前回は金持ちのある指導者が、「何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」(18節)と質問したのに対し、主イエスが「心を低くし、罪を認め、富ではなく私を選び取る決断をし、私に従うのだ」とアプローチされたことを見た。金持ちは、イエスさまに従うことができたらという思いはあったが、富は手放したくはないという葛藤の中で、躊躇し、結局主イエスを選び取ることができず、非常に悲しんだ。

今回はその続きで、「イエスは彼が非常に悲しんだのを見て、こう言われた」(24節前半)。その話の主な対象は弟子たちのようである。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいでしょう」(24節後半)。永遠のいのちの質問で始まったわけだが、主イエスは永遠のいのちを受け継ぐことを「神の国に入る」と言い換えている。富を持つ者は富に執着するので、神の国に入るのは難しいとおっしゃっている。「できない」というわけではないが難しい。

主イエスはその難しさをらくだを使った比喩で表現される。「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです」(25節)。らくだはユダヤ人が知っている家畜の中ででは一番大きい。その一番大きいらくだが一番小さいと言ってよい針の穴を通るよりも、金持ちが神の国に入るほうが難しいというのである。もうこれは不可能に近い難しさであることがわかる。神の国は金持ちにとって狭き門どころではない表現である。だから続く、26節の人々の反応は当然である。「それでは、だれが救われることができるでしょう」。この驚きは、「らくだが針の穴を通るほうが易しい」ということばに対する反応なわけだが、ユダヤ人の金持ちに対する考え方も関係している。ユダヤ人は神さまに従うなら祝福を受け、それは豊かさという目に見えるかたちで表されると信じていた。だから、金持ちは神に祝福されている人という考え方が一般的だった。金持ちのような神に祝福されていると思われるような人であっても救われないというなら、「それでは、だれが救われるでしょう」という疑問である。「だれが」というのは「どういう種類の人が」ということだが、「だれが救われることができるでしょう」の答えは、神にあってどういう種類の人でも救われることができる、ということである。

そのことを主は答えられる。「人にはできないことが、神にはできるのです」(27節)。このことばを単純にしよう。実際、この見本が19章に入っての、取税人のかしらで金持ちのザアカイの救いである。ある人たちは疑問を持つだろう。ザアカイは救われたのに、ではなぜ金持ちの指導者の場合は救われなかったのかと。私が思うのには、金持ちの指導者は主イエスに従う決断ができなくて躊躇していたわけだが、両足を踏み出せなくとも、片足でも踏み出す意思を表し、「イエスさま、あわれんでください。このようなわたしをお助けください」と、心を低くし、主イエスに助けを求める姿勢を持つことができれば良かったのではないかと考えている。救われるためには人間の側での心の転換が必要なわけだが、それがうまくできないのが罪人である。救われる前、心の揺らぎは誰でも経験するところである。主イエスについてまだわからないことがあると、そこで躊躇することがある。また、手放したくないものがある、信じた後の生活が心配になる等の悩みで足踏みすることがある。だが「人にはできないことが、神にはできるのです」ということばを信じて祈り、「このような者ですがお救いください。」とすがる時に、主イエスに対して心の目が開かれ、従う決断ができ、神のみわざは現わされるのではないだろうか。私もまさしくそうだった。主イエスというお方は全身全霊、全人生をあずけても大丈夫なお方なのか、田舎の農家の長男が従って行く時に待ち受けているものを考えると足踏みしてしまうとか、不安や思い煩いがあった。でも、みことばを通して、背中を押していただけた。主イエスの絶大な価値を認めることができた。そして、レディファーストならぬイエスファーストでいいんだと、信じた後の生活もゆだねることができた。

さて、ここでお調子者のペテロの登場である。自分たちはさっきの金持ちとは違うと言わんばかりのことを言う。「するとペテロが言った。『ご覧ください。私たちは自分のものを捨てて、あなたに従って来ました。』」(28節)。原文では「私たちは」ということばが強調されていて、ペテロは使徒たちを代表して発言していることがわかる。「自分たちは、人があんまりできていないことをやってきました。偉いでしょ」みたいな。主イエスは「調子に乗るな」と叱責されたりはしない。犠牲を払ってご自身に従う者への報いを語られる。

「イエスは彼らに言われた。『まことに、あなたがたに言います。だれでも、神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者は、必ずこの世で、その何倍も受け、来るべき世で、永遠のいのちを受けます。』(29,30節)。主イエスは「神の国のために」と、「何のために」の服従であるかを明らかにされる。大戦中、日本国民は、日本は「神の国」であると教育された。天皇はその頂点に立つ神であり、いのちを賭けて天皇のために、神の国のために戦えと教えられた。だがほんとうの神の国とは、主イエス・キリストが王として治められる神の国であり、それは永遠に滅びない性質をもつ天の御国のことである。ここで、「神の国のために」は、「主イエスのために」と言い換えることができる。「神の国ために」とは「主イエスのために」である。

「だれでも、神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者は」(29節)。同じようなフレーズがマタイ19章、マルコ10章にもあるが、ルカの特徴の一つは「妻」が加えられているということである。男性向きの呼びかけになっているので「夫」を加えても良いだろう。ルカは家族関係に強調を置いている感がある。ここで「家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者は」と言われているのは、家族からの反対が想定されているからである。信仰を持った時、またバプテスマを受けようとする時、未信者の家族から「おめでとう」と言われることはまずない。それはクリスチャンホームだけの話と言って良い。大方、反対に合うか、渋い顔されるか、そのようなところである。けれども、主イエス・キリストを選び取るということである。

その者に対する報いは、「必ずこの世で、その何倍も受け、来るべき世で、永遠のいのちを受けます」(30節)。「永遠のいのちを受けます」は理解できるが、「必ずこの世で、何倍も受け」、これをどう理解するかである。良く言われるのは、肉の家族に捨てられても、もっと多くの信仰の家族、神の家族が与えられるという解釈である。主イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちです」(8章21節)と言われたことがあったが、信仰の母、信仰の兄弟たち、そうした方々が与えられることは事実である。そして、来るべき世で、永遠のいのちを受けるのである。

私は田舎の農家の長男であったので、バプテスマを受けるにあたり、葛藤が大きかった。二十歳前、実家の北座敷で苦悩していたのを覚えている。両親はなんと反応するのだろうかと。そしてまさしく、今日のみことばをその場で頂き、両親に告げて、クリスチャンになる決断をした。神の国のために生きよう、主イエスに従って生きよう、というとき、反対があるとか、いろいろな恐れがつきまとう。人によっては地上の富への執着も捨てきれないと悩むだろう。しかし、「人にはできないことが、神にはできるのです」と言われている。私たちが信仰をもって踏み出すなら、その時の苦悩は賛美へと変わるのである。

さて、神の国のために犠牲を払おうとするのは弟子たちだけの話ではない。主イエスご自身がお命を捨てる覚悟である(31~34節)。この箇所は、主イエスの受難の予告の三回目である。もうすぐで都入り、エルサレムという頃であった。自分だけ御殿に住んでご馳走を食べて、部下や国民は戦いの最前線や飢餓や疫病で死んでいくという独裁者の国家とはまるで反対である。神の国の王は、自ら率先して自らのいのちを犠牲にして、神の国を打ち建てようとされる。この神の国の敵とは地上の国家ではなく、罪であり、死であり、悪魔である。これらの支配から人類を救い、神の国を打ち建てることが主イエスの使命である。そのために自らのいのちを捨てる覚悟であった。32,33節では七つの予告がされている。①「異邦人に引き渡され」。これは異邦人であるローマ人総督ポンティオ・ピラトの裁きに服することが言われている。②「彼らに嘲られ」。これは「侮辱する」という意味のことばである。ばかにするような、冒瀆するようなことばを浴びせかけることである。③「辱められ」。かつて「乱暴な仕打ちを受ける」と訳していた聖書があったが、殴られたり、たたかれたり、そういう仕打ちの行為だろう。④「唾をかけられます」。実際、これも成就する(マタイ26章67節、同27章30節)。⑤「むちで打って」。これは死刑確定後のむち打ちと思われる。これで死んでしまう者もいたほどである。⑥「殺します」。ローマ法にならった死刑なのだけれども、裁判官自ら無罪と認めつつ、ユダヤ人が暴徒化することを恐れての死刑判決だったので、実質は殺人でしかない。合法の死刑ではない。不法な殺人である。だが神は人の悪いはかりごとを良いはかりごとに変えてしまった。十字架刑は神の計らいの中で罪人の救いのために用いられることになる。主イエスにとっては、私たちの罪のための身代わりの死であった。⑦「三日目によみがえります」。この受難の予告は受難で終わらず復活で終わる。神の国の王が殉教で終わってしまったら、神の国は分解してしまう。打ち建てられない。永遠のいのちの望みも捨てなければならなくなる。

主イエスは七つの予告の前に、31節において、預言者たちが書いているすべてのことが我が身に実現することを強調している。「預言者たちを通して書き記されているすべてのことが実現するためです」というのはルカ独特の記述である。ある方々は主張する。イエスという男は、ある時、自分が救い主にならなければならないと自覚し、周囲にも勧められて行動に移すが、その計画は失敗し、十字架で死んだのだと。だが実際はそうではない。旧約聖書で預言されていたとおりに、受難のメシアとして歩み、私たちの罪のための犠牲となり、死なれ、そしてよみがえられたのである。主イエスも聖書の預言がわかっていて、ここで予告をされている。ルカは、主イエスの一生は失敗だったとか、成り行きでそうなったとか、復活などというのは苦し紛れの付けたしだとか、そういう風に思われないように意図して書いている。

ルカ独特のもう一つのことは34節の記述である。弟子たちの無理解が言われている。「これらのことが何一つ分からなかった」「このことばが隠されていて」「「話されたことが理解できなかった」。彼らは一つ一つのことばの意味はわかったはずである。たとえば、辱めを受けるとか、つばきをかけられるとか、鞭で打たれるとか、ことばそのものの意味はわかったはずである。けれども、それがイエスさまに起こることとして、頭の中ではつながらない。「イエスさまのことを快く思わない人たちはいるわけだけれど、これはいったいどういうこと?」「『人の子』は救い主の別称(別の呼び名)だということは知っているけれど、救い主が殺される?よみがえる?んっ?」。救い主の死とか復活とか、そういう理解は当時のユダヤ社会には全くなかったので、まともに頭にも入っていかなかったにちがいない。頭でうまく拾えないというか。音声として耳に入っているだけ。心の耳はまちがいなく塞がれていた。

ルカはこうした弟子たちの無理解を、神の側からの表現で、「彼らにはこのことばが隠されていて」と記述している。そうすると、彼らの無理解は神の側の責任になるのだろうか?ここはそのような受取りをすべきではなく、神のことばという性質を考えてみればいい。神のことばは御霊のことばである。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです」(第一コリント2章14節)。神のことばである神の救いのご計画は御霊に属することであり、生まれながらの人間には理解できないものなのである。みことばそのものが御霊のことばである。その人の心が主に向けられ、主に心の耳を開いていただくときに初めて、御霊によって理解は可能となるのである。神のことばはそのような特質を持っている。だから、神のことばを聞く時は、小説やふつうの本に対するような感覚ではなく、神の御声を聞くのだという意識で、御霊の助けを仰ぐ信仰で相対するのである。

以上が、今日の区分の講解だが、中心は29,30節である。私たちは、主イエス・キリストの受難と死、復活の後の時代を生きている。主イエスが私たちのために何をしてくださったかを、みことばを通して、御霊の助けによって理解している。その犠牲は何のため、誰のためであったのかを知っている。そして、主イエスとは永遠から永遠まで生きておられる神であり、王の王、主の主であり、朽ちることのない神の国の支配者であることを信じている。主イエスは今日のみことばを通して、神の国のために生きるよう私たちを招いている。すなわち、ご自身に従うよう招いている。この招きを拒む正当な理由はどこにもない。ただ、主イエスに従う歩みを始めたといっても、いろいろなしがらみが従うことを妨げようとするだろう。家族のしがらみ、世の中のしがらみ、自分の内側の感情のしがらみ、そうしたものが蜘蛛の糸のように私たちの心に絡みつき、主イエスに従うことを困難にさせる。もういいかげんに従うのを止めたらと。また、適当に妥協してやっていけばと。別の表現で言うと、私たちのたましいは、ある時はジャングルの中に置かれ、身動きしづらくもがいてしまう。ある時は砂漠の中に置かれ、殺伐とした空気にげんなりしてしまう。ある時は歓楽街の中に置かれ、完全に主を見失ってしまう。だが、私たち一人ひとりが主イエスの御そば近くあることを心がけ、従うことを心がけよう。主イエスの弟子として、主イエスを現実として生きるのである。主イエス・キリストはすべてのものが朽ち果てても、永遠に変わらない人格であり、全き愛であり、まことの神、永遠のいのちである。この地上にあっても、御霊を通して、私たちの助け主として、私たちとともに歩んでくださるお方である。