今日は、主イエスがどれほど素晴らしいお方であるのかということに焦点を当てるが、今日の記事は、ユダヤ教の指導者層の知的弱さと傲慢さを主イエスが指摘しているという内容になっている。

「すると、イエスが彼らに言われた」(41節前半)という文章で始まるが、「彼ら」とは、主イエスがそれまで話していた対象である。それは27節から「サドカイ人たち」であることがわかる。ユダヤ教の上流階級で、主に祭司たちが属していた。そして、この「彼ら」の中にはサドカイ人と主イエスのやりとりを聞いていた「律法学者たち」が含まれる。39節に「律法学者たち」とある。彼らはユダヤ人に律法を教える教師たちである。つまり、「彼ら」とはユダヤ教の中心的階層の人たちであり、聖書については詳しいはずの知的階層の人たちである。

主イエスは今日の箇所で、先ず、彼らのメシア観を問題にしている。「「どうして人々は、キリストをダビデの子と言うのですか」(41節)。「キリスト」とは「油注がれた者」という意味があり、それはメシア(救い主)の別称である(欄外注)。しかし、主イエスは今、彼らに、なぜこのようなことを問うたのだろうか。この質問を発せられた場所は神殿である。そこはユダヤ教のセンターであり、サドカイ人や律法学者たちで構成されるユダヤ教最高法院サンヘドリンの権威の座である。サンヘドリンで、ユダヤ教のポリシーというものを取り決め、それを実行に移した。彼らにとって一番重要な教えはメシアに関する教えである。メシアである主イエスは、ユダヤ教のセンターである神殿において、ユダヤ教のトップに立つ彼らの伝統的なメシア理解というものを試そうとされた。あなたがたは、ユダヤ教の核であるメシアに関して正しく理解しているのかと。それにしても、なぜ「ダビデの子」という表現にこだわられたのだろうか。実はキリストの時代前後、次のような祈りが、個人の祈りにおいて、また公の祈りにおいて捧げられていたことがわかっている。「おお主よ、イスラエルを統治する王を、ダビデの子を起こし給え」。ユダヤ人が首を長くして待ち望んでいたメシアの通称は「ダビデの子」であった。主イエスは「ダビデの子」をキーワードにして彼らのメシア観を正そうとされる。

旧約聖書において、イスラエルを救うために将来起こされる王はダビデの家系から生まれると預言されている(第二サムエル7章12,13節 イザヤ9章6,7節他)。だから、旧約聖書を勉強していた当時のユダヤ教の指導者層も、約束されたメシア、すなわち、やがて来られるキリストはダビデの子孫であると大方信じていた。それはそれで良かったのだが、彼らには二つの知的問題があった。一つは、目の前にいるイエスという人物をキリスト・救い主として認めていなかったということ。そしてもう一つの問題があり、それはイエスをキリストと認めない以前の問題なのだが、ダビデの子と言われているキリスト・救い主とはどのようなお方なのか、キリストの理解そのものが貧しいということである。そこを突いた質問をしている。

主イエスはご自分がダビデの子孫であることを否定しているのではない。そこだけは間違えないでほしい。ルカの福音書は主イエスがダビデの子孫であることを告げてきた(ルカ1章27,32節等)、また、主イエスご自身もご自分がダビデの子孫であることを否定していない。直近の出来事としては、神殿の中において、「ダビデの子にホサナ」という声が上がった時、祭司長や律法学者たちは腹を立てたが、主イエスはその賛美を受け入れられたことが、マタイ21章15,16節に記されている。主イエスがここで伝えたいことは、キリストはダビデよりはるかに偉大なお方であるということである。

先ほど、「キリスト」という呼び名はメシア(救い主)の別称であることをお話したが、当時の人々は、キリストを「神がイスラエルを救うために将来起こされる王様」と理解するようになっていた。つまりは、ダビデ王朝の再来のイメージ。けれども、真のキリストはそこには収まり切れないお方である。地上の普通の王朝には当てはまらない存在。ダビデ王朝の何代目の王様、ダビデの血筋を引く王様、そこには収まりきれない存在。ダビデよりはるかにはるかに偉大な存在である。そのことを主イエスは、詩篇110編1節のダビデのことばを引用して伝えようとされる。

「主は私の主に言われた。『あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで』」(42,43節)。最初の「主は」とは、ヤハウェなる神。「私の主」の「私」とは「ダビデ王」。そして「私の主」とは、神の右の座に着かれるお方。「右の座」とは、権威を分け合う座であり、神の右の座であるわけだから、それは神の権威を分け合う座であり、人格をもつ者が座ることができる座の中では最上の「至高の座」を意味する。ここにお座りになるのが、ダビデが「私の主」と仰ぐ神的権威をもつ存在、それがキリストということになる。だから、このお方は、単にダビデの子孫で済ませられるお方ではない。

ご存じのように、主イエスはこの至高の座に、十字架の死後、復活し、昇天して着座された。パウロは語る。「この大能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました」(エペソ1章20,21節)。このようなお方をダビデと並列して考えるのは誤っている。主イエスは被造物は誰も座り得ない至高の座に着かれた王の王、主の主である。

この至高の座に着かれたお方イエス・キリストと対照的であるのが、地上で上座(かみざ)をねらう律法学者たちである。主イエスは45節以降で、律法学者たちの傲慢な姿勢に対して注意を喚起する。彼らは上席、上座に座るのが好きである。「律法学者たちに用心しなさい。彼らは長い衣着て歩き回ることが好きで、広場であいさつされることや会堂の上席、宴会の上座を好みます」(46節)。「長い衣を着て歩き回ることが好きで」とあるが、律法学者には、長くて、しかも裾の広い、「タッリース」と呼ばれる制服のような服があった。それは律法学者のステイタスのシンボルであった。自分たちを権威づけるための衣。それを着て歩き回るというのは、その衣を見せびらかすというよりも、わたしは偉い学者なのだと、世間の注目を浴びて、賞賛を得ることが目的である。彼らはナルシシストというか、自分に栄光を!という存在である。続いて「広場であいさつされることや」とあるが、人にいっぱいあいさつしてもらえる場所は広場である。人々は律法学者たちの前では起立したという。そして当時の律法学者へのあいさつには、「先生、ラビ、わが偉大なる方」などというものがあったようである。このように賞賛を浴びるには、人の多い広場はもってこいの場所であった。「会堂の上席、宴会の上座を好みます」。上席も上座も、一番偉く見られる場所である。ルカ14章7~11節の教えでは、主イエスは客として招かれた人たちが上座を選んでいる様子に気づかれて、自分から上座を選ばないようにと釘を刺し、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです」(11節)と教えをまとめた。この11節を確認してほしい。あとで述べるが、「自分を高くする者は低くされる」モデルが律法学者で、「自分を低くする者は高くされる」モデルが主イエスである。

続いて、律法学者について言われていることは、「また、やもめの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ります。こういう人たちは、より厳しい罰を受けるのです」(47節)。やもめイコール立場の弱い貧しい人で、律法はやもめの権利を守り、やもめを助けるよう教えている。にもかかわらず、律法学者たちは、実質はそうでなかったようである。「やもめの家を食い尽くし」というのは「やもめの家を食べる」という表現だが、具体的に何を言っているのかわからない。やもめから必要以上の接待を受けることなのだろうか。それ以上のことも考えられる。律法学者は当時、生活相談員というか弁護士みたいなこともかねていた。法律の専門家としてやもめの保護者に任じられていたようだが、夫の死後、やもめの財産を不正に横領したのではないかとも言われている。やもめが負債を負ってしまったとき、借金のカタとして質物を取り上げてしまったのではないかという解釈もある。文字通り、家を取ってしまうという解釈もある。また、やもめから財産管理の相談があった際に、相談料を不正にせしめるということがあったのではないかとも言われている。さらには後半の「見栄を張って長く祈ります」から、やもめのために長い題目を唱えて、謝礼を高く取るということをしていたのではないか、という解釈もある。詳しいことは不明であるが、やもめさえも利用して、自分をりっぱに見せつつ、懐を肥やして生活していたことはまちがいない。

律法学者の根本問題は、見栄を張る偽善、うぬぼれ、傲慢である。彼らは自分を高く、高く上げ、神のようになりたいと、自分で自分を高く押し上げるのである。上席、上座の言及が良い例で、彼らは上へ上へと上ろうとする。では、主イエスはどうなのか。主イエスは会堂の上席、宴会の上座どころではない。天の御座、至高の座に着かれた。それは地上の誰もが座ったことのない頂点の座である。ここに、上へ上へとご自分の力で着いたのか。違う。エペソ1章20,21節で見たように、父なる神が大能の力を働かせて、主イエスをよみがえらせ、すべての支配、権威、権力の上に着かせられた。主イエスは自らの力で権力の座に上り詰めようとする人間とは全く異なる。主イエスは律法学者たちのように傲慢なのかというと、全く違うのである。全宇宙一謙遜なお方である。下へ下へという姿勢であられた。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としての在り方を捨てられないとは考えずに、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」(ピリピ2章6~8節)。キリストは神の御姿であるにもかかわらず、天の栄光をかなぐり捨てて、地上に下り、奴隷と同じように身を落とし、奴隷や極悪人を処刑する十字架の死にまでも従われた。キリストは罪人のかしらとみなされることまでよしとされた。そして刑罰を受け、よみにまで下られた。謙遜でなければ、このような生涯を受け入れることはできない。主イエス・キリストがこの地上においてナンバーワンの謙遜なお方である。そのキリストを父なる神はどうされたのだろうか。続くピリピ人の手紙の箇所にはこうある。「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました」(同2章9節)。自分を低くする者は高くされるのである。誰よりも謙遜なキリストであるからこそ一番高い所にまで上げられた。至高の座に。至高の座に上げられているというのは、一番謙遜な証拠でもある。神は謙遜な者を高くする。主イエスは謙遜さにおいてナンバーワンである。

では傲慢な律法学者たちはどうだろうか。「こういう人たちは、より厳しい罰を受けるのです」(47節後半)。律法学者たちはマタイ23章33節ではこう言われている。「蛇よ、まむしの子孫よ。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうして逃れることができよう」。つまりは、下に落とされる。そこは栄誉の場所でもなんでもなく、永遠の刑罰の場所である。「ゲヘナ」はエルサレムの南西に位置する「ゲン・ヒノムの谷」(ヨシュア15章8節)に由来していて、エレミヤの時代はモレクを崇拝する場所になった。そこでは子どもがいけにえとしてささげられていた。後に、ここでごみや動物や犯罪者の死体を焼くようになり、この焼却場は地獄を表すことばとなった。ゲヘナは究極の恥辱、不面目の場所である。最低の場所である。自分を高くする者は低くされるのであるが、彼らぐらいに自分を高くする者は、至高の座とは全く正反対の最低の低さにまで落とされる。上へ上へと、自分を高くすればするほど低くされる。神がそうされる。これが神の世界の法則である。

私たちは今日の箇所から二つのことを実践したい。一つは、十字架の死にまで従い、高く上げられた主イエス・キリストをほめたたえ続けることである。いと高き御座に着いておられるキリストをほめたたえ続けよう。賛美と誉れはこのお方だけがふさわしい。もう一つは、上へ上へという人生を選択するのではなく、下へ下へという人生を選択しよう。そのようにして、私たちは人の評価ではなく、神の評価にゆだねていこう。人の目にどう映るかを気にする生き方ではなく、神の前に誠実に、謙遜に生きて行くことを選び取ろう。