前回は12章1~8節より、死で終わるこの地上生活の空しさ、それ故に天地を造られた創造者である神を覚えることの大切さをご一緒に学んだ。本日は12章の後半の9節からであるが、前回学んだことを簡単に復習してから始めたいと思う。
 伝道者の書で多用されている特徴的なことばは「空」である(8節)。このことばは旧約聖書に73回登場するが、そのうちの半数を超える38回が伝道者の書に登場する。「空」ということばは「息」(ヘベル)ということばである。「息」は現れてはすぐに消えてしまうはかないもの、すなわち空しいものである。著者は「すべては空」と言っているが、「すべて」とは地上世界の事柄を言っている。快楽、仕事、成功、繁栄、人の一生、すべてが空しいのだと、各章を通して言い表してきた。
 江戸時代の俳人に小林一茶がいる。彼はなくなる前に、「たらいからたらいへとうつるちんぷんかん」という句を読んだ。彼は3歳で生母に死別し、継母に義弟ができると15歳で江戸に奉公に出される。彼はやがて俳諧を覚え、旅暮らしが続く。39歳の時に父親が病死し、一茶と継母、義弟の間で遺産相続争いが始まり、和解は12年後のこと。放浪生活が終わり故郷に帰った時は、すでに51歳。翌年一茶は最初の結婚をする。ようやく安住の地と家庭を得たと思っていたが、不幸は続く。4人の子は次々と死んでいく。妻もまた病死する。61歳ですべてを失い、まもなく結婚するが、折り合いが悪く、すぐ離縁。この間、様々な病気に悩まされ、中風にもかかり倒れる。養生して再起した64歳のおり、三人目の妻を迎えた。だが翌年、大火に見舞われ、家が焼けてしまう。焼け残った土蔵で、また中風の発作を起こし、亡くなる。彼はその前に辞世の句を読んだ。「たらいから、たらいへとうつるちんぷんかん」。「生まれて産湯のたらい、死んでは湯灌(ゆかん)のたらい、この間の一生は何のことやら」という意味の句である。
 著者は8節で、この地上世界の空しさを「空の空」と二回連ねているが、それは、この世は完全に空しいということを言い表している。著者は空しいこの世界にあって、空しくない神さまに心を向け、心を据え置くように語りかけている(12:1)。「創造者」とは人間が造った神ではなく、人間を造った神のこと。社に祭られている人間のことではなく、この宇宙を造られた、とこしえからとこしえまで生きておられる全知全能の無限の神のことである。このお方は、私たちに聖書を通して人生の指針を与え、また罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださる。
 創造者であられる神は、今日の箇所で二つの存在で言い表されているようである。一つは「羊飼い」である(11節)。伝道者の書は3000年前にイスラエル王ソロモンによって書き記されたのだが、当時に羊飼いはどのような存在であっただろうか?当時の社会にあっては、羊飼いの仕事は社会的に階級が最も低い人に与えられていたようである。羊飼いは一日24時間、羊とともに生活した。昼も夜も羊のことを心にかけ、晴れても雨でも羊の面倒を見て、雨季でも乾季でも羊の必要を考え、それらを導き、守り、養うことが求められた。羊が迷い出ていなくなればみつかるまで捜した。熊や狼といった敵からは体を張って守った。草のあるところ、水のあるところと導いた。この羊飼いに神さまがたとえられているということは、神さまは、心低くして、愚かで弱い人間のために、親身になって世話し、導いてくださるお方であるということである。「突き棒」(11節)も羊飼いの道具で、羊の群れを導く時に使用する。羊飼いは突き棒を使って行くべき道に羊を導き、まちがった方向に行きそうな時は、これで優しく打つ。「よく打ち付けられた釘」(11節)とは、テントを張るために地面に打ち込むくいのことである。くいをしっかり打ち込めば、テントは風などに飛ばされない。
 この「突き棒」「釘」の役目をするのが「聖書」である。「これらはひとりの羊飼いによって与えられた」とは、聖書の真の著者は神ご自身であるということである。聖書は1400~1500年にわたり40人以上の著者が動員されたが、その内容は驚くべき統一性がある。それは一人の神は、それらの人間を通して描かれたからである。だから聖書は、救いの教えだけではなく、科学的にも、歴史的にも、誤りなき神のことばなのである。羊飼いなる神は聖書を通して、私たちを導き、人生を確かなものとされようとしている。
 12節では、本は多くあって、全部読もうとすると疲れることが言われている。この時代は、本と言っても、粘土板とかパピルスとか羊皮紙に書いたものである。まだ印刷技術はなかった。それでも全部に目を通そうと思ったら、たいへんな時間と体力と気力がとられる。21世紀を迎えた今はなおさらである。まちがいなく一日50冊読んだとしても、一生かかっても出版される本をすべて読破することはできない。だから、本は選んで読むということである。ゲーテは言った。「私が獄につながれ、ただ一冊の本を持ち込むことを許されるとしたら、私は聖書を選び取ります」。ガンジーは言った。「私の生涯に最も深い影響を与えた書物は聖書である」。リンカーンは言った。「聖書は神が人間に賜った最もすばらしい賜物である。人間の幸福にとって望ましいものはすべて聖書に含まれている」。
 さて、今日の箇所で、創造者なる神には「羊飼い」に次いで「王」のイメージが与えられている(13,14節)。先ほどの羊飼いは、社会的に階級の低い職業であったが、王は社会階級の頂点に立つ。羊飼いとは対極の地位にある。王は裁判権をもつ。実際、伝道者の書の著者ソロモン王は裁判の席に着き、民衆をも裁いていた。聖書で神は至る所で王として描写されている。裁き主として啓示されている。ある人は裁く神は本当ではないという。しかし、それは屁理屈でしかない。この世にも裁判の制度があり、みなが正しい裁きを願っているではないか。また裁きに関して注目してみたいものに、人間のもつ良心がある。良い事をすると心は平安である。悪い事をすると誰にも見られていないのに、心は痛む。この私たちの心のもつ善悪の判断基準はどうやって生まれたのか?何千年という人間生活の中で習慣的に身に着いたものなのか?ある人は、これは人間が社会生活を都合よく送れるように身に着いていった習慣的なものにすぎないのだから、善悪の基準なんて時代によって変わって当然だとする。この立場に立つと、善と悪の境はなくなる。「善というのは、その時代の、その社会の人たちが認めていること。悪というのは、その時代の、その社会の人たちが認めていないこと。こういうことにすぎない。基本的に、絶対善、絶対悪というのはない。善と悪は対立した関係にはない。善と悪の境はない。悪というのは本来ない。正しいのはあれかこれかではなく、あれもこれも認められうるものだ」。実は、これが現代思想である。だが、これは人間中心の勝手な考え方にすぎない。こうして、殺人やハレンチなことさえ正当化しようとしている。だが、事実は神が定めた善悪の基準があるのである。私たちが邪念を抱いたり悪を行ったりする時、心の平安を失う。つまり、良心が裁きを下している。それは神の法に触れると。この良心の働き自体が、14節の「神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてをさばかれるからだ」を裏づけている。良心は神の裁きを予告する働きをもつ。予備の裁判がまず私たちの心の中で行われる。良心に背くとは神の法に背くことなのである。良心が私たちの心にブレーキをかけるのは、神の法を守らせるためなのである。ただ、神が私たちの心に与えられた善悪の判断基準も完全ではない。罪によって多少鈍くされていて、摩耗してしまっている。だから私たちは、聖書という基準に心を留めるのである。そうする時に、自分の罪が示され、へりくだらされる。そしてこの聖書は、死後にさばきがあることを告げているが、裁きなんてないといううそに惑わされないことである。神は王の王、主の主として、やがて全地に住むすべての人を残らず裁かれる。神はすべての人の心を読み取り、すべての人の行状を知っておられる。人はこの神を恐れなければならない。
 最後に、キリストの十字架について短くお話ししておきたい。これは、今、お話しした裁きと関係があり、人類を罪から救うための神の愛の表れである。先ほどお話しした神の「羊飼い」と「王」のイメージは、キリストの十字架で一つになった。二千年前に西アジアでキリストの十字架刑があった。聖書では、この十字架刑は、神が人となり全人類の罪の身代わりとなった事件として教えられている。キリストは十字架にかかられる前に、「わたしは、良い牧者です(羊飼いです)。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」と宣言されたことがあった(ヨハネ10:11)。羊飼いは実際、羊の身を守るためにいのちを捨てることがあったが、キリストは私たちを罪と罪の結果である滅びから救うために、最初から十字架でいのちを捨てる覚悟であった。へまして捕まっての十字架刑ではなかった。最初から自分のいのちを差し出して救うという意図があった。
 キリストが十字架につけられた時の罪状は何であったかご存知だろうか?聖書のどどこを見ても、キリストには罪がないこと、その口に何の偽りも見いだせなかったことが記されている。しかし、それでは裁判で死刑宣告にはできない。実は、キリストの罪状は「自分を王とした」ということだった。キリストは自分が王であることを否定しなかったが誤解を受けた。キリストはクーデターを起こそうとしていたテロリストのボスでもなんでもない。平和の君、天の御国の王である。しかし、それは理解されようもなく、ローマ皇帝に反逆する政治犯として処刑された。だが、この時、この十字架刑が救いの手段とされた。この時、キリストは、罪人を裁く側の王の立場でありながら、裁かれる側に回り、私たち人類の罪を一身に負い、その裁きを身代わりに受けてくださった。王が人民の罪のために身代わりに死ぬというイメージである。身代わりの償いである。このキリストの十字架は、人間の想像をはるかに超えた神の救いのみわざだった。私たちひとりひとりのためのみわざだった。キリストの十字架は私の罪のためであったと信じるすべての者に、罪の赦しと永遠のいのちが、天の御国が約束される。やがて死んで神の前に立たせられた時、走馬灯のようにして過去犯した一切の罪が思い起こさせられることになるかもしれない。もうだめだ!足元が消えてなくなる感覚に襲われるかもしれない。しかし、キリストの十字架ゆえに裁きは終わったことを告げられ、義と認められた者として、天の御国の門をくぐることができる。聖書が記された主要な目的は、神、罪、救いについて人類を教え、実際に救いに導くためである。
 今日は、神は創造者であることから始まり、キリストの十字架までお話しさせていただいたが、この世界はいつどうなるかわからない、私たちもいつどうなるかわからない。今が、確かな神を、確かな救いを、受け入れる時であると思う。