前回はパリサイ人と取税人のたとえを通して、自分自身を低くすることを教えられた(9~14節)。主イエスは14節で「あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです」と結論を語られた。主イエスは、今日の箇所の前半では、自分を低くすることの教材として、子どもを取り上げられる(15~17節)。後半は、それとは正反対の人物が登場することになる(18~23節)。

では、前半から見ていこう。人々が、幼子たちを主イエスのもとに連れて来た(15節前半)。そこに祝福してもらおうという意図があったことはまちがいない。実は「幼子」と訳されていることばは、以外にも、ルカの福音書にしか登場しないことばで、同じことばが2章12,16節では「みどりご」と訳されている。マリアから生まれた新生児イエスに適用されている。このことばは「赤子」「乳飲み子」とも訳せることばである。この場面ではゼロ歳児ではなく、もう少し年がいった子どもたちだろう。いずれ少年少女ではなく、もっと年下の幼子たちである。

主イエスは幼子たちが連れて来られたのを見て、「よく来た、よく来た」と思われたと思うが、「ところが、弟子たちはそれを見て叱った」(15節後半)という行為に出た。これは当時の文化を考えるとわかる行為である。子どもは役に立つ年齢になるまでは、つまらない存在、価値のない存在とされていた。社会的には二次的な存在である。偉い人に近づいたりすることが当然な存在ではない。それに今、イエスさまは忙しい。子どもにかまっている暇などないと弟子たちはみなしたのだろう。

だが、主イエスの子どもたちの見方は、当時の価値観とは違っていたので、「イエスは幼子たちを呼び寄せて」(16節前半)という反応に出る。そして、「子どもたちを、わたしのところへ来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです」(16節後半)と、子どもたちを高く持ち上げる。それどころか、はっきりと、子どもたちを大人の模範的存在としてしまう。「まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることができません」(17節)。子どもをつまらない見下げる対象ではなく、大人が模範としなければならない対象にしてしまう。

私たちがここで熟考してみなければならないことは、「子どものように神の国を受け入れる」とはどういうことなのかということである。神の国は悔い改めとイエス・キリストに対する信仰によって入ることができる世界である。それには、子どものような性質が必要であるというわけである。この子どものような性質を三つに分けて考えてみよう。第一は、低い心である。子どもは自分の無力さ、弱さ、小ささがわかっている。いわゆる自分を高くするパリサイ人のような傲慢さとは対照的である。自分を低くしている。私たちはパリサイ人たちのように自分を高くし、自分の知恵と力で神の国の門をこじ開けようとするような態度はふさわしくない。前回のパリサイ人と取税人のたとえ(9~14節)で学んだ取税人のように、また35~43節で見ることになるエリコの盲人のように、心低くできる者に神の国の門は開かれる。「子どものように」という場合、低い心をもってということ第一に来るのだが、もう二つ、付け加えることができるだろう。第二は、無心に求める心である。乳飲み子を思えばわかるが、母親が与える乳を無心に受け入れる。母親のおっぱいを無心にしゃぶり、吸いと、与えられるものに対して無心そのもの。大金を目の前に積まれても、目もくれず、母親が与える乳に向かう。子どものような者は、よそ見せず、他に気を散らすことなく、無心に神の国を求める。何の衒いもなく、ありがたいと思って神の国の福音に向かう。第三は、強い信頼の心である。幼子は自分が何者にすぎないかをわきまえていて、親に全面的に頼る。食事のテーブルに座ったら、ちゃんとご飯が提供されると思っている。自分が何事かをしなければならないかなとか、父ちゃんのお財布さみしくないかなとか余計な心配はしない。車に乗ったら、目的地までちゃんと連れて行ってくれると思っている。父ちゃんの運転は大丈夫かとか、遊園地に着くまでガス欠にならないかなといった余計な心配いはしない。親を完全に信頼してまかせきっている。

大人になると、今見て来たような低い心、無心に求める心、強い信頼の心を失うことになる。大人になると、傲慢さが増し、自分の知恵や力で神の国に入れるかのような思い違いを犯す。自分の正しさに拠り頼んでしまい、それが神の国に入るのを妨げることになる。また大人になると、無心になって神の国の福音を求めるのではなく、富とか名誉とかこの世の楽しみとか、そちらのほうに目が行き、心が奪われることになる。さらに、大人になると変な意地が生まれ、我が強くなるので、自分に拠り頼み、神に対する信頼は冷え、神に対しては疑いや疑念といった不純な思いが増していく。

さて、18節以降の後半では、まさしく「子どものように」なれなかった人物が登場する。彼は、この世にあっては理想的な人物である。品行方正でまじめ。地位もある。しかも金持ち。彼は、平行箇所のマタイ19章22節では「青年」と呼ばれている。お婿さんにするのにも理想的人物。だがこの世にあっては理想的な人物でも、神の国においては理想ではなかった。「また、ある指導者がイエスに質問した。『良い先生。何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。』」(18節)。「ある指導者」と言われているが、どのような指導者であるのかは具体的にはわからない(新改訳第三版では「ある役人」と訳出)。「指導者」と訳されていることばは、「頭」を意味することばで、具体的に何の職種の頭なのかはわからない。色々な訳が可能で「議員」とも訳しうることばである(協会共同訳)。彼は永遠のいのちの質問をしているが、彼はまじめな求道者であることはまちがいない。だからこそ、この物語の結末は残念に思う。

永遠のいのちの質問自体は、これが最初ではない。10章25節を見れば、律法の専門家が同じ永遠のいのちの質問をしている。「さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。『先生、何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか』」。この時は、主イエスを試す意図があった。しかし、この指導者の場合、主イエスをためす意図はない。ただ残念ながら、彼の質問からわかるように、「何をしたら」と、何かをすることによって永遠のいのちを得られるかのように思い違いしている。彼もユダヤ教徒なので、やはり戒律主義、律法主義である。自分の力、正しさに拠り頼んで永遠のいのちの獲得を考えている。

主イエスは男性の質問に対して、まず最初に、「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません」(19節)と反応する。「良い先生」という呼びかけがあったわけだが、まずこの呼びかけに対してクエスチョンを投げかける。男性は、イエスさまは神さまだと思って語りかけたわけではなく、あくまで目標となるような先生という意味で「良い」ということばを使ったのだと思う。それに対して、主イエスは「良い」があてはまるのは「神おひとり」だと言われる。これは、彼の律法主義を意識しての反応だろう。良い先生を見習って良い行いをして永遠のいのちを受け継ぐのだと。良くなること、良くあることがカギなのだと。だが、良い方が神おひとりであるならば、人間が良い行いによって永遠のいのちを得られるなどというのは不可能。つまり、私たちはどんなに良い行いを積んでも、9節にあったように、「自分は正しいと確信して」いても、真実は、ローマ人の手紙3章10節、「義人はいない、一人もいない」である。「良い」があてはまるのは神おひとり。だから、良い行いによって永遠のいのちを得られるかのように生きることの限界に気づかなければならないし、まず、自分は良くないことに気づかなければならない。その気づきがこの男性にはない。彼には律法を守ってきたという自認があるのみである。心が低くない。だから主イエスは、続いて具体的に律法に言及する中で、彼に真の気づきを与えようとされる。「戒めはあなたも知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。あなたの父と母を敬まえ』」(20節)。

主イエスが提示した律法は、モーセの十戒の後半部分である。ただ良く見ると、最後の第十戒の「むさぼってはならない」は省いている。彼は、この戒めを守ってはいないわけだが、主イエスは、その前の、殺してはならない、盗んではならない、姦淫してはならないといった、どちらかというと、目に見えるような、行動で判別できるような戒めを取り上げている。むさぼりという、心の中の欲望の罪は取り上げない。それは最後にとっておく。

行いによる義を求める律法主義の彼の反応は、「私は少年のころから、それらすべてを守ってきました」(21節)。結婚相手として最高の人物。主イエスも、彼がこう答えることはわかっていただろう。実際、次のように答える人は多いのではないかと思う。「私は法律をちゃんと守ってきました。人に後ろ指さされるようなことはした覚えはありません。親孝行も人並みにしてきました」。この男性は行いレベルで考えているので、「それらをすべて守ってきました」と答えることができる。主イエスは山上の説教では、憎しみも殺人と同じであること、情欲を抱いて人を見ることも姦淫と同じであることを語っておられたが、主イエスはここで、行いという同じ土俵に立ちながら、彼に迫っていく。

主イエスは「それらすべて守ってきました」と、自分の行いを前提に答えた彼に、やはり行いに関する話を続けて、彼に欠けがあることに気づかせる。「まだ一つ、あなたに欠けていることがあります。あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい」(22節)。主イエスはここで家財道具を売り払い、貧しい人に施すという良い行いを救いの条件にしているわけではない。二つのことがあり、一つは彼のお金に対する貪欲(むさぼり)を扱おうとしているということである。第十戒の「むさぼってはならない」を形で表すことができるのかと。彼はぐーの音も出ない境地に追い込まれることになる。もう一つは、富ではなく私のことを選択できるのか、というチャレンジを与えているということである。「どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません」(16章13節)。神の国に入るとは、神の国の王である主イエスを信じ、主イエスに従うことである。外面(そとづら)で戒律を守ってそれで良しではない。神の国に入れるか入れないかは主イエスとの人格関係の問題である。23節で、「彼はこれを聞いて、非常に悲しんだ」とある。彼は、主イエスと富との間の板挟みとなって非常に悲しんだ。永遠のいのちを諦めきれない思いがそうしたというよりも、富への執着、むさぼりが、このような心理状態を作り出してしまった。イエスさまに従うことができたらいいとは思うが、富は手放したくないという葛藤の中で、彼は富を選んだ。彼は平行箇所のマタイ19章22節を見ると、主イエスのもとから立ち去ったことがわかる。彼は主イエスを選び取れず、神の国を失ってしまったのだ。実は、彼と正反対の金持ちが19章の最初に登場する。金持ちの取税人ザアカイである。彼は、「私の財産の半分を貧しい人に施します。だれかから脅し取った物があれば四倍にして返します」と言って、主イエスについて行く者となる。彼の悔い改めと信仰はほんものであり、彼は子どものように神の国を受け入れた者であった。

私たちも子どものように神の国を受け入れる者たちでありたい。悪い意味での大人は、意地だ、プライドだ、といった頑固さ、高ぶりを身にまとい、自己義にしがみつき、自分の正しさを主張し、むろん、神に対して悔い改めることはしない。己が汚れてもろくて弱い、ただの土の器にすぎないことを認めようとしない。神の国を無心に求める心は失われ、お金、出世、地位、名誉、快適な生活、この世の楽しみ、そうしたことに心を奪われ、結果として藪を叩いて蛇を出すような災難を我が身に招いてしまう。そして神信頼を失った結果、これまで知識として身に着けて来たこの世の世界観、人生観、宗教に対する考えを高く評価し、聖書の教えを愚かだと断定してしまう。聖書が教える神の姿に同意せず、聖書の中心であるイエス・キリストにまことの神の姿を見ることができなくなる。だがイエス・キリストをまことの人となられたまことの神として認めようとせず、そして罪からの救い主として受け入れることができないのなら、どのような理屈を並べ立てても、どのような知識を並べ立てても、それらは空しい。神はこの世の知者の論議の空しさを知っている。それらは役に立たない。

金持ちの男性の場合、主イエスを「良い先生」と呼んだわけだが、主イエスを地上でナンバーワンの聖人君主とみなすだけでも足りない。主イエスはまことの神そのものの救い主であり、地上の富をすべて合わせたのにもまさるまことの富であり、永遠のいのちである。やがて定められた時に神の国の王として来臨され、永遠の御国を築いてくださるお方である。今日の物語に登場する指導者が二者択一で選び取った富は、基本、やがて朽ちていくモノにすぎない。よくよく考えたら、主イエス・キリストと比較の対象にもならない。キリストとこの世の富の比較は、ダイヤモンドとガラス玉程度の違いではない。比較の対象にもならない違いである。高ぶりと欲望で曇った目が鑑定を誤らせる。キリストに対する鑑定を誤り、子どものようであればできる、分かり切った単純な選択ができなくなるのである。ガラクタさえも宝にしてしまう。その先にあるのは嘆きであり、滅びである。

私たちは子どものような心でキリストに向かい、キリストに絶大な価値を認め、主イエス・キリストこそまことの神、唯一の救い主、永遠のいのち、まことの財産、このお方こそ私のすべてと、そのような告白を地で生きていきたいと思う。