私たちは神に対する献身の姿勢を、ささげ物、献金というかたちでも表していきたいと願う。