人々は死んだらどうなる?と一度は考えるものである。それが求道のきっかけとなったという人も多い。私も、小学生の時から、人は死んだらどうなるのか?この地上での生活がすべてなのか?そうであれば生きることの意味は?漠然と様々に考えていた。

キリスト時代の古代ユダヤ人は、人が死んだらどうなるかということにおいて、次のような見解が一般的だった。死後にもいのちがあり、すなわち霊、たましいの存在として生き、最終的にはよみがえる、復活する、というもの。パリサイ人もこれを信じていた。しかしながら、異教徒の見解である、たましいだけの死後のいのちに同意するユダヤ人もいた。日本人はこの見解が多いだろう。私も聖書を読むまではそうであった。また、死後のいのちも否定し、からだのよみがえりも絶対に信じないユダヤ人もいた。サドカイ人である。彼らは、人は死んだら終わり、その後は何もないと信じていた。そう信じている現代人もいるだろう。

今日の記事は、神に対する信仰を持った者は死んだらどうなる?ということの答えとなっている。今日の記事はサドカイ人の主イエスに対する質問から始まっている。「サドカイ人」とは「サドカイ派」というユダヤ教の一派である。彼らはパリサイ派とともに、およそ紀元前2世紀末頃から始まったユダヤ教の主要な宗派である。サドカイという名称の由来はソロモン王時代の祭司ツァドクにあるものと思われる(第一列王2章35節)。サドカイ派はこの由来が示すように、伝統的に祭司たちがこの宗派に属してきた。加えて上流階級の人々が属してきた。サドカイ人は上流階級の宗派である。貴族階級の宗派である。この人たちは復活があることを否定していた(27節)。いわゆる、使徒パウロが第一コリント15章で論証している義人の復活を否定していた。パリサイ派は復活を信じていた。当時、復活肯定派であっても、様々な見解があった。だれが復活するのかということにおいて意見が分かれていた。イスラエル人だけ復活するとか、いや、イスラエルの義人だけ復活するとか。また復活のからだの性質として、この血肉のからだと同じ性質であると信じる人もおれば、いや、全く新しい霊のからだを授けられると主張する者もいた。いずれパリサイ人は復活肯定派である。だが、サドカイ人は復活そのものを信じていなかった。いや、そればかりではない。霊の存在さえ信じていなかった。「サドカイ人は復活も御使いも霊もないと言い、パリサイ人はいずれも認めているからである」(使徒23章8節)。御使いも霊的存在であるわけだが、霊の存在を認めない。当然、人は死んだら終わりという考え方になる。霊の存在を認めないということだが、主イエスは「神は霊です」と言われたことがあった(ヨハネ4章24節)。いったい彼らは神のことはどう認識していたのだろうか。彼らは神を信じていながら唯物主義者のように物事を考える傾向にあった。

彼らが復活はないということを正当化するために用いたのがみことばであった(28節)。これは申命記25章5,6節の引用である。通称、レビラート婚と言われるものである。これは長兄が跡継ぎなくして死んだ場合、弟がいるならば、その弟がその未亡人の兄嫁と結婚して、最初に生まれた男の子を亡くなった兄の跡継ぎにしなければならないという掟である。彼らはこの掟を、なぜか復活を否定するために引用する(29~33節)。七人の兄弟がいて、長兄が跡継ぎなくして死んでいく。レビラート婚が適用されるも、弟たちはそろいもそろって全員が男の子を残さずして死んでいく。女も死んだ時、復活というものがあるならば、その復活の世界では、その女は七人の男を夫としなければならなくなる。多重婚の妻である。一夫多妻の反対、一妻多夫というか、多夫一妻になってしまう。これは破廉恥な罪だから、復活などおかしいと彼らは考えていた。しかし、復活とは何ら関係のない子孫を残すためのレビラート婚の教えを、どうして復活を否定するために引用するのか。このように、自分たちの都合の良いように、聖書のことばを無理無理引っ張ってきて、自分たちの考えを押し通そうとする傾向は、現代においてもなくならない。まちがったことを主張しながら、ほら聖書にこう書いてあると、こじつけの解釈をするのである。

主イエスは復活を肯定するために、みごとな論証をされる。主イエスの答えは二つに分けられよう。第一は、次の世はこの世の延長ではないということである(34~36節)。主イエスは神の国の性質を語られる。サドカイ人たちは結婚の話を持ち出したので、結婚を意識しての答えとなっているが、「次の世に入るのにふさわしく、死んだ者の中から復活するのにふさわしいと認められた人たちは、めとることも嫁ぐこともありません」(35節)。「死んだ者の中から復活するのにふさわしいと認められた人たち」とは、いわゆる義人の復活の言及だが、この人たちは「めとることも嫁ぐこともありません」というのである。つまり、結婚は必要ないということであるが、結婚が必要でないというのは、36節前半の「彼らが死ぬことは、もうあり得ないからです」が答えになっている。死ぬことがないということは、後継者や相続者を産む必要はなくなる、ということになり、とどのつまりは結婚は必要ないということである。次の世は、出産したり、結婚したりする世界ではない。結婚して、生めよ、増えよ、という世界ではない。だから、独身だ、いや妻帯者だ、いや子持ちだ、彼らまでが二親等に属するんだ、そういう風にして自分が何者であるかを位置付ける必要はなくなる。では、自分の位置づけはどうなるんだろうか。

「彼らは御使いのようであり、復活の子として神の子なのです」(36節)。次の世の姿が「御使いのようであり」と言われている。御使いになるとは言われていない。御使い的になるというか、御使い風になるということである。では「御使いのよう」とはどのような存在なのかということだが、御使いは霊的存在である。この地上の肉体を持たない。パウロは第一コリント15章で言う。「血肉のからだは神の国を相続できません」(50節)。そうである。今の私たちのからだというものは土に属するからだであるが、やがてのからだは御使いのような天的なからだである。それは朽ちることのないからだである。そして、御使いがそうであるように、結婚、出産といった地上での営みがなくなる。復活のからだをもっての神の国での生活は、アダムとエバが結婚し、出産し、家族を形成し、生活を営んでいったような、この世の延長や焼き直しのような生活ではなくなる。復活の世界では、「復活の子として神の子なのです」とあるように、誰々さんちの子どもだ、何々家の家系だ、あの人とは一親等の血族だ、というように、血のつながり的なことは重要でなくなり、新しいからだをもった「神の子」という身分が意味あることなのである。地上の世界の生活形態を引きずらない。神を父とし、神の子たちが、神をあがめ、神に仕え、互いに神の家族として生きる世界である。私たちはその前味として、血のつながりはないけれども、互いに兄弟姉妹と呼び合って信仰生活、教会生活を送るわけである。

復活を証明する主イエスの答えの第二は、過去の聖徒たちも生きている、ということである(37~38節)。主イエスはそのことを、出エジプト記3章を引用して教える。復活を論証するのに、他の旧約の書ではなく、なぜわざわざ出エジプト記を選ばれたのかということだが、実はサドカイ人が聖書と認めていたのは創世記から申命記までのモーセ五書のみ。それ以外の書は参考書程度にみなし、聖書とは認めていなかった。主イエスはそれを知っていて、彼らが聖書と認めている出エジプト記から論証し、モーセ五書も復活を否定していないと論駁される。「モーセも柴の箇所で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、死んだ者がよみがえることを明らかにしました」(37節)。モーセの呼びかけである、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」をどう受け取ったらよいだろうか。「アブラハムの神であった、イサクの神であった、ヤコブの神であった」と受け取ればよいだろうか。だが主イエスは38節において「生きている者の神」と言われているとおり、モーセの呼びかけを、「今、アブラハムの神、今、イサクの神、今、ヤコブの神」と、「生きている者の神」という認識で呼びかけたのだと受け止めておられる。神は生きている者の神なのである。アブラハムを始めとする過去の聖徒たちは死んだように見えて、肉体が朽ちただけで、今も生きている。ならば、義人の復活は否定できない。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、今も天の領域で神をあがめながら生きている。サドカイ人が信じていたように、彼らは死んで終わった人たちではない。もちろん、その後に続いた聖徒たちも生きている。私たちクリスチャンは、この世にあっては少数派であると沈むことがあるが、事実は、へブル人の手紙の著者が述べているように、「多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いている」(へブル12章1節)。「多くの証人」とは死んだが今も生きている、旧約の聖徒たちのことである。今、生きた多くの聖徒たちがスタジアムを満席で埋め、私たちを取り囲み、その中で、その下で、私たちは信仰の競技を行っているようなものである。

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。神にとっては、すべての者が生きているのです」(38節)。主イエスは、いのちの神につながっていない者は、生きていても死んでいる者であることを教えていたが、この節の「神にとっては、すべての者が生きているのです」の「すべての者」というのは、主イエスの生死の教え、またこの文脈から、35節がヒントになって、「死んだ者の中から復活するのにふさわしいと認められた人たちすべて」と解することができるだろう。すなわち、それは旧約、新約の聖徒たちすべてである。

サドカイ人は主イエスの答えを聞いて、どう応答したのだろうか。何も書かれていない。書かれているのは律法学者たちの応答である。「律法学者たちの何人かが、『先生、立派なお答えです』と答えた」(39節)。律法学者はサドカイ人ではない。彼らは大抵、復活を信じるパリサイ人である。サドカイ人たちは、「彼らはそれ以上、何もあえて質問しようとしなかった」(40節)とあるように、反論する口を失ってしまった。弁論では負けることを察した。

今日の記事から、私たちの次の世での生活がどのようなものであるかを、少しだけでも垣間見ることができるだろう。御使いのように神に仕え、互いに仕えていくことになる。この地上の延長のような感覚で、次の世での生活を思い見るべきではない。出産があって、結婚があって、冠婚葬祭の付き合いがあって、やがて自分のからだ自体が衰え、遺言残して死を迎える、そういうことはない。次の世では、主なる神の完全な御支配のもとにあり、私たち一人ひとりが神の子どもとして、血肉の状態を超えた聖なる家族の一員として生きることになる。しかも朽ちない霊のからだをもって生きる。それは想像を絶する新世界である。愛と喜びの世界である。死も、悲しみも、叫びも、苦しみもない世界である。その世界ははっきりとした現実の世界で、その世界と比較するなら、今の地上世界こそが一瞬にして消え去る霧のような世界でしかない。

この新しい生活の全貌は義人の復活を含めてはっきりとはわからない。主イエスは23章43節を見ると、十字架上の強盗に「パラダイス」を約束された。パラダイスとは、信者の最終目的地ではない。パラダイスとは、聖徒たちが復活の前に一時的に休息する喜びに満ちた天の園である。信者の復活は、時期としてはキリスト再臨の時である。「すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり」(第一テサロニケ4章16節)。復活のからだはキリストのからだに似ているようである。「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます」(ピリピ3章20,21節)。このからだは血肉のからだではないし、単に霊であるということではないし、それはキリストのからだに似せられた、朽ちることのない栄光に輝くからだである。このからだの本質についてはこれ以上のことはわからないが、復活があるというのは本当である。先に起こったキリストの復活というのは、歴史の終わりに起こる信者の復活の先駆け、保証となっているのである。キリストが復活されたのならば、私たちも必ず復活するということである。これを信じるのがほんとうのクリスチャンである。サドカイ人にとっては、キリストの復活を死ぬほど信じたくたくなかっただろう。だが、事実キリストは私たちの先駆けとして復活されたのである。

最後に改めて強調したいことは、私たちにとって、死は終わりではないということ。それは、この地上での生活よりはるかに優れた新しい生活の始まりにすぎない。だから、私たちは死を前にしても希望はなくならないである。この地上世界は一喜一憂の霧のような世界でしかないが、私たちはその先の完全な神の国に向かっているのである。そこで復活のからだを持って生きるのである。