今年最後の礼拝となった。タイトルは「クリスチャンの生き方」とさせていただいたが、私たちは神の国の民であると同時に、この地上では一市民、日本国民として生きている。新しい年を迎える前に、今日の教えを心に銘記しよう。

今日の主イエスの教えのきっかけとなったのは、主イエスを犯罪人として捕らえるための証拠を得るために、ユダヤ当局からスパイが送られ、彼らの質問を受けたことにあった。20節の「さて、機会を狙っていた彼らは」の「彼らは」とは、19節の「律法学者たちと祭司長たち」である。彼らは、ユダヤの最高議会であるサンヘドリンを構成するユダヤ教の指導者たちであった。あれっ思うのは、普通なら「祭司長たち、律法学者たち」というように、「祭司長たち」が先頭に表記されるものを、ここではなぜか、「律法学者たち、祭司長たち」と、「律法学者たち」が先頭に表記されている。律法学者たちがこの陰謀の中心的存在ということになる。マタイ22章、マルコ12章にも同じ記事があるが、マタイもマルコも、主イエスを罠にはめようとする中心的存在を「パリサイ人」としている。たとえばマルコ12章13節では、「さて、彼らはイエスのことばじりをとらえようとして、パリサイ人とヘロデ党の者を数人、イエスのところに遣わした」とある。律法学者たちは主にパリサイ人(パリサイ派)であった。当時、イスラエルはローマ帝国の植民地となっていた。パリサイ人たちはローマ帝国に強い反感を抱き、イスラエルがローマ帝国から独立することを願っていた。パリサイ人はローマ皇帝に税金を納めることは反対である。ローマ発行の銀貨を見ることさえ嫌なのである。

そして、パリサイ人たちに「ヘロデ党」の者たちが同伴したことが記されている。ルカ20章20節前半には「義人を装った回し者」とあるが、続く21節で「彼らは」とあるように、このスパイは複数の者たちで、ここにヘロデ党の者も加わっていたのだろう。彼らの陰謀を理解するために、ヘロデ党についても説明しておきたい。主イエスがお生まれになった時、ユダヤ領はローマ皇帝から王の称号をいただいたヘロデ王が治めていた。ヘロデ王が死ぬと、ローマ皇帝はヘロデ王の息子たちを「領主」に格下げしてしまい、ユダヤを長男アケラオに、ガリラヤを次男ヘロデ・アンティパスに分割した。長男アケラオは数年の治世で島流しとなり、ユダヤはこの頃、ローマ直轄の地となっていて、ローマ総督が治めていた。20節にある「総督の支配と権威に引き渡す」の「総督」とはローマ総督のことである。ローマ総督イコール裁判官である。ヘロデ家であるが、身分を格下げされたこの屈辱的状況を何とかして打開したい。ローマ直轄の地であるユダヤをヘロデ家に戻し、しかも「王」として独立したい考えであった。このヘロデ家の復権を願う団体が「ヘロデ党」である。ヘロデ家が復権し王の称号をもらうためにはどうしたらいいだろうか。ローマ帝国に忠義を尽くし、ローマ皇帝、すなわちカエサルに税金を納める立場を取り、カエサルに良い印象をもってもらう必要があった。以上からわかることは、ヘロデ党とパリサイ人は、本来馬が合わない。だが両者、イエスが王となってほしくないという点においては一致していた。

では、もう一つの「祭司長たち」はどういう立場だっただろうか。彼らはパリサイ人ではない。彼らは27節で言及される「サドカイ人」(サドカイ派)であった。彼らはローマ帝国の権力の庇護のもとで自分たちの地位を保とうとしていた祭司的貴族階級。彼らはローマに媚びを売って自分たちの特権階級を保とうとする人たちなので、パリサイ人のように納税に反対はできない。ただ、イエスを王と認めたくないということにおいて、パリサイ人と意見を一つにしていた。この時点において、祭司長たちがカエサル以外の人物を王と認めたら、ローマ帝国への反逆とみなされ、祭司長の地位を失うことになる。ということで、それぞれ納税に対する立場は色々あっても、イエスを王としたくないという点においては共通していた。ということは、主イエスは、当時のユダヤの有力団体、与党、野党問わず、すべてから嫌われていたということである。何たることだろうか。四面楚歌の状況である。

もう一つ、紹介しておいたほうが良い団体がある。ユダヤ教の一派にも数え上げられる団体で「熱心党」である。今日のお話から二十数年前に、熱心党がローマ帝国への納税に反対して反乱事件を起こしていた。主イエスの弟子の一人が熱心党であった(6章15節)。「熱心党」はローマに反感を抱くパリサイ人たちよりもさらに右の立場。彼らは主なる神に熱心な国粋主義者で、ローマ帝国からの独立を勝ち取るためには手段も選ばずというようなところがある危険分子であった。過激派である。相手がローマ帝国であれ、ヘロデ家であれ、神に反逆するような異分子をことごとく排除しようとした。当然のことながら、ローマ帝国に税金を納めることには反対だった。先ほど、彼らが二十数年前にローマ帝国への納税に反対して反乱事件を起こしたと言ったが、具体的に言うと、紀元6年に、カエサルに税金を納めることは神への冒瀆だと言って反乱を起こし、多くのユダヤ人がこの戦いに参戦した。だが結局は敗北に終わっている。今日の逸話の時点から三十数年後には、エルサレム陥落を招くことになるローマへの反乱、ユダヤ戦争が勃発するが、それを主導することになるのも熱心党である。

ローマ帝国への納税に関しては、賛成派、反対派、様々な立場があったが、大方の国民感情としては、ローマ帝国に納税はしたくない。だから、納税反対の意思表示をしたほうが、ユダヤ人の受けは断然に良い。絶大な人気を勝ち取れる。主イエスは納税反対の意思表示をするのだろうか。

主イエスを罠にはめるための質問を見る前に、改めて考えてみたいことがある。それは、パリサイ人たちは主イエスを罠にはめるのに、なぜ自分たちとはそりが合わないヘロデ党にわざわざ話を持ちかけたのかということである。パリサイ人たちは納税反対の立場で、ヘロデ党は先ほど述べたように、納税賛成の立場。であるのに、なぜヘロデ党に話しを持ちかけたのか。おそらくパリサイ人たちは、イエスは<納税に反対する>可能性が高いと考えていたに違いない。それは、「イエスのことばじりをとらえて、総督の支配と権威に引き渡すためであった」(20節後半)からもわかる。主イエスが納税反対の意思表示をすると、ローマへの反逆罪で訴えることができる。それが主イエスを地上から消し去る近道である。ローマへの反逆罪で主イエスを訴えたくて仕様がないのがヘロデ党である。ヘロデ家から王様を輩出することが目的のヘロデ党にとっては、主イエスが王になってもらっては困るので、この役回りを断る理由はない。彼らはこう踏んだだろう。「イエスが納税に反対する可能性は極めて高い。それは我らの思う壺だ。イエスを訴えれば我らの党が存続できるばかりか、我らの株も上がる」と。

しかし、主イエスがローマに税金を納めるのは賛成という意思表示をする可能性も否定できない。パリサイ人たちは、主イエスが納税賛成の意思表示をしたとしても、それはそれで主イエスを追い詰めることができることを知って策略を巡らした。ユダヤ人は大多数が納税反対派であった。主イエスがカエサルに税金を納めることに賛成したら、あなたは神に背く者だとか、ユダヤ人の敵だとか、ローマ側に付く取税人と同じ大罪人だとか、いかようにも非難して、民衆を抱き込んで評判を落とすことができた。彼らは主イエスを罠にはめるために周到に計画を練って、今回臨んだことがわかる。ふつうに考えたら、主イエスに勝ち目はない。完璧な罠に思える。

では罠にはめる質問について詳しく見てみよう。「先生、私たちは、あなたがお話しになること、お教えになることが正しく、またあなたが人を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。ところで、私たちがカエサルに税金を納めることは律法にかなっているでしょうか。かなっていないでしょうか」(21節)。イエスさまが「税金をカエサルに納めることは律法にかなっていない」と答えたら、「ローマ帝国の法に逆らう犯罪人、皇帝に反逆する者だ」とローマ側に訴えることができる。うまく行けば裁判にかけてもらって、投獄か死刑に処してもらうことができる。反対に、「税金をカエサルに納めることは律法にかなっている」と答えてしまえば、パリサイ人といった派閥ばかりではなく、ローマの手からイスラエルを救ってくれることを願っている民衆から大ブーイングが起きて、主イエスの人気はガタ落ちになる。「ローマ皇帝にかしずくなんて神への忠誠を捨てる者だ。イエスはローマを擁護している。我らの王でも味方でもない。彼は神が遣わした者ではない。除き去れ」。こうして風向きを一気に変えてしまうことができる。

主イエスは、この悪意に満ちた質問には引っかからない。そして、逆に、彼らを困惑させるものを使って、正当な答えを出す。彼らを困惑させるものとは「デナリ銀貨」である(24節)。デナリ一枚は、欄外注にあるように、一日分の労賃に相当した。一日一デナリということで、つまり、ワンコインで支払が済む。一日の終わりに主人は一枚をパッと渡せばそれで済んだ。非常に便利。だからこの銀貨はたくさん流通した。多くの人の財布に、この銀貨が入っていた。

当時のデナリ銀貨には、表にも裏にも「肖像と銘」が刻んであった。主イエスは「だれの肖像と銘がありますか」と尋ねている(24節)。表にはカエサルの横顔の肖像、そして「神とされたアウグストゥスの子、うんぬん」の銘が顔の周囲に刻んであった。裏にはカエサルの母親リヴィアの肖像があり、彼女は女神パクスの化身とされていた。そして「大祭司」の銘が刻まれていた。ローマ帝国ではカエサルもカエサルの母親も神とされていた。ユダヤ人の中には、ローマ皇帝の肖像をエルサレムに持ち込むぐらいなら、死を選んだほうがましだと考えていた人たちがいたが、硬貨というかたちで、しかも大量に入り込んでしまっていた。この硬貨を憎み、捨てたいと思っていた人たちがいた。気持ちはわかる。被支配国というだけでなく一神教の国なので。

主イエスはそこに刻んであるカエサルの肖像と銘を見せて誰のものかと確認させたわけだが、その後のことばが大事である。まずひとつは、「カエサルのものはカエサルに返しなさい」(25節)。税金ばかりむしり取っていく国家権力に腹立つ国民は多い。「税金を取りすぎ。取り方も公平じゃない。それに税金の無駄使いばかりして、税金で権力者たちは私腹を肥やしている」。この実態は、この時代にも実際にあったわけだが、それゆえに国民の不満も大きかったわけではあるが、それはそれとして、私たちは主のことばに注意深くあらなければならない。主イエスはここで「返しなさい」ということばを使っている。税金とは返す種類のものなのであろうか。スパイの質問は「私たちがカエサルに税金を納めることは」(22節)であった。実は「納める」と訳されていることばの元の意味は「与える、施す」である。しかしイエスさまは「与える」ではなく「返す」ということばをあえて使っている。国に与えるお金なんてないという国民たち。しかし主イエスは、それは与えるものではなくて返すものだ、と言われている。「返す」ということにおいて、それは「義務である」ということを意味している。「返す」とは義務行為である。納税は返済金であって、それはすべての国民の義務である。税金で国民の安全や安寧秩序が保たれる。たとい国家の支配者が憎き敵であり、自分を神とするような人物であっても、税金は義務として返さなければならない。税金はすべての国民、市民、町民、村民が支払うべきもの。カエサルの肖像やその銘を見たくなくとも、返さなければならないものは返さなければならない。国家のアラを探すことは誰にでもできるが、国家への義務を怠る精神をもつことを戒めなければならない。本当に地の塩になりたいなら、社会不参加はだめであるし、社会の義務を怠るのもだめである。パウロも教えている。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。・・・すべての人に対して義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい」(ローマ13章1,7節)。ペテロも忠言している。「人が立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、あるいは、悪を行う者を罰して善を行う者をほめるために、王から遣わされた総督であっても、従いなさい」(第一ペテロ2章13,14節)。私たちは君主制であろうが、共産主義、社会主義であろうが、立てられた権威に従い、義務を果たす姿勢を見せなければならない。それは納税ばかりとは限らない。他の社会的義務もそうだろう。

主イエスが言われたもう一つのことは、「神のものは神に返しなさい」(25節続き)。私たちは献金をするときに「いただいた一部をお返ししました」と祈ることが良くある。それは今日の箇所からもわかるように、聖書的である。マラキ3章8節では「人は神のものを盗むことができるだろうか。だがあなたがたは、わたしのものを盗んでいる」という主のことばがある。そして、「どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか」という問いに対して、「十分の一と奉納物においてだ」と言われている。私たちが与えられていると思っているものは、実は神に管理を任され預けられているものにすぎない。私たちは神の財産の管理人。預けられているものであって、自分のものではない。それをささげ物、献金というかたちでお返しする。お返ししないことは盗みとなる。主イエスも、神にお返ししなければならないものがある、それを返しなさい、と言われる。ところで、主イエスのことばは、金銭のことだけが言われているのだろうか。「神のものを神に返しなさい」とは、当時にあっては、「神殿税を神に返しなさい」ということなのだという解釈がある。これは税金にポイントを置いた解釈であるが、いずれ返すものを金銭に限定した解釈である。

だが、もっと広い意味がある可能性がある。「神のものを神に返しなさい」の有力な解釈をご紹介しよう。主イエスはこの時、「だれの肖像と銘がありますか」と言われ、皇帝の肖像が刻まれているものを皇帝に返すように言われたが、我々人間には神の肖像(かたち)が刻まれている。創世記1章26,27節において、人には神の肖像が刻まれていることが言われている。「神は人をご自身のかたちとして創造された」(創世記1章27節)。人には神の肖像が刻まれているというのなら、「神のもの」とは私たち自身と言える。私たち、神の肖像(かたち)が刻まれている人間を神に返すこと、すなわち、神に我が身を献げること、それが「神のものを神に返す」ことだと言える。この神への返し方は具体的に色々あるだろう。金銭を献げるというだけではなく、この身を献げますという奉仕全般。しかし、何をしたとしても、返すとは義務であるので、17章10節にあったように、「私たちはなすべきことをしただけです」というしもべの姿勢がふさわしい。それを誇ったり、自分の功績にしたり、手柄とはしないわけである。

「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」という場合に、それは誤った二重生活をすることではないので、その点についても触れておきたい。実例を挙げるが、キリスト教がローマ帝国の公認宗教となるまで、皇帝礼拝やローマの神々に犠牲をささげることなどが強要された。キリスト教徒たちは、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」を曲解して、ローマ皇帝の命令に従って皇帝と神々を礼拝し、日曜日は教会で聖書の神を礼拝し、という二重生活を選択はしなかった。カエサルはカエサルであって神ではないのだから、皇帝礼拝をすることがカエサルに返すことにはならない。それはただの偶像崇拝である。西暦180年にローマで殉教した聖徒たちの記録が残っている。幾人かのキリスト教徒たちが、皇帝礼拝をしない、ローマの神々に犠牲を捧げない、そうしたかどで捕えられた。その時、ひとりの者はこう弁明した。「私はこの目で見ることのできない神にのみ仕えています。私は盗みを働いたことはありません。税金も納めています。私は皇帝には皇帝にふさわしい栄誉を捧げておりますが、私が恐れているのは神のみです」。裁判官のローマ総督は、三十日の猶予を与えるから考え直すように進言した。けれども捕えられたキリスト教徒たちは立場を変えなかった。そこで総督はこう判決を下した。「これこれの者たちは、キリスト教徒の習慣に従って生活している旨を告白した。彼らはローマ人の風習に立ち戻る機会が与えられたにもかかわらず、頑迷にその立場を変えなかったので、斬首刑に処す」。その時、刑を宣告されたキリスト教徒たちは、御国を思い、全員が「感謝します」と言ったとのこと。それが彼らの最後のことばだった。彼らは、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返した模範的存在である。彼らは国家に対して必要な義務は果たしたが、神に背いてしまうことになる偶像崇拝などの悪に妥協はしなかった。そして神への礼拝、神への奉仕を貫いた。神のものは神に返した。

私たちはこの世の一市民であると同時に、神の国の民である。私たちはこの世に生きる者たちとして社会性を失わずして、なおかつ神に忠実であることが要求されている。その両者を実践することが、やはり、キリスト者としての証となるのではないだろうか。この世に妥協はしないが必要な義務は果たす。そしてまことの神に仕えて行く姿勢を表す。それが地の塩、世の光となる秘訣ではないだろうか。このような生き方こそ、主が私たちに望んでおられる生き方である。