新年礼拝のテーマはズバリ「みことば」である。そして今週のみことばは、元旦礼拝でも学んだ箴言16章20節、「みことばによく通じた者は幸いを見出す。主に拠り頼む者は幸いである」とさせていただいた。新しい年を歩むための土台となるのはみことばであることを、改めてご一緒に学ぼう。

本日の記事は、世界最初の罪を犯す物語である。人類の先祖、アダムとエバの失敗の物語である。アダムとエバは最初、純粋無垢な存在であった(2章25節)。彼らは神に背いた経験、すなわち、罪を犯した経験はなかった。彼らにとって神は親そのものであった。彼らは神との健全な交わりの中に生きていた。神と人間、互いの間に調和があった。彼らは神の存在を認めないとか、対抗意識を持つとか、神から隠れるとか、そういうことは全くなかった。

ところが、神との間に亀裂が生じることになる。蛇の誘惑によってである。「さて蛇は、神である主が造られた生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった」(1節前半)と言われている。「蛇」は不思議にも、全世界で蛇神として崇められている。竜も蛇のことである。中国ではインドから仏教が伝来すると、翻訳僧たちがサンスクリット仏典の「蛇」を意味する「ナーガ」ということばを「竜」と翻訳した。その後、中国の社会は竜の社会を構成していくことになる。中国の社会はつねに皇帝が社会の頂点に位置づけられ、皇帝だけが竜の縫い取りのある衣服を着る権威があった。最高位の竜は、容易に雲を呼び起こし昇天するとされていた。

蛇は海の神、水の神としてあがめられていて、中国のみならず、東南アジア全域にナーガ信仰が行き渡った。ナーガ信仰はインドにあったものである。紀元前2600年頃、インダス文明が存在し、この頃すでにナーガ信仰というものがあり、これがバラモン教、ヒンズー教、仏教に溶け込んでいった。仏陀が菩提樹の下で瞑想中、暴風雨を、ナーガが頭をコブラのようにして天幕状に広げて防いだという伝説も生まれている。仏陀を菩提樹の下に誘ったのもナーガと言われている。私の育った村の寺は通称「蛇寺」と言われ、蛇が祭られている。斎藤家の屋敷神もまた蛇だった。

蛇崇拝なるものは東アジアのことだけではなく、全世界にある。古代より蛇神信仰が全世界にあった。シュメール・メソポタミア文明、古代エジプト文明、北アメリカ大陸のアンデス文明、メキシコのマヤ文明、いずれも蛇神が崇拝されていた。蛇は神道側の資料である日本の古代神話にも登場している。蛇信仰は古代日本でも盛んであった。日本では蛇を祭る神社が全国各地に点在している。蛇は仏教、神道双方で神格化されている。蛇は脱皮を繰り返して生命を維持するので、不死の象徴としても知られている。また、神の使いとしても位置づけられている。神のメッセージを伝えたり、神の意志を代行する存在とされている。こうしたことも、全世界において、蛇が賢い生き物として認知されていることの一つの証拠である。日本では一般に、金運の神としても崇められている。

蛇の形状だが、14節を見ると、神のさばきとして、「おまえは腹這いで動き回り、一生、ちりを食べることになる」と言われていることから、元々は足があったとされる。蛇の骨格には足の痕跡が残っていると言われるのは、そのためかもしれない。

さて、この蛇であるが、巷では人間に幸せをもたらしてくれる神として崇拝されているわけだが、その賢さを人間の幸せのために、真の意味では用いないようである。その賢さを用いて、蛇が今日の場面でしたことは惑わすということである。13節で、「蛇が私を惑わしたのです」ということばがある。黙示録12章9節にはこうある。「その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者」。蛇は今日の場面でエバを惑わしたが、聖書の最後の書である黙示録では「全世界を惑わす者」と言われている。「全世界を惑わす者」である。だから、他人事ではない。そして、ここでは「古い蛇」と言われているが、「古い」というのは、アダムとエバの創世の時代が意識されての表現である。この蛇は創世の時代より年を重ねて古い蛇だが、全世界を惑わす存在として今も生きている。死んだ蛇とは言われていない。ですから、創世の時代の蛇の惑わしの物語を、現在の自分にも当てはめて見ていきたい。

蛇の惑わしは、神のことばへのチャレンジである。それはいつの時代でもそうである。「蛇は言った。『園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。』(1節後半)。園の木には食べてはならないと命じられていた善悪の知識の木があったわけだが、「善悪の知識の木」のことは口にせず、まずは「園の木」という表現だけを使って、さぐりの質問をしている。闇バイトの誘い文句もそうだが、核心的な話は後に取っておく。初めはやんわりと相手に向かう。蛇は神の命令は何であったか知っている。だから最初から、「園の木のどれからも食べては良いけれど、中央にある善悪の知識の木からは食べてはならないと神は仰せられたのですよね」と、確認の質問しても良かった。だが、神の命令を判を押すように繰り返すのは賢い手法ではない。それは、相手に神の命令を守りなさい、と言っているようなものである。「園の木、どれも美味しそう」「本当にそんなこと言われたの?」心の弛緩をねらった賢い質問である。

女は蛇の質問に答えてしまう。ある方は、蛇に答えてしまったことが破滅の始まりであると言っているが、その通りであると思う。初めの段階で断ち切ってしまったほうが良かった。そうでないと、手足を引っ込めるのが難しくなっていく。

女は、質問されて、神の命令を口にする。「女は蛇に言った。『私たちは園の木の実を食べても良いのです。しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました』(3節)。では、実際の神の命令を確認しよう。「神である主は人に命じられた。『あなたは園のどの木からでも思いのままに食べてもよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ』(2章16,17節)。この命令と比較して、女の答えでもっとも注目していただきたいことは、神のことばが「あなたは必ず死ぬ」に対して「死ぬといけないからだ」と弱くなってしまっている点である。「必ず死ぬ」を「死ぬといけない」と言い替えたことは、その木の実を食べても大丈夫かもしれない、なお生き残れるかもしれないという心理が働いた証拠ではないだろうか。女の心は緩んできた。

その緩みを突いて、蛇は言った。「あなたがたは決して死にません」(4節)。「必ず死ぬ」が「死ぬといけない」になり、「決して死にません」と段階を踏み、罠に完全にはまることになる。賢い惑わしだと思わないだろうか。神のことばは「必ず死ぬ」なのだから、「決して死にません」という惑わしに引っかかりそうにないものを、「その木の実を食べても死なないかもしれない」という心理を突いての「決して死にません」であったから、抵抗は難しくなってしまった。神のことばと全く正反対のことばであるのに、いや大丈夫かもしれない、大丈夫だろうと、なってしまった。感情はムラムラとなり、神のことばはすっ飛んで行く。

蛇は続けて言う。「それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです」(5節)。「善悪の知識の木」だが、善悪は神の判断に由来する。絶対者である神が、何が善で何が悪であるのかを決める権威を持つ。人間は神の命令に聞き従うことによって善悪の判断を得るものなのだが、神の命令を破り、神のようになって善悪を知るようになるということはどういうことだろうか。「神のようになり」というのは神への挑戦である。被造物がしてはいけないことである。それは驕りである。それは悪い意味で神から自立し、自分が神々の一人のようになろうとすることである。現代の思想・宗教の潮流は、神のようになれると謳っているところにある。人間はもともと被造物としての自分の分をわきまえ、神に依存して生きるように造られており、神に対抗する存在として造られたのではない。この神への挑戦は堕罪でしかない。食べてはならないという善悪の知識の実に手を出すならばどうなるのかということであるが、それは神への罪となり、罪を犯して善悪を知る愚かさを味わうことになる。それとともに、善悪の基準が自分になるという愚かさを生み出すことになる。まさしく、自分が神のようになってしまう。わたしが判断し、わたしが決める、わたしが基準、そうなっていく。現代もこれによって混乱を招いている。

女は好奇心に負けることになる(6節)。「目に慕わしく」、美味しそうという印象を強く持っただろう。「またその木は賢くしてくれそうで」と、魔術的力を秘めているような印象も強く持った。女は衝動的に手を伸ばして、食べてしまった。「ともにいた夫にも与えたので」と、夫アダムは、彼女のすぐそばにいたようである。アダムは妻の声に従ったということだが、それは蛇の声に従ったということである。人は基本、神の声に従うか蛇の声に従うかのどちらかである。

二人は食べたその時は、一瞬の喜びを味わっただろう。しかし、その代償はあまりにも大きかった。罪に恥入る感覚が強く来た(7節)。いちじくの葉の腰覆いがそれを物語っている。その後、罪の影響は自分たちだけではなく、全世界も被ることになってしまう。

蛇は人間に幸せや豊かさをもたらしてくれる存在として崇拝される。初めに述べたように、日本では金運の神さまとしても有名である。しかし、表面的には人間に幸せをもたらしてくれるように見えても、真の狙いは罪を犯させ、まことの神から引き離すことでしかない。私たちはそれを見抜く賢さを身につけなければならない。みことばによってそれをするのである。

この物語の蛇の惑わしのことばを二つのポイントで見ると、一つは「あなたがたは決して死にません」(4節)。これは、裁きの否定である。今、大部分の宗教がこの立場に立っている。身近なところでは、神道は裁かれなければならに罪はないと明言する。それは祓えば済む性質のものだとする。だから、人は死後、50日祭を経て守護神となるとされる。まさしく「神のようになる」。同じような思想が新興宗教、東洋神秘主義のニューエージムーブメントにある。そして今、裁きを否定する思想がキリスト教に入り込んでいる。人は誰しも死ねば永遠に生きる、裁きはない、と教える教会が増えている。教派関係なく、主に聖書信仰に立たない教会である。これは、誰の惑わしだろうか。裁きを否定してしまうことにより、人は容易に罪を犯すようになる。

もう一つは「神のようになる」である(5節)。今述べた、神道もそうであるし、新興宗教、ニューエイジムーブメント、異端の教会などがそうである。人間は霊的進化を遂げて神のようになれると教える。キリストという存在は、私たちより霊的進化を遂げた存在なのだという教えも良く目にする。神のようになりたい、これは最大の傲慢である。人間は被造物としての自分の分をわきまえ、へりくだり、神に依存して生きなければならない。無神論に立つ人々も、人間を、そして自分を神のようにみなす。キリスト教にも、神のようになれるという惑わしが入ってきていて、自分の願いをかなえるための力を発揮できるとか、神秘的な力を身に着けて奇跡を行えるとか、他宗教でも教えているようなことを教えている教会がある。そうでなくても私たちは、神から悪い意味で自立し、神に拠り頼まず、自分の力で勝手にやっていこうとする傾向にある。神の前に、自分を何様だと思っているんだというふるまいをしてしまうわけである。主権者が神であることを忘れて、我がもの顔にふるまってしまうわけである。

神のようになろうとして天から追い出された御使いが悪魔であるわけだが、彼は神を偽装して惑わすことに長けている。人を介して惑わしても来る。インターネットも書物も用いる。内なる声として語りかけて来ることもある。いずれにしても、神のようにという惑わしは誰から来るのか、私たちは知っておく必要がある。

私たちは蛇のことばだけを聞けば魅力的に思ってしまい、蛇は罪を良いものとして提示してくれるので、つい受け入れたくなってしまうが、こうした心理戦、思想詐欺に屈服しないために、やはり、神のことばを自分に刷り込むことをしておきたい。

ユダヤ人は、衣の四隅に房が付いている衣服を身にまとっていた。その房には青い紐が付いていた。主イエスもこの衣を着ていて、十二年の間、長血を患っていた女が、主イエスの衣の房に触れた物語がマタイ9章に記されている。この衣の房は単なる飾りではない。神さまが、ご自身の命令を忘れやすい神の民のために定められたものである。「その房はあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こしてそれを行うためであり、淫らなことをする自分の心と目の欲にしたがって、さまよい歩くことのないようにするためである。こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行い、あなたがたの神に対して聖なるものとなるためである」(民数記15章39,40節)。

私がお話したいことは衣に房を付けましょうということではない。神のことばが、どこかにすっ飛んでしまわないようにということである。女は禁断の木の実に手を伸ばした時は、もう神のことばのことなんかどこかへ行ってしまっていた。女は3節にあるように神のことばを復唱できていたというかもしれないが、だいたいのところであって、怪しかった。若干の付け足しや水増しを感じる。そして、彼女が禁断の木の実に手を伸ばした時は、「園の中央にある善悪の知識の木から食べても、死にはしない」と心の板に刻んでしまっていた。いつの間にか、神のことばは蛇のことばにすり替えられていた。彼女を動かしたのは、神のことばではなく、蛇のことばである。私たちはやはり、現代の思想がどうだから、周囲もそう判断しているから、あの賢い先生がそう言っているから、ではなく、神のことばファーストである。蛇のことばは部分、部分において、神のことばに似ている。しかし、似ているということの中に、実は大きな開きがある。それに気づくことである。

大切なことは、聖書は誤りのない神のことばであり、歴史においても、科学においても誤りなき神のことばとして受け止め、その上で、このみことばに聴いていくという姿勢である。たとえば、古代史を良く勉強されている先生方は、この創世の物語も古代神話と同じような受け止めをして、歴史上に実際にあった物語として受け止める必要なしとする。科学を良く勉強されている先生方は、科学を勉強すれば進化論を信じるべきで、創世記の物語を文字通り受け止める必要はないと言う。ですが、聖書は古代史や科学を専門的に勉強しなければ正しく読み解けない書物として、神はこの世に送られたのだろうか。一般庶民が読んで、信じ、受け止めることができる神のことばとして送られたものではないだろうか。また神さまは、学問が進んだ二十世紀,二十一世紀の現代人にしか正しく読み解けないものとして聖書を人類に与えたのだろうか。そうであったら、一世紀の先輩クリスチャンたちは、迷信を信じていた可哀そうな人たちということになるのだろうか。そうではないはずである。私たちは初代教会時代の人々の信仰に倣うべきである。目新しい教えに飛びついて喜んでいる場合ではない。

次のような過ちもある。キリスト時代のユダヤ人、たとえばパリサイ人たちは、旧約聖書のすべてを神のことばとして信じていた。聖書に誤りを認めてはいない。そのような意味において、彼らは正統派だった。だが、彼らはキリストによって、コテンパンに過ちを指摘される。彼らの聖書解釈は誤っていた。彼らの問題は、聖書の権威と並列して、聖書を解説しているという伝承(言い伝え)に権威を置き、この伝承を神のことば同等とみなしていた。人間のことばに聖書と同等の権威を置いてしまった。結局、神のことばに人間のことばをみごとに付け足していた。私がクリスチャンに成りたての時に、ドキッとした聖書のことばは次のことばである。「私は、この預言の書のことばを聞くすべての者に証する。もし、だれかがこれに付け加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる」(黙示録22章18,19節)。

皆さん、どうか今年も聖書の権威を認め、真理のみことばに慣れ親しみ、神のことばファーストで、みことばを霊の糧として尊んでください。互いにみことばによって生活を築くことを心がけていこう。