今日のたとえは「ミナのたとえ」として知られており、ルカの福音書独特のものだが、マタイ25章14節以下の「タラントのたとえ」に似ている。似ているが異なる点も数ある。ただ、教えたいポイントは同じで忠実さということである。17節で忠実さがほめられている。「おまえはほんの小さなことにも忠実であった」と。そして忠実でない者が叱責されているが、忠実でない者は守りの姿勢に入ってしまっている。主人のために何かをなそうとはしない。使徒パウロが語った、「みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません」(ピリピ2章21節)を思い出す。パウロは忠実なしもべ、弟子のテモテを推奨する文脈の中で語っていた。

このたとえを語るきっかけとなったのは、11節後半にあるように、「イエスがエルサレムの近くに来ていて、人々が神の国がすぐに現れると思っていたからである」。このたとえは主イエスがエルサレム入りする手前で語られたものである。前回は19章1節にあるようにエリコでの物語であった。エリコからエルサレムまでは約30キロ。そのエリコを通過して、もうすぐエルサレムという地点でのお話である。人々は主イエスがエルサレム入りして、王の地位に着かれることを望んでいた。「人々が神の国がすぐに現れると思ったからである」とあるが、救い主(メシア)が王として支配する国、それが神の国である。それを待ち望んでいた。それはそれで良いとして、彼らにとっての神の国とは、罪を悔い改めて救い主を信じる者が入る国というよりも、政治的王国であり、民族国家の匂いが強い国である。ローマの植民地から独立したイスラエル国家である。ローマの支配から脱したイスラエルの復興である。そこに君臨する王に期待していたことは、一つは敵国を蹴散らす力強いリーダーシップである。強権国家を築いてくれることである。かつて日本では、「日本良い国、きよい国、世界に一つの神の国」と教えられ、天皇を神とする軍国主義に染まり戦いに殉じたが、イスラエルの人々も、神の国ということを正しく捉えてはいなかった。彼らにとっての神の国は、他国民の上に君臨する民族国家である。けれども真の神の国は、あらゆる民族、あらゆる国民の中から贖い出された者たちで構成される国であり、そしてこの世の国とは性質を全く異にする国である。彼らが神の国の王に望んでいたもう一つのことは、一言でまとめてしまうと良い生活だろう。身分のある者たちにとっては地位、名誉の確保であり、庶民にとっては生活の安泰、経済的に豊かな生活、そんなところであろう。

主イエスは、「人々が神の国がすぐに現れると思っていた」ということを意識して、ミナのたとえを通して、ご自身を神の国の王として真の意味で受け入れてくれる人は一握りしかいないことに気づかせる。たとえの中の忠実なしもべたちがそうである。ユダヤ人たちは、主イエスがエルサレムに上られると、主イエスに王位を与えるどころか、我々の望む王ではないと、主イエスを十字架につけてしまうことになる。ユダヤ人の指導者たちが中心となってこの計画を実行に移すことになる。民衆もユダヤ教の指導者層の影響を受けて行く。

たとえは、12節にあるように、ある身分の高い人が、王位を授かって帰って来るために、遠い国に旅立ったということが背景として言われている。「ある身分の高い人が遠い国に旅立った。王位を授かって戻って来るためであった」。私たち日本人には、こうした背景はピンと来ないが、主イエスはユダヤ人の聴衆が良く知っている政治的エピソードを利用したのである。主イエスがベツレヘムで誕生した当時のユダヤの王は悪王として名高いヘロデである。彼がどのようにして王となったのかということだが、ローマ皇帝からユダヤの王として任命されることを求めて、ローマに旅をして王の称号を得て戻って来るというプロセスを経た。ヘロデ王が亡くなると、後継者争いでもめた。長男アルケラオが早速ローマに向かって、ローマ皇帝に向かって、わたしが長男なのだからユダヤの王にしていただきたいと嘆願した。すると、後から弟のアンティパスがやってきて、父の遺言によればわたしが正統な後継者です、と訴えた。また、長男のアルケラオを王にしたくないユダヤ人の代表者50人がローマに上って来て、アルケラオを王にしないでください、と陳情した。14節の描写と似ている。「「一方、その国の人々は彼を憎んでいたので、彼の後に使者を送り、『この人が私たちの王になるのを、私たちは望んでいません』と伝えた」。ローマ皇帝は熟慮の末、嫌われていたアルケラオを領主に格下げして、しかも治めるのは父の領土の半分にしてしまった。怒ったアルケラオはユダヤに戻ると、自分の反対者たちに暴虐の限りを尽くした。その後、アルケラオはローマ皇帝の怒りを買い、わずか9年で島流しとなり、追放の身となる。結果、ユダヤ領はローマ直轄となり、ローマ総督がユダヤを治めることになった。だから、この時点でユダヤに王は不在であった。こうした王位をめぐる話は聴衆の良く知るところであったので、王位を求めて旅に出るとか、国の人々は彼が王位に着くことを望んでいないとか、王位を授かって帰って来るといった話は、身近な話として、フムフムと聞くことになっただろう。

このたとえにおいて、王位を授かって帰って来るという人物は「主イエス・キリスト」のことである。だが歓迎されない。14節で、「一方、その国の人々は彼を憎んでいたので」とあり、27節では「私が王になるのを望まなかったあの敵ども」とあるが、主イエスは憎まれっぱなしであった。当時、国内で活動していたユダヤ教の主流派は、サドカイ派、パリサイ派、ヘロデ党、そんなところだが、すべてから嫌われていた。昔も今も、この世はキリストを受け入れず、キリストが王であることを望まないという風潮がある。そのような環境下において、主のしもべたちに要求されていることは、この世の人々とは反対の姿勢の忠実さである。クリスチャンたちが生かされているこの世は、神に敵対する世界である。聖書の価値観を受け入れない世界である。だから霊的戦いがある。この世の人たちの価値観に流されてしまうことは容易である。だが流れを遡る魚のようにして主に忠実であることが要求される。つまりは周囲に流されてしまうことなく、迎合してしまうことなく、神の国の王であられる主イエス・キリストに忠実であるということである。

さて、主人は、「彼はしもべを十人呼んで、彼らに十ミナを与え、『私が帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った」(13節)。タラントのたとえではしもべの数は三人だが、こちらは十人。しかもタラントのたとえと違って、与えられた額は一律で一ミナずつ。タラントのたとえでは、ある人には五タラント、ある人には二タラント、ある人には一タラント。だがこちらは額に差がなく一ミナずつで平等である。一ミナは一タラントの約60分の一。欄外注にあるように、「一ミナは当時の約百日分の労賃に相当」。だから、およそ三カ月分の給料。このミナで何を表したいのだろうか。あまり難しいことを考えてしまうのではなく、それは主のために用いるように与えられた恵みと解して良いだろう。私たちは目と耳と口を用いて、主のためにできることがある。手足を用いてできることがある。先天的に与えられている能力や後天的に与えられた賜物がある。また主から預けられている金銭、物質がある。そうしたものすべてが「一ミナ」に含まれると解して良いだろう。この主のために用いるように与えられた恵みは公平に与えられている。他人と比較して個人差があると思っても、どんぐりの背比べにすぎない。自分に与えられている一ミナに集中しなければならない。それを主人に対する愛と信仰をもって用いる。そのために時間を割き、自分なりにできることを心を込めてやっていくわけである。

与えられた一ミナをふやした忠実なしもべたちは、町の支配権を与えられたようである。それが「十の町」(17節)、「五つの町」(19節)で表されている。町の支配権と言われてもピンと来ないかもしれないが、実は聖書において、聖徒たちに神の国の支配権が与えられることが様々な箇所に記されている(使徒たちに対して~ルカ22章29,30節(「王権」の別訳「御国」欄外注参照) ティアティラの教会に対して~黙示録2章26,27節 普遍的教会に対して~黙示録5章9,10節 千年王国の住民に対して~黙示録20章4節)。主イエスに忠実な者たちは、やがて神の国が完成したあかつきには、神の国を構成する住民として、神の国を治めることになる。皆それぞれが、神の国で何らかの役割が与えられることになる。

さて、このたとえには三種類の人々が登場していることがわかる。第一は、今見た主人に忠実なしもべである。第二が、主人に不忠実なしもべ(20~26節)。第三が、主人に敵対する人々(14節)。私たちは、主人に敵対する人々の範疇にいないと胸をなでおろすかもしれないが、第二の、主人に不忠実なしもべにはなりうる。では次に、主人に不忠実なしもべを観察しよう。彼は一ミナを布に包んでしまっておき、何もしなかった。「ご主人様、ご覧ください。あなた様の一ミナがございます。私は布に包んで、しまっておきました」(20節)。温存である。なぜそうしたのか。彼はその理由を21節で述べている。「あなた様は預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取られる厳しい方ですから、怖かったのです」。この「厳しい方」の実例が旧約聖書に記されていることに気づいた。出エジプト記5章に記してある、エジプトの王ファラオである。王のファラオは、奴隷であったイスラエル人たちに対してれんが造りを命じていたが、厳しい扱いをした。「藁は与えない。しかし、れんがは今まで通り作って納めよ」と命じた。材料は与えないけれども製品を造れ、という指示。むちゃくちゃな指示。それでイスラエル人たちは、藁の代わりに刈り株を集めてれんがを仕上げようとした。けれども要求通りに仕上げることができなかったので、ファラオはイスラエル人を打ちたたく。怠けているなと。さて、神はファラオのように冷酷なのだろうか。全くそうではない。けれども、このしもべは主人を良く思っていない。厳しくて冷たい主人であると。それで猜疑心を抱いている。何されるかわからないと。このしもべは主人を信頼できない。主人のために身命をささげる気持ちにはなれない。主人のために一肌脱ごうという気持ちにはなれない。主人が持っているあわれみ深さ、主人が持っている完全な愛という特質を見ることができないため、恐怖心止まりである。彼は何もしないほうがましだと思った。ほんとうに何もしなく、銀行に預けて利息を得ようとすらしなかった(23節)。この不忠実なしもべは、元手の一ミナを取り上げられてしまうことになる(24節)。彼はこの後、どうなったのだろうか。何も言われていない。マタイ25章のタラントのたとえでは、タラントを地に埋めた不忠実なしもべに対して、「外の暗闇に追い出しなさい」というさばきが宣告された。しかし、そのようなさばきは宣告されていない。すなわち、神の国からの追放は宣告されていない。だから、ある方々は、第一コリント3章15節で言われているように、「その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるように助かります」と、この人の働きは焼かれても、命からがらどうにかこうにか救われるのだ、神の国の端っこに引っかかるのだと主張している。けれどもある方は、この人物は直接的にはイスカリオテ・ユダが意識されているのだとも言う。そうすると、行き場は外の暗闇である。神の国からの追放である。どちらが本当なのかは不明だが、主人を信頼せず、主人に心許さず、疑い深い目で見て生きていく悲しさ、生きていても主人のために何もしない生き方の空しさを思いたい。主人のためにやれることはあるのに、守りの姿勢に入って、一ミナの持ち腐れで一生を終わるのは空しい。

彼が持っていた一ミナは、十ミナ持っている者に与えられることになる(24節)。主人は恵みが無駄にされることを望まない。だから、「おまえたちに言うが、だれでも持っている者はさらに与えられ、持っていない者からは、さらに持っているものまでも取り上げられるのだ」(26節)と言われている。

今日、一番に心に留めたいことは、17節の「ほんの小さなことにも忠実だったから」ということばである。この世での忠実さというのは、神の国の豊かな資源を任せられるかどうかのテストとなる。この世で主からの頂いた一ミナに忠実であるというのは、ほんの小さなことに忠実であること。神の国での事柄は、この地上での事柄をすべて小さくしてしまう。しかし、その小さなことは私たちの永遠の未来につながっている。もし一ミナを軽視して、何もせず温存しているなら、失格者で終わる。体力が乏しい、頭が疲れる、時間が取られる、犠牲が大きいかな、と思うことがあるだろう。年齢が進むと体力も気力も乏しくなってくる。けれども、主のためにと、最後まで踏ん張る気持ちを持ちたい。パウロは「私は自分のからだを打ちたたいて服従させます」(第一コリント9章27節)と言っている。

このたとえはミナで商売するというストーリーだが、利益を得ることの大切さに焦点が置かれているのではなく、主人に対する忠実さ、すなわち、主イエス・キリストに対する忠実さに焦点が置かれている。主に対する忠実さ、それが、神の国の到来を待ち望む者の姿勢である。やがて主イエス・キリストは再臨し、神の国は完成をみる。それまでの期間、終末の時代を生きるクリスチャンたちは様々に試みを受けるだろう。主の愛を疑うような試みや、失意に捕らわれるままにされる試みや、この世の欲に心が縛られそうになる試みや様々である。そうした中、主に対する愛が冷え、猜疑心を抱き、保身に走り、主のために何もしないで生きることを選択しそうになる。一つ目に留めていただきたことばがある。20節の不忠実なしもべは忠実なしもべ同様、「ご主人様」と言っている。繰り返し出て来ることばである。「ご主人様」の原語は「主よ」である。通常は「主よ」と訳されることばである。「主よ、主よ」と口に出すが、何もしないのである。私たちはそうでありたくない。天を見上げ、十字架を見上げる習慣を養い、主イエスの十字架の愛に益々深い感謝を捧げる者となろう。そして互いに励まし合いながら、自分に与えられている一ミナを用いて主にお仕えし、地上での人生を全うしよう。