今日は都上りの場面である。「これらのことを話してから、イエスはさらに進んで、エルサレムへと上って行かれた」(28節)。主イエスの生涯もいよいよクライマックスを迎える。その起点となるのがろばの子に乗ってエルサレムに上る場面である。
具体的にはオリーブという山のふもとから始まる(29節)。オリーブ山はエルサレムの東側に連なる山である。「長さ4キロにわたる峰であるが3ないし4つの標高800メートル前後の山から成っている」(新聖書辞典)。この山はダビデ王の時代は礼拝の場所となっていた(第二サムエル15章32節)。メシア預言の関係では、ゼカリヤ書14章において、終末の時代、メシアがオリーブ山の上に立ち、全地の王となることが預言されている(14章1~10節)。「その日、主の足はエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ」(同4節)。主イエスは都入りされてからも、夜はオリーブ山で過ごすことになる(21章37節)。主イエスは十字架の死を経て復活後、オリーブ山から弟子たちの見ている前で昇天されることになる。その時、御使いは「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります」と再臨の約束をすることになる(使徒1章9~12節)。その再臨の記述と思われるのが、先ほどのゼカリヤ14章。このように、オリーブ山はメシアと関係が深い場所である。エルサレム入りするルートは、オリーブ山のふもと近くのべテパゲを下ってベタニアを通るルートであったと思われる(29節)。ベタニアには、マルタ、マリア、ラザロという主イエスが愛した三兄弟が住んでいた村である。エルサレムからは2,8キロの距離である。過越しの祭りが近づいていたわけだが、この辺りの地域は、エルサレムの祭りの期間、巡礼者たちが都から溢れて出て過ごす場所となり、「拡大エルサレム」はここまでと取り決められていた領域の一番外側の場所であった。この拡大エルサレムに踏み込もうとするタイミングで、主イエスは二人の弟子を使いに出した(29節)。それは王の入城の備えをさせるためである。
30節で「向こうの村へ行きなさい」と言われているが、「べテパゲ」のことだろう。主イエスが用意させようとした王の乗り物には特徴があった。それはメシアにふさわしい乗り物であった。まず動物に乗るというのは、古代において王の特権であり、その乗り物は王の権威のしるしであった。しかし、なぜその動物が「ろば」でなければならないのかという話になる。馬ではいけないのかと。しかし、実は、古代ではソロモン王が馬を輸入するまで、ろばが権威のしるしであった。しかし、ろばの時代は終わり、馬に乗るようになってから一千年経過しているので、あえてろばを選択する必要はないのではと疑問に持つわけである。しかし、これも聖書のメシア預言に関係している。
創世記49章10,11節をご覧ください。ユダの子孫からメシアが出るという預言の箇所である。主イエスは人の系図においては、まさしくユダの子孫である。そしてこの時代はまだ、ろばは権威のしるしであり、戦いに使う乗り物であったが、ろばを「ぶどうの木につなぐ」と言われている。ここに平和のイメージを抱く。メシアは平和の王であるということが暗示されている。そしてゼカリヤ書9章9,10節である。馬が権威のしるしになっている時代である。だが、メシアなる王は謙遜なお方で、「雌ろばの子である、子ろば」に乗ることが預言されている。そして軍馬を断ち戦いをやめさせるということにおいて、「平和の王」であることが描かれている。以上見て来たメシア預言の成就のために、今、弟子たちは子ろばを連れてくるように遣わされた。
このろばの子は「まだだれも乗ったことがことのない子ろば」であることも言われている。「だれも乗ったことがない」(30節)ということには、聖書において「聖別」の概念がある。神さまの御用のために、このことのために特別に取り分けられているということである。
30節を見ると、この条件にかなうろばを村中訪ねて捜して来なさい、と命じられているというよりも、もうそのろばはわたしが用意しているから、見つけて連れてきないさいというニュアンスである。主イエスは先々のことも備えておられた。しかし、そのろばの持ち主が主イエスのために、あらかじめ自覚をもって用意したということではなかったようである。
「もし、『どうして、子ろばをほどくのか』とだれかが尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい」(31節)。今日の中心聖句は、これである。「えっ、この子ろばはヤコブさんの家のろばのはず。どうしてほどくんだい?」とか、「この子ろばの持ち主はわたしだよ。どうしてほどくんだい?」と尋ねられる可能性がある。その時、「主がお入り用なのです」と返事しなさい、というわけである。それにしても強引な話と思うかもしれない。どこかのお殿様が旅先で「それよこしなさい」と、強引に民衆のものを自分のものにしてしまうのと同じじゃないかと思うかもしれない。実は、「主がお入り用なのです」を直訳的に訳せば、「それの主が必要を持つ」である。または「それの主人が必要を持つ」である。もうちょっと砕けた訳で、「それの主が必要とされています」「それの主人が必要とされています」でもいいだろう。何を言いたいかというと、「それの主」「それの主人」とはだれのことなのか?ということである。つまり、つながれている子ろばのほんとうの主人とはだれなのかということである。それは主イエス・キリストであるということである。使徒パウロは言った。「なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ、主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました」(コロサイ1章16節)。だから、主イエス・キリストはすべての被造物に主権を持っておられ、すべては主のものなのである。ろばだけの話ではない。私たちに主権を持つお方はだれなのかと考えさせられる。私たちは誰のものなのかと考えさせられる。私たち一人ひとりは、「主がお入り用なのです」というみことばを自分のこととして聞いていかなければならない。
「彼らが子ろばをほどいていると、持ち主たちが、『どうして、子ろばをほどくのか』と彼らに言った」(33節)。「持ち主たち」と複数で言われているが、この持ち主たちとは夫婦の可能性もある。いずれにしろ、この人たちは、主のために素直に提供した。付け加えておくが、この場合の子ろばはレンタルである。お貸ししたということである。平行箇所のマルコ11章3節には、「『主がお入り用なのです。すぐに、またここにお返しします』と言いなさい」とある。持ち主たちは、「イエスさまのためなら喜んでお貸しします」と差し出したのではないだろうか。
さて、ろばの子は主イエスのもとに連れて行かれてどうなっただろうか。「二人はその子ろばをイエスのもとに連れて来た。そして、その上に自分たちの上着を掛けて、イエスをお乗せした」(35節)。弟子たちが自分の上着を子ろばの上に掛けたというのは、上着を鞍代わりにしたということである。その上に主が乗られた。さらに、「イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた」(36節)。その上を子ろばが踏んずけるわけである。「上着を敷いた」というのは、自分たちの上着がどんなに踏みつけられてもかまわないという服従のしるしであり、また、その上を歩む者を王として認め、あがめますという承認のしるしだった。実際、このあと、賛美のことばが続くわけである。私たちはここに、「主がお入り用です」に応える目的が何であるかを教えられる。それは主イエスが神として、王として、救い主としてあがめられるためである。私たちは、そのために私を用いてください、である。
賛美の場面を見よう(37,38節)。賛美をささげたのは、平行箇所のマタイ、マルコ、ヨハネでは、エルサレムに巡礼に来た群衆となっているが、ルカは弟子たちに焦点を当てた表現で「大勢の弟子たち」(37節)としている。賛美も様々なことばでささげられたはずだが、すべての福音書に共通した表現が、「祝福あれ、主の御名によって来られる方に」(38節)である。この表現自体は、38節の欄外注からもわかるように、詩篇118編26節の引用だが、エルサレム神殿の巡礼に来た、巡礼者を代表する王者的な巡礼者に対して、祭司が投げかける祝福のことばである。注意していただきたいのは、「来られる方」という表現は、メシアに適用される表現であるということである。ルカ7章19節のバプテスマのヨハネのことばをご覧ください。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか」。「来られる方」がこちらでは「おいでになるはずの方」と訳されている。原語は全く同じである。「おいでになるはずの方」「来られる方」とは、ユダヤ人にとって救い主の呼称であり、メシアの別称であった。もちろん、その方は王である。主イエスはメシアとして、王として、エルサレムに入ろうとしている。弟子たちは、これまでの力あるわざとことばから主イエスを王なるメシアとして承認し、歓喜と賛美をもって行進に付き添った。
これを面白くない目で見ていた人たちがいた。案の定、パリサイ人たちである。「するとパリサイ人のうちの何人かが、群衆の中からイエスに向かって、『先生、あなたの弟子たちを叱ってください』と言った」(39節)。これは「賛美を止めろ」と主イエスに言っているに等しい。これはルカだけが記していることばである。それに対する主イエスのことばは、過激とも言えるものである。「その必要はありません」ではない。「イエスは答えられた。『わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます』」(40節)。石は叫ぶのだろうか。思い出すのは、詩篇148編である。そこでは全被造物に賛美を呼び求めている。人間や生き物だけではなく、太陽に、月に、水に、火に、雪に、山々に、木々に。神は全被造物に賛美されるべきお方である。主イエスはそのようなお方なのである。ましてこの場面は、ろばの子に乗ってご自身がメシアであることを、公にはっきりと示される場面である。賛美こそがふさわしい。
主イエスは五日後には十字架につけられることになる。主イエスは度々、エルサレムで十字架と復活があることを弟子たちに語っておられた。けれども、その理解は弟子たちにない。主イエスが打ち立てようとしていた神の国も、弟子たちの想像を超える王国で、単にイスラエルの再興ではないわけだが、その理解もない。19章22節では「人々が神の国がすぐに現れると思っていたからである」とあり、明らかに、民族主義から来る熱狂主義のムードが漂っていた。イスラエルをローマの支配から解放し、独立に導くリーダーこそイエスであると。今こそ、神の国が打ち立てられる時であると。弟子たちもそれに乗っかっていただろう。しかし、間もなくして、側近の弟子たちは自分たちに災難が降りかかることを恐れで、全員が主イエスを見捨てることになる。弟子たちは、主イエスはメシアであると、救い主であると信じてはいたが、その理解は幼く、そして忠誠心も心許なかった。出家の弟子たちだけでなく在家の弟子たちも同様であっただろう。けれども、主イエスはそのような弟子たちの賛美をよしとしている。彼らの賛美を受け入れてくださった主は、私たちの貧しい賛美も受け入れてくださるだろう。
今日の物語から一番に心を留めたいことは、私たち一人ひとりが「主がお入り用なのです」という召しに応えるということである。前回の「ミナのたとえ」では、「ご主人様」「主よ」と言いながら、主のために何もしない不忠実なしもべが叱責されていた。今日の記事で、「まだだれも乗ったことのない子ろば」には聖別の概念があることをお話したが、クリスチャンは聖書において「聖徒」と呼ばれている。意味は、神に対して取り分けられた者である。まだだれも乗ったことのない子ろば同様、私たちも聖別されたものなのである。だから「主がお入り用なのです」という声を聞かなければならない。私たちは、私たちの主人はイエス・キリストであることを覚えて、みこころのままに自分を提供したいと思う。それは私たちの主人であるイエス・キリストがあがめられるためである。
主イエスをお乗せすることになった子ろばは、ある意味ラッキーである。救いの歴史において選ばれたろばである。私たちもラッキーである。主は私たちのことも選び、聖別し、必要ですと言って用いてくださるのである。私たちは主の召しに応えて、忠実なしもべでありたい。