今日のタイトルは「あなたの一番若い日に」であるが、それは皆さんにとって「今日」である。今週と来週の二週に渡り、伝道者の書の12章をご一緒に学びたいと思っている。この著者はイスラエルの王であったソロモンという人物で、今から3000年前の人物である。彼は当時、王であったというだけでなく、非常な知恵者として名声を博し、世界中から彼の知恵を聞くために集まってきたと言われる。彼はこの伝道者の書において、この地上世界で幸福は見出されるのかと、その幸福の探求について記している。彼は1章の冒頭から結論を述べてしまっている(1:1~3)。「空」とは空しいということ。「空の空」と空を連ねることによって、この地上世界の絶対的空しさを強調している。
  では12章1節に目を落とそう。→1節「あなたの若い日にあなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また、「何の喜びもない。」という年月が近づく前に」。 「創造者」とは神さまのことである。けれども、それは、森にも水にも石にも宿っているという神々のことではなく、死んだ人間が祭られての神々でもなく、いわゆる八百万の神々のことではなく、この天地宇宙を造られた唯一の神さまのことである。聖書の記述は、「はじめに神は天と地を創造された」で始まる。神はこの天地宇宙を造られ、私たち人間をご自身と人格的交わりをする存在として造られた。「創造者」は「創造主」とか「造り主」と訳すこともできる。私たちを造ってくださった方のもとに立ち返りたいと思う。
 「わざわいの日」に注目してみよう。「わざわいの日」とは天変地異といった天災のことが言われているのではなくて、活力に満ちた青年期との対比で言われている。すなわち老年期のことである。「わざわいの日」は人間の死も意識されている。それは老化と死の描写が2節以降でされていることからもわかる。衰えと死が意識されている。「わざわいの日」は「苦しみの日」とも訳すことができる。老年期は人間として苦しみの増す時代であることは疑いえない。苦しみが増すということは、「何の喜びもない」という告白も生まれてくるわけである。これは「何の楽しみもない」と訳すこともできる。
 では2~6節までを見よう。ここでは老年期を比ゆ的表現で伝えている。それは年を重ねていくごとに衰えていくことの描写で、最後は死で終わる。聖書は現実を直視させる。楽しい人生はこれからも続く、大丈夫、大丈夫などと、安易な慰めは与えない。私たちに誠実に向き合ってくれる。
 →2節「・・・雨の後にまた雨雲がおおう前に」。光を失う長雨の季節が描写されている。ここはおそらくイスラエルの冬の描写であろうと思われる。老年期を冬で描写している。人生を四季にたとえたお話を皆さんも聞いたことがあるかもしれない。幼少年期が春、青年期が夏、壮年期が秋、老年期が冬。冬はいのちが乏しい暗い季節である。年齢のリズムを季節のリズムで表わそうという試みは、もうすでに、このような昔から行われていた。
 3~6節の比喩も興味深い。それを見ていく前に、ユダヤ人はこういう比喩が得意であるという一例を上げておこう。あるユダヤ人がローマ皇帝に、なぜ祭りに参加しないのかと問われた時の返答である。「山に雪が降り、氷で囲まれ、犬は吠えず、風車小屋は挽くことを知らない」。意味わかりますか?「山に雪が降り」~頭は雪のように白くなり 「氷で囲まれ」~髭も同様に白くなり 「犬は吠えず」~声は弱くなり 「風車小屋は挽くことを知らない」~歯は機能しない つまりはこのユダヤ人、老齢を理由に祭りへの参加を断った。
 →3節 「家を守る者は震え」。体を「家」で表わしているわけだが、それを守る者とは腕と手であると考えられる(足、膝を加える解釈もある)。それが震えはじめる。「力のある者たちは身をかがめ」。かがめるのであるから、背中、背骨、腰が考えられる。では「粉ひき女たちは少なくなって仕事をやめ」とはどういうことであろうか?「粉ひき女」は例のごとく、体の一部を指している。それは歯である。それが少なくなってしまう。「窓からながめている女の目は暗くなる」。これはわかりやすい。「窓」とは小窓のことだが、体の小窓を探そう。「窓から眺めている女」とは目のことである。それが暗くなる、かすんだりする。
 →4節 「通りのとびらは閉ざされ」。体の中でとびらを探せば、耳とか口が考えられるが、おそらくここは耳のことであろう。それが閉ざされるとは、耳が遠くなるということである。「臼をひく音も低くなり」。この解釈は難しい。「臼」は歯を意味していて、歯が抜け落ちたために発音が不明瞭で良く聴きとれない、という解釈があるが、「臼」は胃袋を意味していて、胃の消化作用の衰えという解釈もある。「人は鳥の声に起き上がり」。これは眠りが浅くなり、朝早く目覚めてしまうことの描写であろうか。「歌を歌う娘たちはみなうなだれる」。これは声の衰えの描写であろう。張りのある声が出ない。または「歌を歌う娘たち」を第三者と解して、鳥の声とともに朝早く目覚めてしまうので、夕方うとうとしてしまって、歌い手たちの声が耳に入らなくなってしまう、結果、歌い手たちをがっかりさせてしまうという解釈もある。
 →5節 「彼らは高いところを恐れ、道でおびえる」。これは比喩ではなくて、文字通りのことであろう。高い場所に立つのをこわがり、交通の往来の激しい場所を恐れる。著者は比喩に戻る。「アーモンドの花は咲き」。アーモンドの花の色はどういう色だろうか?アーモンドの花は春の先触れとして咲き、色はピンクであると言われている。老年期がピンク?ご安心ください。聖書の舞台パレスチナでは、アーモンドは冬の真ん中に咲き、花びらの下のほうはピンクでも上に向かえば白となり、全体としては白のかたまりに見える。このアーモンドの花で白髪を意味していると考えられる。11章10節の「青春」ということばは、「黒」「黒髪」(くろかみ)に由来することばだが、やはり老年期は白髪となる。「いなごはのろのろ歩き」。「いなご」はピョンピョン飛び跳ねる虫である。しかし、それが疲れた感じにのろのろ歩く。これは足腰が衰え、動作がにぶくなったことの描写である。「ふうちょうぼくは花を開く」。「ふうちょうぼく」という木を私は知らない。それは地中海原産の低木で、そのつぼみは食欲や性欲の高進に役立つとされている。「花を開く」と訳されていることばは「無力になる」という意味のことばであるので、性欲の減退を言っているのであろう。「だが、人は永遠の家へと歩いていき、嘆く者たちが通りを歩き回る」。体の諸機能はどんどんだめになり、残された機能も活動停止する。そして人は死ぬ。ここでの「永遠の家」とは、良い意味で言われているのではない。当時、人は死ぬと、よみの世界という真っ暗闇の世界に入ると言われた。そこが永遠の家になってしまうということ。当時の埋葬の時の様子は言うと、人が死んで墓に葬られる前後、専門の泣き女たちが、通りでオイオイ泣いた。「嘆く者たちが通りを歩き回る」とは、死を悼み悲しむ描写である。続く節も死の描写である。
 →6節 ここでは、三つの生活用具がこわれる描写である。「銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ」。これはランプが天井から落下する描写であると思われる。ランプを天井から吊るす銀のひもは切れ、ランプは床に落下し、ランプの金の器がバシャンと砕かれてしまう。その時、ランプの光は完全に消え、暗黒となる。これを音を入れて想像してみてください。次は、「水がめは井戸のかたわらで砕かれ」。水は聖書でいのちの象徴である。だが、その水を入れる器は砕かれてしまう。「滑車が井戸のそばでこわされる」。「滑車」は井戸水を汲みあげる道具だが、それが壊され、もはや水を汲みあげる手段はなくなる。もはや、すべてが終わりである。形あるものはやがて壊れるという物理の法則がある。車も家も自然界も…。それは人間にも当てはまる。人間は老いを重ね、体の諸機能がどんどん衰え、壊れて死を迎える。ただ普通の物と違うところは、死によって、霊と肉体が分離するということである。
→7節 ここでは人間存在の消滅に強調がある。人間は死んで肉体から霊を抜き取られたら、人間はそこで終わりとなってしまう。
 著者は死で終わる空しい人生に正面から向き合わせようとする。それは6節に見るような想像もしたくない現実が来る前に、もう何の望みもなくなってしまう時が来る前に、一日でも早く、創造者であられる神を信じてほしいからである。身体のあちらこちらに欠陥が生じ、こわれていく。そして全部がだめになってしまう。そうなってからでは手遅れだと著者は知っていた。永遠の滅びはまぬがれられない。それで著者は、読者に危機感をもっていただくために、死の宣告をしている。人は医者に死の宣告をされるとあわてふためく。けれども、聖書は健康な人にもそうでない人にも全員に死の宣告をしている。死なない人など誰もいない。なのに、死を他人事のように思って暮らしている人が多い。死という現実と正面から向き合おうとしない。だが自分の死はすでに宣告されている、と誰しもが受け止めなければならない。確かに、死は誰にでも確実にやってくる。
 死が宣告されているのだから、1節の「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」という勧めに心を留めたい。「あなたの若い日に」と言っても、自分は十代や二十代の若者ではないとおっしゃるかもしれない。しかし「若い日」の「若い」と訳されていることばは、「元気な時」「盛んな時」とも訳すことができることばで、必ずしも、十代、二十代を指すことばではない。よって、「若い日」を「壮年の日」と訳す方もおられる。いずれ、皆さんが一番若い日は「今日」である。今日、創造者なる神を覚えていただきたい。神を覚えるとはどういうことだろうか?「覚える」ということばは「心に据え置く」を意味する。頭の中に知識として入れておくということではなくて、心に据え置くということである。皆さんはご自分の家の床の間や玄関や居間や寝室に、大切なものを据え置いているだろう。それは何だろうか?皆さんの心には何が据え置かれているだろうか?皆さんの心に創造者であられる神さまを据え置いてください。
聖書は、人は一度死ぬことと、死後にさばきが来ることを告げている。7節で「霊はこれをくださった神に帰る」とあったが、これは誰しもが救われるということが言われているのではない。人は生前、神を信じていなかったとしても神の前に立たせられる時が来る。神のさばきの座に立つ時が来る。11章9節後半で「あなたは神のさばきを受けることを知っておけ」と言われていることをすでにみた。神を忘れた人生を歩めば、その人がどれほど安定した人生を歩み、美貌を誇っていた人であっても、その肉体は糞土と化し、そして霊は、永遠の滅びというさばきに服さなければならないのである。だがそれは喜ばしいことではない。
ローマのウルバン大学の大講堂に、「そしてその次には、永遠である、永遠である」ということばが刻まれている。そのいわれが興味深い。昔、ローマの法科大学の苦学生がお金に困り、フィリップ・ネリという富豪に援助を願い出たそうである。ネリはその学生に尋ねた。「そのお金を何に使うのか?」「まず法科大学を卒業します」「そしてその次には?」「弁護士になります」「そしてその次には?」「お金を儲けます」「そしてその次には?」「家を持ちます」「そしてその次には?」「結婚します」「そしてその次には?」「子供をもうけて教育します」「そしてその次には?」「あとは年をとっていきます」「そしてその次には?」学生はことばに窮した。黙っている学生に向かい、ネリは厳粛な面持ちで言った。「そしてその次には、死だ。そしてその次にはさばきだ。そしてその次には永遠だ。永遠の滅びだ」。
 私たちは今日という日に創造者なる神を心に据え置き、永遠のいのちへの歩道を歩み出そう。