今日のたとえ話は、「ぶどう園のたとえ」とか「悪い農夫たちのたとえ」として知られている。どのような人たちが意識されて語られているたとえなのかと言うのなら、19節において、「律法学者たちと祭司長たちは、このたとえ話が自分たちを指して語られたことに気づいた」とあるように、ユダヤ教のトップの人たちのことが意識されている。ぶどう園を舞台にしたたとえでありながら、内容は不穏なもので、14節では「あれを殺してしまおう」という物騒なことばが使われている。今日のたとえの背景を知るために、少し戻って19節47節を見ていただきたい。「イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長たち、律法学者たち、そして民のおもだった者たちは、イエスを殺そうと狙っていたが」。こうしたことが、今日のたとえの背景になっている。たとえの登場人物や道具立ての一つ一つは、誰かに、また何かにたとえられている。
9節から見ていこう。「ある人がぶどう園を造り」とあるが、ぶどうの苗を植える作業だけではなく、垣を巡らし、見張りやぐらを建てと、ぶどう園開設のために必要な作業を一通りやったということである。その後、「農夫たちに貸して、長い旅に出た」。ぶどう園の主人は領地からかなり離れた土地に出かけて、そこでしばらく滞在することになった。ぶどう園は小作人たちに貸し与えた。ここまでは何事もない。ここまでで押さえておきたいことは、「ぶどう園」はイスラエルを表している。それはユダヤ人なら誰しもが知っていたことである(イザヤ5章1~6節他)。「ぶどう園の主人」は神さま。
さて、収穫の時に問題が起きた。10~12節を見てわかるように、主人は三人のしもべを遣わす。一年ごとにしもべを遣わしたのだろうか、どうなのだろうか。注意深く観察すると、一人目よりも二人目、二人目よりも三人目というように、農夫たちのしもべへの扱いがエスカレートしていく。一人目のしもべについては、「彼らはそのしもべを打ちたたき、何も持たせないで帰らせた」(10節)とある。一人目のしもべは袋だたきの目に遭い、手ぶらで帰らされた。
二人目のしもべについては、「彼らはそのしもべを打ちたたき、辱めたうえで、何も持たせないで帰らせた」(11節)とある。袋だたきまでは一緒だが、辱めるという侮辱的行為が追加されている。その上で、手ぶらで帰らされた。
三人目のしもべについては、「彼らはこのしもべにも傷を負わせて追い出した」(12節)とある。先のしもべたちも傷を負ったのだろうが、三人目が一番ひどい傷を負った印象である。一人目と二人目のしもべは「帰らせた」と言われているが、三人目のしもべは「追い出した」という表現になっていることにも注意を払っていただきたい。これは、追い出された時にも身体的暴力が加えられたことを物語っている。派遣されたしもべたちの中で、一番ひどい扱いを受けたようである。
これらのしもべたちは、たとえの流れから、神さまがイスラエルに遣わした預言者たちを指していることは疑いを得ない。旧約聖書を読めばわかるが、なぜか預言者たちは、イスラエルの指導者層からも民衆からも虐待を受けて来た。殺される者たちもいた。
ぶどう園の主人は、遣わしたしもべたちを虐待して我がもの顔にふるまう農夫たちに対して、手厳しい法的処置をすることができたはずである。虐待した農夫たちを逮捕させ、裁判所に引き渡すことができた。けれどもそうはしない。異常なほど忍耐深い。この忍耐深さはそのまま神さまに対して当てはまる。
ぶどう園の主人が次にとった手段は「私の愛する息子を送ろう」(13節)ということであった。ぶどう園の主人は、怒りに燃えて当局に訴えて、彼らを逮捕してもらうために兵士たちを遣わしてもらうこともできた。けれども、そうしないで、最愛の息子を、武装なしで、無防備な姿で、しかも単身で送り出した。これ以上、愚かな行為はないように思う。誰がこんなことをするのだろうか。「私の愛する息子」という表現だが、主イエスがバプテスマを受ける時に天からかかった声と同じである。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」(3章22節)。神は愛するひとり子を遣わした。
主人は、この息子ならばと遣わす。だが最悪の結果が待っていた。虐待されて追い出されるならまだしも、殺されてしまう。「ところが、農夫たちはその息子を見ると、互いに議論して『あれは跡取りだ。あれを殺してしまおう。そうすれば、相続財産は自分たちのものになる』と言った」(14節)。跡取りを殺してしまえば相続財産は自分たちのものになるという論理はどういうことなのだろうか。この理解のために、ユダヤ教の文書ミシュナーの「公有地定住権」に関する次の規定が参考になる。「所有権取得による家屋、貯水池、堀、地下貯蔵室、鳩舎、風呂場、オリーブ圧搾槽、田圃、奴隷、および何であれ利益をもたらすものに関する権利証は、丸三年間の間占有することによって手に入れることができる」。この規定からわかることは、彼らはぶどう園を丸三年間物理的に所有し続ければ、ぶどう園の所有権を手に入れることができると信じていたようである。ちょうど丸三年経っていた感がある。だが、殺人が主人にバレてしまえば、さすがにおしまいである。しかし、強行した。
「彼をぶどう園の外に放り出して、殺してしまった」(15章前半)の「ぶどう園の外に放り出し」という表現も暗示的である。ぶどう園を汚してはならないと思ったのだろうか、外で殺した。これは、主イエスがエルサレム郊外で十字架につけられてしまうことを暗示しているかのような表現である。
息子の殺人はバレてしまったようである。ぶどう園の主人は、最愛の息子を殺すという暴挙を許さない。さすがにそれは許さない(16節前半)。義の審判を下す。ともに「ぶどう園をほかの人たちに与えるでしょう」という処置を取る。初めに、ぶどう園はイスラエルを表していると言ったが、霊的イスラエル、神の国を表しているとも言えるだろう。神の国は彼らから取り去られるのである。平行箇所のマタイ21章43節では、「神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます」と言われている。
このたとえを聞いた人々は「そんなことが起こってはなりません」(16節後半)と反応する。「そんなこと」とは何だろうか。起こってはならない「そんなこと」とは、ぶどう園の主人がぶどう園をほかの人たちに与えてしまうことではなく、悪い農夫たちの態度、とりわけ主人の愛する息子を殺してしまったことを言っている。ほんとうにそんなことがあってはならない。しかし、現実に、これが数日後に起きてしまう。主イエスは十字架につけられて殺される。だから、このたとえは預言的なたとえである。
先の20章1~8節の権威論争で、祭司長たち、律法学者たち、長老たちは、バプテスマのヨハネと主イエスの権威が神からのものであると言いたくなかった。あいまいにして濁していた。彼らにとってふたりは邪魔な存在でしかない。とにかくぶどう園を我がものにしたい。それは神から管理を託されたものにすぎないのだけれども、自分たちのものにしたい。神さまのものを奪いたい。すべてを我がものにして支配したい。それを邪魔する者は殺してしまおう、ということであった。それを実行し、主イエスをエルサレム郊外に追いやり、十字架につけてしまう。
だが、この殺害は神の側の敗北とはならない。たとえに続いて、主イエスは殺されてしまう息子を「石」にたとえる(17節)。実は「息子」はヘブル語で<ベン>。そして「石」は<エベン>。ここにことば遊びがあるのかもしれない。「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」。このみことばは、詩篇118編22節の引用である。新約聖書全体で5回も引用されている聖句である。「家を建てる者たち」とは神殿建築者たちのことだが、今、主イエスは神殿当局者たちを意識してたとえを語られたばかり。このみことばでは、神殿建築者たちが無用であると判断し、捨てて顧みなかった石が、実際は神殿建築のためになくてはならない中心的な石となったということを言っているが、これは比喩である。主イエスはこのみことばを通して、神殿当局者たちがご自身を無用なものとして捨てることになるという不見識、判断のまちがいを言っている。ともに、捨てられるはずのご自身が朽ちることのない神殿の要となることを言っている。主イエスは捨てられて終わらない。主イエスは彼らの手で審判にかけられ、処刑されるも、復活し、栄光の御座に着く。そして教会という神殿の要石となられる。第一ペテロ2章4~8節を見よ。そのキリストは、黙示録21章22節では、神殿そのものとさえ言われている。
もし、本来、神殿の「要の石」である主イエスを、無用、無価値とみなすならどうなるのだろうか。「だれでもこの石の上に落ちれば、粉々に砕かれ、またこの石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします」(18節)。このおことばにも旧約聖書の背景が感じられる。イザヤ8章14,15節では、主が妨げの石、つまずきの岩であり、多くの者がそれにつまずき、打ち砕かれることが書いてある。「しかし、イスラエルの二つの家にとっては妨げの石、つまずきの岩となり、エルサレムの住民には罠となり、落とし穴となる。多くの者がそれにつまずき、倒れて打ち砕かれ、罠にかかって捕らえられる」。またダニエル2章31~35節を見ると、バビロンの王ネブカドネツァルの夢が描かれている。それは、一つの巨大な像を一つの石が打ち倒し、その石はみるみる大きくなり、全世界に満ちるほどの大きな山になるというものである。これは一つの石ころにみなされていたキリストがこの世の邪悪な国をうち滅ぼし、神の国が完成することの預言である。これらの箇所も参考にしてわかることは、主イエスが18節でおっしゃりたいことは、イスラエルの指導者たち、神殿当局者たちが捨ててしまった石である主イエスが、やがて栄光の座に着き、裁き主として、ご自身につまずく者たちを裁くのだということである。
この世においては、主イエスは道端に転がっている路傍の石程度にしか見えないかもしれない。イザヤはメシア預言において、「彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。・・・人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった」(イザヤ53章2,3節)と語っている。私たちは、主イエスを無用、無価値な石、つまらない石、捨ててもいいような石とはみなしていないというかもしれない。ではダイヤモンドの原石のような石とみなしているだろうか。いや、それでも全く足りない。主イエスはあらゆる宝石も足もとに及ばない宝である。「何でも鑑定団」という番組があるが、私たちの鑑定の目は確かだろうか。主イエスを見る目は確かだろうか。
そして、今日のたとえにおいて汲み取っておきたいことは、御父と御子の愛である。たとえにおいて、ぶどう園の主人は農夫たちの不法に対して、あきれるほどの忍耐を見せ、強硬手段は取らず、それどころか最愛の息子を送る。その息子は無防備で、全面的な傷つきやすさを伴う受肉の道を選ぶ。その歴史上の人物がまことの人となられたのがイエス・キリストである。キリストは自らをいけにえとし、我が身を差し出し、十字架上で私たちの罪の身代わりとなり、罪の赦しのための血を流された。それは全き愛であった。人に捨てられて人を救うという道を選択された。何という愛だろうか。最後に、有名なみことばを読んで終わろう。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3章16節)。