主イエスは都入りされ、今日の記事からエルサレムでの出来事が描かれることになる。「受難週」という位置づけでは二日目の出来事になり、十字架刑は目前に迫っていた。
今日の記事はすべての福音書に記されていて、大切な記事であることがわかる。一般的に「宮きよめ」として知られている。「宮」とはエルサレムの神殿のことである。それは神殿の建物とその周囲の境内も含めた領域を表す。今日の箇所の衝撃的出来事は、「異邦人の庭」という境内地で起きている。神殿の建物の前に「祭司、レビ人の庭」がある。その外に「イスラエルの男子の庭」がある。そのまた外に「イスラエルの婦人の庭」がある。そしていちばん外にあるのが「異邦人の庭」であった。ここで開かれていた門前市を主イエスは問題にした。
「それからイエスは宮に入って、商売人たちを追い出し始め」(45節)。平行箇所を見ると、ただ商売人を追い出しただけではないことがわかる。例えばヨハネ2章14,15節では、「そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し」とある。マタイ21章12節では、「鳩を売る者たちの腰掛を倒された」ともある。完全に商売ができないようにした。異邦人の庭では、神殿でささげるいけにえ用の動物である羊や牛、鳩、そして同じくささげものに使う油や塩を売っていた。またここで、外国の貨幣をシェケルという献金する貨幣に両替していた。時は過越しの祭りが目前に迫っていた時であったので、巡礼者たちが大勢押し寄せ、商売人たちにとっては最高の稼ぎ時であったわけである。この門前市を主イエスはめちゃくちゃにされた。
いけにえにする動物を地元から連れて行くということは大変なことなので、巡礼者のために売ること自体に問題はない。どっちみち買わなければならない巡礼者が多かっただろう。両替もシェケルという貨幣で納めるよう律法で規定されていたので、両替自体に問題があるのではない(出エジプト30章11~14節)。問題は神殿で金儲けしようとするシステムを作っていたということ。神殿の外でいけにえにする動物を買っても、神殿の外で買った動物は承認しないような体制を作っていた。そして神殿で買う動物は高額であった。でもそこで買うしかない。その売り上げの一部は大祭司たちの懐に入る仕組みになっていた。また両替の場合、高い手数料を取っていた。こうして大祭司たちが商売人とタッグを組んで、神への祭りを儲けの手段としていた。その場所が神殿だった。
それにしても主イエスの態度は行き過ぎのように見えるかもしれない。私たちはここに、神のメシアとしての権威を見なければならない。神殿とは字のごとく、神の住まいである。そこは神が礼拝される場所である。そして神とは主イエス・キリストである。神殿という聖域において、ご自身がお嫌いになる許されざる行為を排除する権威がある。ゼカリヤ書の最終章最終節は、終末時代に実現するこのことばをもって締めくくっている。「その日、万軍の主の宮にはもう商人がいなくなる」(ゼカリヤ14章21節)。主イエスは来るべきこの日を念頭において、神のメシアとしての権威を行使されたのかもしれない。
主イエスがこの時に発せられたことばを観察しよう。「彼らに言われた。『わたしの家は祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのにおまえたちはそれを『強盗の巣』にした」(46節)。「わたしの家は祈りの家でなければならない」は、イザヤ56章7節の引用である。それにしても神殿なのだから、「わたしの家は礼拝の家でなければならない」でも良さそうなものを、どうして「祈りの家」と言われているのだろうか。それは旧約時代から続いていた礼拝形式にある。祭司が祭壇で動物のいけにえをささげる。続いてラッパとシンバルの音が響き、詩篇朗読が続く。ついで祭司が神殿の建物内で香をたく儀式を行っているその時、神殿の建物の外では大勢のユダヤ人たちが思い思いの祈りをささげていた(ルカ1章10節)。また旧約時代は、聖歌隊が詩篇を朗唱していた時に、民たちはずっと祈っていたとも言われている。以上のように、祭司や聖歌隊といった礼拝を司る者たち以外の一般の会衆にとって、神殿は確かに「祈りの家」であったのである。祈りは、神への賛美、感謝、嘆願、とりなし、悔い改めの祈り、そうした要素があるわけだが、神殿は、人が神に会見し、祈る場所であったわけである。
ところがその「祈りの家」がどうなってしまったのか。主イエスの表現は強烈である。「それなのにおまえたちはそれを『強盗の巣』にした」。「強盗の巣」とは「強盗の住み家」「強盗の隠れ家」ということだが、いったい誰が強盗なのだろうか。それはユダヤ人の商人だけのことではなくて、ユダヤ教の指導者層がそうだろう。彼らは47節において、「祭司長たち、律法学者たち、そして民のおもだった者たち」と言われており、「イエスを殺そうと狙っていた」と言われている。祭司長は世襲制でサドカイ派である。律法学者は主にパリサイ派である。民のおもだった者たちは司法、行政に力ある者たちで大商人もいたと言われる。こうした人たちで、「最高法院」(サンヘドリン)と言われる七十人(七十一人)議会を構成していた(22章66節)。この議会が主イエスを死刑に定めることになる。議長は大祭司である。彼らはユダヤ教のトップの人たちであり、当然のことながら神殿を管理運営していた。強盗の頭領は大祭司ということになろうか。これは、当時のユダヤ教の堕落を物語っている。当時、敬虔な信徒たちはいた。ルカの福音書においても、そうした信徒たちが数々登場している。けれども、組織として堕落しており、その組織をまとめる指導者たちはまさに強盗状態であった。
「強盗の巣」という表現自体はエレミヤ7章11節に登場している。主イエスのことばの理解の助けとなるので、エレミヤ7章1~11節を読んでみよう。当時の人たちは、生き方と行いにおいて主に認められる状態ではなかった。虐待、盗み、殺人、姦淫、偽りの誓い、偶像崇拝、こうした罪にまみれながら、私たちは主の宮で礼拝している、主の宮で儀式に与っている、だから私たちは救われていると居直っていた。完全なる偽善であり、信仰の形骸化のきわみであった。主の宮という神殿を隠れ蓑にして悪事を働いていた(エレミヤ7章10節)。強盗の巣状態というのは、何も旧約時代や主イエスの時代に限ってのことではないだろう。現代のキリスト教界はどうだろうか。神の名を口にし、礼拝と儀式行為を行いながら、実体はとんでもないことになっているということはないだろうか。
当時のユダヤ教団は、形式的には儀式、伝統を守っているりっぱな組織のように見えて、教団のトップの人々は堕落していて、内実は「強盗の巣」であり、真のメシアを殺そうとするまでに堕落していた。彼らは主イエスを殺すことになるので、殺人強盗犯である。「強盗の巣」と言われても仕方がない。
主イエスは、神殿の真の所有者はわたしなのだ言わんばかりに、そこで目にしたくないものをすべて排除しようとした。商売人は追い出した。平行箇所のマルコ11章16節では「また、だれにも宮を通って物を運ぶことをお許しにならなかった」とあり、商売人という売り手ばかりか、買い手の通行も阻まれたようである。そして平行箇所のヨハネやマタイの記事からわかるように、羊や牛も追い出し、両替人のテーブルと鳩売り商人の腰掛けもひっくり返しと、商売関係のものは、人も動物も備品も、すべて排除しようとされたことがわかる。神殿の当局者たちは相当頭に来ただろう。神殿を取り締まる警備員のような人たちもいたはずである。でも、誰も主イエスの行為を止めていない。男一人の行為なのだから、「やめろ~」と言って、皆で取り囲んで羽交い絞めにして抑え込んでしまえばそれで済むようなものを、なぜかそういうことはなく、主イエスが神殿を完全に管理下に置いてしまっているような状況が作り出された。おそらく数時間のことであると考えられるが、なぜこのようなふるまいを神殿の当局者たちは許してしまったのだろうか。以外にこのことは語られない。考えられることは幾つかある。主イエスの弟子たちが商売人を追い出すことや、通行規制などの手伝いをした。手伝いがあったと言っても、かなり自由なふるまいである。他のヒントは47,48節にある。「イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長たち、そして民のおもだった者たちは、イエスを殺そうと狙っていたが、何をしたらよいのかわからなかった。人々がみな、イエスのことばに熱心に耳を傾けていたからである」。ユダヤ教の当局者たちは、主イエスに手を出したくても、出せない状況にあった。すなわち、主イエスは民衆の極度の人気に保護されていたということである。多勢に無勢で手を出せない。そしてもう一つ挙げるならば、そこに神的な力が働いていたということである。ヒントとなるのは、主イエスが郷里のナザレでご自分が約束されていたメシアであることを宣言された時のことである(4章28~30節)。人々は憤って、主イエスを町の外に追い出し、町が建っていた丘の崖の縁まで連行し、そこから突き落とそうとした。けれども、その時、主イエスはさほど抵抗する様子もなく、するっと彼らのただ中を通り抜けて行ってしまわれた。主イエスを崖から突き落とすことを阻む神の力がそこで働き、人々は手出しできなかったのだろう。
今日の宮きよめの記事は、私たちとどうつながるだろうか。それは新約時代の神殿とは何かを知ることによってである。最後に、新約時代の神殿とは何かを確認して終わろう。第一に、新約聖書は、教会は神殿であると主張している(エペソ2章20~22節)。ここで言われている教会とは建物のことではなく、主を信じる者たちで構成される信仰者の集まり、生ける教会のことである。教会のかしらはキリストである。第二に、新約聖書は、私たちのからだが神殿なのだと主張している(第一コリント3章16節,同6章19節)。主イエス・キリストの住まいという意味で、教会も私たち一人ひとりも神殿である。第三に、キリストご自身が神殿である(ヨハネ2章19~21節,黙示録21章22節)。主イエスが宮きよめをされた神殿は、紀元70年に破壊されることになる。だが主イエスは永遠に私たちの神殿なのである。今挙げた三つの神殿を何よりも尊ぼう。そこに、主が嫌われるものを持ち込まないように心がけよう。