皆さんは何か権威をお持ちだろうか。またお持ちだっただろうか。親としての権威、上司としての権威、先生としての権威、さまざまあっても、限定的なものがほとんど。先だって、会社では社長だけれども、家では奥様に頭が上がらないという文章を読んだ。また権威には序列がある。私が好きな時代劇に水戸黄門があるが、「これが目に入らぬか」と徳川家の家紋が入った印籠を見せると、悪代官はひざまずき、大名であってもひれ伏してしまう。徳川は当時、日本のトップに君臨する権威であった。

今日の記事は「イエスの権威」ということが問題にされている。主イエスはエルサレム入りして権威あるふるまいをされていた。それを問題視した人たちがいた。そして権威論争になる。

1節で「ある日」とあるが、マルコの福音書11章を見ると、先週学んだ「宮きよめ」をされた翌日であることがわかる。今日の場面設定もやはり宮(神殿)である。主イエスは宮で人々を教えておられた。そこにユダヤ教の権威筋がやってきた(1節)。「祭司長たちと律法学者たちが長老たちと一緒にやって来て」とあるが、この人たちは19章47節で言われていた人たちである。そこを見ると、「イエスを殺そうと狙っていた」という事実が記されている。殺意に満ちた人々である。当時、祭司長、律法学者、長老という三つの階級から成るユダヤ教議会があった。ユダヤ人の政治、司法のトップ機関である。福音書では「最高法院」と訳されており、原語は<サンヘドリン>である(22章66節参照)。70人(71人)の議員で構成されていて、議長は大祭司が務める。この時やってきた祭司長たち、律法学者たち、長老たちというのは、サンヘドリンを代表してやってきたということになる。国のトップの代表ということである。彼らがやって来た目的は、教えを乞う事ではなく、尋問することがその目的である。検察官の尋問のようなものである。民衆の手前、自分たちのほうから出向いて行ってというところだろう。

その尋問とは、「何の権威によって、これらのことをしているのか、あなたにその権威を授けたのはだれなのか、教えてくれませんか」(2節)。彼らは、エルサレム神殿でのナザレのイエスのふるまいが越権行為のように思えたわけである。「何の権威によって、これらのことを」の「これらのこと」とは、神殿でのふるまいを指しているが、これには二つあるだろう。一つは19章45節ですでに見た、神殿に入って商売人を追い出したという「宮きよめ」である。彼らには乱暴狼藉にしか見えなかっただろう。もう一つは神殿で教えておられたことである(19章47節 20章1節)。神殿で教える資格がある者は誰なのかということだが、神殿では、もともと祭司たちが教えていた。彼らは民に律法を教える役目を神から託されていた。また、神殿は預言者が預言する場でもあった。祭司が預言者であることもあった(エレミヤ、エゼキエル、ゼカリヤ等)。そして後の時代、律法の教師(ラビ)が教える場ともなった(2章46節参照)。サンヘドリンを代表してやってきた彼らは、主イエスを、祭司とも、預言者とも、律法の教師とも認めていない。だから、越権行為にしか見えない。あなたは何様のつもり? 彼らは「何の権威によって」と言っているが、これは、どういう種類の権威ということである。教師としての権威?預言者としての権威?祭司としての権威?あるいはメシアとしての権威?そんな権威はないはずだ。それなら、何の権威によってこれらのことをしているのか?

彼らは、 「あなたにその権威を授けたのはだれなのか」とも尋ねている。教師の場合は、恩師のラビから認めていただいて任職となる。けれども、誰もイエスに対してはそういうことはしていない。それどころか、イエスはラビのもとで教育を受けて来たという経験もない。またイエスは大工の子であって祭司の家系ではない。祭司の家系でないのならば、祭司に任職されることはない。ではイエスは預言者としてサンヘドリンに認可されたのかというのなら、そうではない。彼らはバプテスマのヨハネのことさえ預言者として認めていなかった。

他に考えられる権威の授け先は、当時、イスラエルを支配していたローマ帝国である。ローマ帝国は、神殿のあるユダヤ地方を直轄地として支配していた。そこに総督を派遣していた。ユダヤ総督は軍事、行政、経済に最高の権威を持っていた。刑事裁判の全権も握っていた。イエスはユダヤ総督のように、ローマから派遣された大使なのだろうか。そうではない。イエスはガリラヤ地方で生活をしていた田舎者にすぎない。何の肩書もない。資格もない。一種免許も二種免許もない。履歴書には大工をしていたかな?ぐらいしか書けない。だから、ユダヤ教の権威筋は、神殿で我がもの顔にふるまう主イエスが許せない。

主イエスは彼らの質問に対して、質問で返す手段をとった(3,4節)。質問に対して質問で返すというのは、律法の教師たちもとっていた対話手段であったらしい。主イエスの質問は4節にあるように、「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか。それとも人から出たのですか」というものであった。ユダヤ教の権威筋は、何の権威?誰が授けた権威?という漠然とした訊き方をしているが、主イエスは直截的な訊き方をしている。天からなのか、人からなのか、二つのうちどちらなのだと、逃げ場のない質問をしている。天か人か、どちらかを選んで答えなければならない。完全な二択である。問い詰める質問で逃げ場はないのだが、この窮地を脱するためには、「記憶にございません」ではないが、わからないという黙秘に近いおとぼけでやり過ごすしかない。

「天からなのか、人からなのか」という質問の意味だが、この場合の「天」とは、神さまを表すユダヤ人の婉曲的表現である。つまり、「バプテスマのヨハネの権威は神から来たのか、人から来たのか」と主イエスは問うている。やはり権威に関する質問である。

彼らは即答できなかった。「すると、彼らは論じ合った」(5節前半)とある。すなわち、相談した。何て答えようかと。なぜか続く5節後半以降、彼らの相談内容が書いてある。彼らは「天から」と言ってしまえば、ではなぜヨハネを神から遣わされた預言者だと信じなかったのか、と突っ込まれてしまう。ユダヤ教の当局者たちは、ヨハネの権威は普通ではないと思ってはいただろう。けれども自分たちとたもとを分かち、厳しく悔い改めを迫るヨハネを腹ただしく見ていた。彼らはサドカイ派、パリサイ派で構成されていたが、ヨハネはサドカイ派とパリサイ派にこう宣告したことがある。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるように教えたのか。それなら悔い改めにふさわしい実を結びなさい」(マタイ3章7,8節)。歯に物を着せぬ言い方である。「神に仕える我らに対して、なんて無礼なことを!」彼らは「人から」と言ってしまいたかった。

けれども「人から」と言えない事情があった。それは民衆に殺されてしまうという恐れである。「だが、もし人からと言えば、民たちはみな私たちを石で打ち殺すだろう。ヨハネは預言者だと確信しているのだから」(6節)。「石で打ち殺すだろう」というのは、民衆が暴徒化することを単純に言っているわけではない。それは律法に起源がある。石打ちの刑は、神を冒瀆する者をはじめとする、神の御意志に反逆する大罪人に対する死刑執行の手段である。ユダヤ教を代表するサンヘドリンの代表者たちは、自分たちの主張が正しく神の側に立っていると思っているならば、石打ちを恐れないで、堂々とことばに出したらよいものを、それができない。彼らは臆病である。彼らは傲慢であると同時に臆病である。傲慢な人は臆病であると、何かの本で読んだが、彼らがまさしくそうである。彼らは7節にあるように、「どこから来たのか知りません」と答えた。臆病者の答えである。主イエスは彼らとは反対で、謙遜で豪胆だった。「豪胆」とは、度胸があり、何事にも動じない様を言う。主イエスは謙遜かつ豪胆なお方。惚れる存在である。

「どこから来たのか知りません」という答えから見えてくるもう一つのことは、「どこから来たのか知りません」ではなく、真実は、「知ろうとしない」ということである。主イエスに対してもそうである。イエスとは誰なのか、その問いと真剣に向き合い、答えを出そうとしない。ユダヤ教の当局者たちは、主イエスを、ペテン師、悪霊に憑かれた人等、様々に中傷しただろう。ヨハネ8章48節ではユダヤ人のことばとして、「あなたはサマリア人で悪霊に憑かれている、と私たちが言うのも当然ではないか」という卑しめのことばがある。主イエスはサマリア人であるわけがない。マタイの福音書にも、ルカの福音書にも、キリストの系図が記されているが、それを調べなくても、身辺調査でわかるはずである。悪霊に憑かれているというのも、ただの中傷のことばにすぎない。彼らは、イエスとは誰なのか、真剣にその問いと向き合うことがない。そして、自分たちが信じたいように信じているだけである。現代でも、キリストはアメリカ人であるとか、私たちより霊的進化を遂げただけの人間だとか、精神異常者だとか、十字架について絶望して死んでいっただけの人間だとか、様々に言う。書店や図書館においてある何かの本の受け売りを述べたり、人のうわさをまともに取ったり、自分の直感で言ったり。まちがいなく聖書をまともに読んで下さっていない。そういう私も、かつてはそのような者であった。

神が救いの道を含めて、真理を教えるために人類にプレゼントしてくださったものが聖書である。聖書は誤りのない神のことばである。聖書の中心はキリストである。旧約聖書はキリスト、すなわち救い主がやがて来られるということを指し示している。旧約聖書のキリスト預言を調べていただければ、すべてが成就している。キリストの誕生について、神のメシアとしての権威あるみわざについて、それらばかりか、十字架刑の描写、十字架上のことば等、狂いなく預言が成就している。こうした預言の成就を含めて、キリストの生涯、キリストのみわざ、キリストの教えが記されているのが新約聖書である。

私の求道時代、イエスとは誰なのかということが最大の関心だった。イエスは単に人なのか神なのか、ということであった。イエスは神ではないと、そちらに心が強く傾いていた時期があったが、私の場合、権威あるキリストのことばに魅かれた。強く印象に残ったのがヨハネ8章58節であった。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです」(ヨハネ8章58節/新改訳第三版訳)。アブラハムは、当時からすると二千年前の人物。主イエスは、「わたしはアブラハムが生まれる前から存在していた神である」と宣言したに等しい。ユダヤ人はこれを聞いて、神への冒瀆だとして石打ちの刑にしようとしたわけだが、このみことばが私に再考を促すことになった。「ちょっと待てよ。イエスがうそをつくとは思えない。うそで、このような堂々とした宣言ができるものではない」。

最終的に、私が主イエス・キリストに神としての権威を認めたのは、ヨハネの福音書1章1節の「初めにことばがあった。ことばは神ととともにあった。ことばは神であった」である。ヨハネの福音書は、キリストを「ことばなる神」として紹介するところから始まっている。実は、西暦700年頃に執筆された古事記や日本書紀にも、「ことばなる神」が登場している。「一言主」(ひとことぬし)という神さまで、天皇も敬う神である。古代日本では、ことばには霊が宿っている、発せられたことばはその通りになる、という「言霊思想」があった。それを古代の日本の書物から読み取ることができるわけであるが、これは日本の専売特許ではない。「古事記」「日本書紀」が執筆される一千年以上前に、聖書において、「初めにことばがあった。ことばは神ととともにあった。ことばは神であった」と宣言され、ことばは単にことばではなく、霊力を持つ神とされ、このことばなる神がすべてのものを造ったのだと証言している。「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」(ヨハネ1章3節)。ことばなる神による万物の創造である。神がことばの力で万物を創造していく様子は創世記1章に良く記されている。

日本書紀では、ことばなる神が自らを「現人の神」と名乗っているが、ヨハネの福音書1章14節では、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」と宣言している。まことの神がまことの人となり、目に見える神さまとなられた。そのお方の生涯とことばと、救いのみわざが記されているのが福音書である。古事記や日本書紀に記されている神々は全国各地の神社に祭られているが、「初めにことばがあった」と言われているお方こそ、礼拝されなければならないと信ずる。ヨハネが言う「初めに」というのは、万物が存在する前の初めの初めに、ということである。その初めの初めに存在していたお方が、ことばなる神。ことばというのは人格を持つ者が有する。だから初めの初めにあったのは、物質でも素粒子でも単なるエネルギーでも宇宙の法則でもなく、ことばなる神という人格をもつ存在。このお方こそがイエス・キリストであると聖書は証言している。

主イエスは、祭司長たち、律法学者たち、長老たちが質問をかわしてずるく逃げるので、このような彼らに返答する理由なしとして、8節において、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません」と言われた。しかし、実は、主イエスは4節の「ヨハネのバプテスマは天から来たのですか、それとも人から出たのですか」という質問によって、暗黙のうちに、ご自身も「天からの権威」をまとっていることをほのめかしている。そして、その天からの権威はバプテスマのヨハネにまさるものである。ヨハネは言った。「私はその方の履き物のひもを解く資格もありません」(ルカ3章16節)。ヨハネは、主イエスを神の救い主、すなわちメシアと認めていた。

今日のタイトルは「イエスの権威」ということだが、ユダヤ教の権威筋は、神殿でのふるまいの関連で、主イエスの権威を問題視していた。だが、主イエスの権威は神殿だけに及ぶのではない。全天全地に及ぶのである。その権威が及ばないところはない。福音書には、主イエスの病に対する権威、自然界に対する権威、悪霊に対する権威、死に対する権威が記されている。主イエスは死よりよみがえられた後、ご自身の権威について弟子たちに次のように宣告された。「わたしは天においても地においても、すべての権威が与えられています」(マタイ28章18節)。主イエスの権威は権威の階級から言えば、見える世界、見えない世界、全天全地のトップに来る。至上の権威である。全被造物が主イエスの権威のもとにある。だから、すべてのものが、主イエスのなさることにアーメンと言い、主と主のことばに従わなければならない。