今日の記事は、ルカの福音書にしかない有名な物語である。主イエスがザアカイという人物を救うお話である。前回は、主イエスがエルサレムの手前にあるエリコという町に近づいた時のお話であった(18章35節)。主イエスはそこで一人の目の見えない物乞いに救いを与えた。今日の記事はエリコに入った時のお話である(1節)。やはり、救いの物語である。対象はザアカイという人物である。「すると、そこに、ザアカイという名の人がいた」(2節前半)。原音表記では(原語では)、「ザカイオス」。旧約聖書に「ザカイ」という名前が登場するが(エズラ2章9節)、その名前に由来している。意味は「正しい人」「義人」。日本名では、正人(マサト)さん、義人(ヨシヒト)さんというところだろうか。「きよい人」という意味もあるので、清人(キヨヒト)さんでもいいかもしれない。

彼は三つの特徴を持つことが2,3節からわかる。第一は、「取税人のかしら」(2節後半)。当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にあったわけだが、彼らはいわば、敵国の手先となって、同国民であるユダヤ人から税金を徴収するという職業についていた。取税人は嫌われ者であることがわかる。それだけでなくピンハネしたり、袖の下に入れたり、ネコババしたりと、不正を常習的にしていたので、罪深い者と思われていた。7節を見ていただくと、ザアカイが「罪人」と言われているが、別訳は「罪深い人」「罪深い男」である。ここにランク付けされる人たちは、神の祝福はなく、神の厳しい裁きが待っていると思われていた。ユダヤ人たちは彼らを憎み、彼らと付き合うことは避けた。異邦人並みに扱われた。ザアカイはその取税人のかしらということで地位は高いのだが、かなりの嫌われ者であったことが想像にかたくない。ユダヤ人社会で孤立感を深めていただろう。常習的に悪を働いていることで良心のうずきも覚えていたはずである。第二は、「金持ち」(2節後半)。主イエスは金持ちについて何と言われていただろうか。「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです」(18章25節)。それでは誰が救われるのかという驚きに対して、「人にはできないことが神にはできるのです」(同27節)と言われた。その実例が今日の物語である。彼は金持ちであっても、幸せ感はなかったように思う。彼の心は救い主キリストに向かった。第三は、「背が低い」(3節)。聖書で背が低いと名指しで言われている人物は彼だけのように思う。それで、彼は背が低いことで有名な聖書人物となってしまった。彼は背が低いということがコンプレックスになっていたかもしれない。そうしたコンプレックスを社会的地位やお金でカバーしていたのかもしれないが、彼の自負心も限界が来ていたところに、グッドニュースが耳に飛び込んで来た。救い主がエルサレムに向かって上って来ると。エリコをお通りになると。主イエスのメッセージやそのみわざは、取税人仲間その他から、耳にしていただろう(5章29~32節を見よ)。「ザアカイさん、イエスさまは俺たちに対して、何の分け隔てもなく接してくれるんだ。そして救いまで約束してくれるんだ。十二弟子の中には取税人もいる。イエスさまは取税人の救い主と言っていいくらいだ」。そんな話やうわざを耳にして、「主イエスは私のような者であっても受け入れて、救いを与えてくれるお方にちがいない。お会いしたい」という願いが高まっていた矢先に、エリコ入りのニュースである。ザアカイは椅子に座ってなどいられなかった。

彼を妨げたのは群衆である。「彼はイエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった」(3節)。群衆がザアカイに配慮するわけがない。社会的地位が高いだとか、金持ちだとか、そんなことは群衆に何の関係もない。ザアカイは背伸びしてもだめで、後方に押しのけられてしまっただろう。群衆にとってザアカイは、ほとんど無意味の背の低い人にすぎない。それで彼はどうしたのだろうか。二つのことをした。一つは、走って行って先回りをしたということ。「それで先の方に走って行き」(4節前半)とある。チョコチョコと走って行って先回りして、主イエスを前の方から見ようとした。もう一つは、いちじく桑の木に登ったということ。「イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った」(4節前半)。「いちじく桑」とはクワ科の常緑樹で10~15メートルの高さとなる。幹は太く、四方に枝を張る。一般的に低木であるので、登りやすいと言われる。木に登って見ようとするなんてかっこ悪いとか、もうこうなったら恥も外聞もない。ただ見たい一心で登った。恥も外聞もないこの熱心さは、先の盲人と同じである(18章38,39節を見よ)。ザアカイの場合、余計なプライドは捨て去って、注目の的になるという羞恥心も捨て去って、登った。そしてイエスさまが見えた。この方がうわさの救い主なのかと。

主イエスはザアカイがそのような感動を覚える前から、ザアカイの救いを計画していたようである。「イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしてあるから』」(5節)。主イエスは「ザアカイ」と名指しで呼んでいる。取税人たちから彼の名を聞いていたのだろうか。それとも、「ザアカイのやつめ、木に登っているわい」という声を、この時耳にしたのだろうか。いずれにしろ、ザアカイの救いというものは、主イエスの主権的ご計画であったようである。ザアカイは木の上から、「ダビデの子のイエス様、私をお救いください」と呼びかけたりしていない。反対に、主イエスのほうから、「ザアカイ」と呼びかけた。「あなたの家に泊まることにしてあるから」と。「あなたの家に泊まることにしてあるから」というのは、「あなたの家に泊まらねばならない」という文体になっている。「ねばならない」である。だから、それは主イエスの希望というよりも、神の御計画なので、そうするということなのである。そうすることは前から決まっていたというニュアンスである。「すなわち神は、世界の基の据えられる前から、この方(キリスト)にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされました。神は、みこころのよしとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」(エペソ1章4,5節)のみことばを思い起こす。ザアカイの救いといのも、世界の基が据えられる前からの、永遠の昔からの、イエス・キリストにある神の御計画、神の定めであったと言えるだろう。「あなたの家に泊まらねばならない」というのは、この文脈では、救いの約束にほかならない。「泊まる」といのは古代世界において、一緒に飲み食いするということ以上に、相手を受け入れるという関係を意味していた。取税人は汚らわしいと嫌われていて、ユダヤ人たちは通常、彼らの家に泊まることはおろか、一緒に食事をすることもしなかったわけだが、泊まるということは、完全受容を意味する。主イエスは罪深い男を完全受容した。だから7節の人々の反応はわかる。「人々はみな、これを見て、『あの人は罪人のところに行って客となった』と文句を言った」(7節)。「客となった」は欄外注の別訳にあるように「宿を取った」である。「普通、取税人とは一緒に飲み食いさえしないのに、それを通り越して宿を取る?どうしてそのようなことを。あのザアカイは大罪人だぞ」。そう、主イエスは考えられないことをしようとしている。ザアカイを完全に受容したからこその発言である。そして、これが救いである。「救い」ということを色々定義できる。罪赦されること。永遠のいのちを持つこと等。今日の場面からは、救いとは主イエス・キリストに受け入れられること、と定義できる。ザアカイは、「わたしは真の意味で誰からも受け入れられないと悩んでいたかもしれない。自分でも、どうせ俺みたいな存在は、と思っていたかもしれない。しかし、主イエス・キリストに完全に受け入れられたのである。

主イエスの呼びかけに対するザアカイの反応を見てみよう。「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」(6節)。ザアカイは、主イエスに「急いで降りて来なさい。わたしは、今日、あなたの家に泊まることにしてあるから」と言われて、言われたとおりに、急いで降りてきた。伝道メッセージの招きで、「イエスさまを救い主と信じる方は、前に出て来てください」という呼びかけに対して、前に出て行くようなものである。ある方はザアカイがいつ救われたのかということについて、急いで降りて来る途上と言ったが、彼が主イエスの招きに応えた時が彼の救いの時であったと言えるだろう。

ザアカイはこうして、「喜んでイエスを迎えた」。この反応は、18章23節の金持ちの指導者の反応と対照的である。そこでは、「彼をこれを聞いて非常に悲しんだ」とある。彼はその後、主イエスのもとを去ったのである。しかしザアカイは、主イエスを喜んで迎えたである。主イエスはザアカイを完全に受け入れる姿勢を表し、ザアカイは主イエスを喜んで迎えた。とっても素敵な光景であり、多くの人に実現してほしい光景である。私はやはり、先ず、「主イエスは私のような者であっても完全に受け入れてくださるお方なのだ」という確信を多くの方に持っていただきたいと思う。自分の罪深さに悩む、自分の価値の無さに沈む、そのようにして生きている私たちだが、主イエス・キリストはそのような私たちを、ありのままで完全受け入れてくださる。主イエス・キリストは、「わたしのところへ来なさい」と招いておられる。このお方を喜んで迎える姿勢を表した時に、その人にはっきりと救いは訪れる。

では、ザアカイのその後の姿を見てもよう。「しかし、ザアカイは立ち上がり、主に言った。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します」(8節)。この態度は、彼が救われた証である。功徳を積んで救われようとしているのではなく、救われたからこその態度である。多くの方が救われた後、ごまかしてきたことを清算したり、詫びたり、償ったり、感謝の意を表したりやっている。救われたらそうなる。「私は財産の半分を貧しい人たちに施します」であるが、当時のユダヤ教のラビの教えでは、施しは財産の二割まで、と言われていた。それを財産の半分、つまり五割施します、と言っているわけだから、思い切った施しである。また、「だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します」と言っているが、律法では「元の物を償い、また、それに五分の一を加えなければならない」(レビ6章5節)となっている。「五分の一」なので20パーセント追加ということ。つまり120パーセントにして返すということ。ユダヤ教のミシュナーという文書を見れば「、もっと厳しい償いを要求することがあったようだが、それでも40パーセントの追加のようである。しかし彼は「四倍にして返します」ということなので、400パーセントにして返しますと言っている。かなり奮発した、思い切った償いである。この決意表明は、社会的にも「罪人」と認知されてきたザアカイが悔い改めた証である。

このザアカイの決意表明に対する主イエスの反応を見よう。「イエスは彼に言われた。『今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです』(9,10節)。主イエスは「彼に言われた」と言いつつ、その発言は周囲を意識した発言になっていることは明白である。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから」。ザアカイの救いを公けに宣言している。ザアカイは、ここで「アブラハムの子」と言われている。16章では、物乞いをしていた超貧乏人のラザロが天に召されてアブラハムの懐で安らいでいる描写があった(23節)。そして今、金持ちのザアカイが「アブラハムの子」と宣言されている。聖書は主イエス・キリストへの確かな信仰を持つならば、民族問わず、超貧乏人か金持ちかを問わず、誰でもアブラハムの子孫なのだと教えている。「ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子であると、知りなさい」(ガラテヤ3章7節)。「あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです」(ガラテヤ3章29節)。取税人のような罪人はユダヤ人であってもアブラハムの子孫ではないと思われていただろうが、この宣言はザアカイにとっても安心を覚えるものであったはずである。

そして、主イエスがこの地上に来られた目的が言われている。「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです」。「失われた」という表現はここが最初ではない。15章で良く使われていた。15章6節では「いなくなった羊」、15章9節では「なくしたドラクマ銀貨」とあったが、「いなくなった」「なくなった」と訳されていたことばは「失われた」ということで原語は同じである。主イエスは15章において、「失われた羊のたとえ」、「失われた銀貨のたとえ」、最後に有名な「失われた息子のたとえ」(すなわち放蕩息子のたとえ)を通して、失われた者を捜す神の愛を教えようとされた。「失われた」のもともとの意味は「行方不明になる」である。行方不明になって、もともと居るべき場所にいない、どこかへ行ってしまった、ということである。私たちがもともと居るべき場所とは、神さまのもと。創世記ではアダムとエバが罪を犯して、神の御顔を避けて、木の間に身を隠してしまうことが描かれているが、その時、神は「あなたはどこにいるのか」と呼びかけられた(創世記3章9節)。「私は今、どこどこの住所で暮らしています。」「私は今、秋田にいます」、「私は今、建物の中にいます」、そういう問題ではない。私たちが神さまから離れて暮らしているならば、私たちも失われた者にすぎない。「あなたはどこにいるのか」という御声を聞かなければならない。

主イエスは、失われた者であったザアカイを捜索して、声をかけ、救いに導いた。私たちの周囲には、自分は行方不明者だという自覚がなくても、なんとなく居心地が悪いというか、落ち着き所がないというか、フワフワしているというか、寂しいというか、自分のほんとうの居場所を求めている人たちがいるだろう。たましいの居場所というものを求めているわけである。そのような人がいたら、キリストを通して救いがあり、キリストがあなたを完全に受け入れ、神に立ち返ることができることを伝えていきたいと思う。