ルカ18章9~14節「正しい人のうぬぼれ」

 

「うぬぼれ」は漢字にすると「自惚れ」で、自分に惚れると書く。意味は、「自分が周囲の人々よりもすぐれていると思い、得意になること」である。得意になることが、料理が上手とか、将棋が上手とか、そういうことなら微笑ましいが、自分の正しさを誇るとなるならどうなのだろうか。今日の箇所には、そういう人物が登場する。

今日の箇所も前回に続きたとえ話が納められているが、前回同様、ルカの福音書にしか納められていないたとえ話である。対象は、「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに」(9節)である。この人たちは、外見は真面目人間で法を犯したりしない。自分でも自分のことをランクが上の人間と思っている。「自分は正しいと確信して」で思い出したのが、16章15節のみことばである。「イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです』。これはパリサイ人たちに向けて語られたことばである。そして主イエスは、今日の箇所で「パリサイ人と取税人のたとえ」を語られる。やはり、パリサイ人が意識されている。

パリサイ人は、先祖から伝わった口伝律法を守ることにこだわっていた人たちだが、「パリサイ」という表現自体は紀元前2世紀辺りから出ている。「パリサイ」の語源は「分離」だろうと言われている。つまりパリサイ人は分離派、人と自分を分け隔てる人たち。悪人の仲間入りをしない、悪に手を染めないという意味での分離なら文句はないところだが、差別的な分離になってしまった。「自分たちは違う、他の人たちのようではない」と、自分を他の人たちから分け隔て、自分を正しいとし、他の人々を見下すに至ってしまった。傲慢の罪を宿した分離である。

パリサイ人たちが非常に軽蔑していたのが取税人である。取税人は同民族だが、支配国のローマの手先となって同民族から税金を取るという嫌われる職業だった。それだけでなく、税金を取る時、ピンはねして自分の懐に入れていたので、罪人の代表のように扱われ、差別され、嫌われていた。神から厳罰が下る罪深い対象として、パリサイ人たちは彼らとつきあうことは一切なかった。水と油のような関係で、文字通り分離していた。主イエスはと言うと、彼らと同様の罪を犯さなかったが、それどころか何一つ罪は犯さなかったが、彼らと食事のつきあいまでして、福音を伝えていた。主イエスが我らの模範である。では、たとえ話を見ていこう。

「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった」(10節)。「宮」とは神殿のことだが、エルサレムの神殿では、日毎に礼拝が行われていて、ユダヤ人たちは足を運んだ。夜明け時と午後3時の儀式の際に足を運んだようである。儀式では犠牲の子羊がほふられ、詩篇朗読が行われる。続いて神殿内で香をたく儀式が行われている間、神殿の外でユダヤ人たちは思い思いの祈りを捧げる。この記述が1章10節にある。「彼が香をたく間、外では大勢の民がみな祈っていた」。主イエスのたとえは、こうした光景を前提にしている可能性がある。

まず、パリサイ人の祈りである。「パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした」(11節前半)。「立って」と言われているが、祈りの時に立つというのはユダヤ人の普通の祈りの姿勢である。13節を見ればわかるように、取税人も立って祈っている。特徴的と言えば特徴的なのが、「心の中で」祈ったということである。ユダヤ人は普通、声に出して祈る。「心の中で」の直訳は「自分自身に」である。そこから声に出さないで祈ったと解釈され、「心の中で」という訳が生まれた。いずれにしろ、何か、自分、自分の、自分を主張する祈りになりそうな予感である。実際、自分を売り込むような祈り、自分の正しさを印象付けるような祈りとなっていく。

パリサイ人の祈りの中身を見ていこう(11節後半)。「神よ。・・・感謝します」と、感謝の祈りをしている。感謝の祈りは当時もされてきたことである。感謝することは良いことである。しかしながら、パリサイ人の祈りはほんとうの意味で感謝になっていない。感謝というのは、神がしてくださったことに対してするものである。「神さま、罪から守ってくださり感謝します」「神さま、十分の一を献げる恵みを下さり感謝します」。けれども、彼の感謝は他人との比較から生まれたもの。他人と比較し、自分を持ち上げるためのものでしかない。本質は自分を誇示するための祈りで感謝になっていない。祈りは原文を見ると、「神よ、感謝します。私が他の人たちのようではないことを」で始まる。他の人たちのようではないことを感謝する。ある学者は、「ほかの人たち」に当たる原語は「地の民」、すなわちパリサイ人のような律法厳守の人々から蔑まれている不義なる一般大衆である、と説明している。一般大衆と自分を比較しての自分を誇る祈りとなっている。事実上、感謝の祈りではなく、自分の正しさを誇る祈りである。うぬぼれの独白と言っても過言ではない。

パリサイ人の目の届くところには、取税人がいたようである。取税人にちらっと目をやってから、11節後半にあるように、「あるいは、この取税人のようではないことを感謝します」とも祈った。彼は取税人を自己宣伝のために使っているにすぎない。彼の祈りは、祈りにもなっていない。当時の祈りは三つのタイプがあったようである。第一は、罪の告白。第二は、豊かな恵みを受けたことへの感謝。第三は、自分自身あるいは他の人々のための嘆願。彼は自分の罪を告白しているわけではない。神の恵みを神に感謝しているわけでもない。そして取税人に対しては、とりなしをしているのではなく、ただの蔑みがあるのみである。やっていることは、祈りという手段を使って、他者と自分を比較し、自分を神さまに売り込むこと、自分の正しさを神さまに印象付けようとすること。そもそも、他者との比較なんて意味がない。皆、神の前に罪人であるわけだから。聖なる神の前に一人まっすぐ立つ姿勢が必要なわけである。

彼の正しさのリストは、11,12節にある。「奪い取る者」でないこと…だが実際に、むさぼりの罪は犯さなかったのだろうか。心の中でむさぼることはなかったのだろうか。「不正な者」でないこと…だが、いつも正直でありえただろうか。「姦淫する者」でないこと…だが心の中で姦淫の罪を犯さなかっただろうか。「私は週に二度断食をし」…律法で要求している断食は年に一度だけである(レビ記16章29,30節)。ユダヤ人は加えて、戦争、ききん、疫病といった機会に断食してきた。さらに加えて、この時代のパリサイ人たちは、月曜日と木曜日に断食するようになっていた。人一倍も二倍もやっているぞと、過剰とも思える断食行為が正しさの裏付けとなるのだろうか。「自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げて」いる…「すべてのものから」という表現からわかるように、自分は完璧です、という売り込みになっている。彼らが誇示しているものは外面の行いである。自分たちの内面には余りにも無頓着であった。最初に読んだルカ16章15節のみことばに、パリサイ人たちに向けられた主イエスのことばで、「神はあなたがたの心をご存じです」とあった。この時、主イエスは、彼らの心の中にあるうぬぼれを意識しておられた。

次に、取税人の祈りを見よう。「一方、取税人は遠く離れて立ち」(13節前半a)。神殿から遠く離れて立ち、ということである。パリサイ人からは見える位置であったようだが、神殿から遠く離れて立った。自分のような罪深い者が神の前に近づくことはできないという罪意識を読み取ることができる。

「目を天に向けようともせず」(13節前半b)。目を天に向ける、天を見上げて祈る、というのもユダヤ人の普通の祈りの姿勢であった。9章16節では、天を見上げて祈る主イエスの記述がある。この祈りの姿勢が取れない。それどころか、「自分の胸をたたいて言った」(13節前半c)。自分の胸をたたくというしぐさに、主の十字架刑の光景を思い起こす。「また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、これらの出来事を見て、悲しみのあまり胸をたたきながら帰って行った」(23章48節)。この場面からもわかるように、胸をたたくというのは、非常な悲しみ、嘆きを表すジェスチャーである。取税人の場合は、なんて自分は愚かな罪人なのだと、悔恨の情を表すものだろう。

彼の祈りのことばは、パリサイ人と違って短い。「神様、罪人の私をあわれんでください」(13節後半)。「あわれんでください」という嘆願のことば自体は良く見聞きするものだが、実は、この箇所で「あわれんでください」と訳されていることば<ヒラスコマイ>は、以外にも、この箇所とへブル2章17節で使われているだけである(「宥めがされる」と訳出)。原語は「宥める」「償う」「贖う」という意味のことばである。この場合、罪から来る怒りを宥めること、罪を償うこと、罪を贖うことを意味する。だから、「神よ、私を贖ってください」と訳す聖書もある。パリサイ人と取税人が公の礼拝の時刻に足を運び、祈りを捧げたとするならば、神殿では犠牲として傷なき子羊が献げられていた。礼拝者たちはそれを見た。子羊が流す血も見ていた。それは罪を償って神の御怒りを宥めるための犠牲である。罪の贖いのための犠牲である。それは罪に対する神の御怒りを宥め、神との和解をもたらすための犠牲である。実は、「宥める」「償う」「贖う」を意味する<ヒラスコマイ>は、名詞形では「宥めのささげ物」と訳されており、イエス・キリストに適用されている。「神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました」(ローマ3章25節)。「この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体のための宥めのささげ物です」(第一ヨハネ2章2節)。「宥めのささげ物」は「罪の贖いのささげ物」とも訳せる。私たちは、「神様、罪人の私をあわれんでください」という取税人の祈りに、「私を罪から贖ってください」という心の叫びを読み取るべきである。

さて、主イエスの結論はどうだろうか。「あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです」(14節)。義と認められたのは、パリサイ人ではなく、取税人のほうだという。パリサイ人はこれを知ったら、どうして私ではなく、あの取税人のほうなのですかと、顔を赤くして抗議したかもしれない。義と認めるとは、正しいと認めるということだが、自分で自分を正しいと認めたパリサイ人が義と認められなくて、自分の罪深さを認めたパリサイ人が義と認められた。主イエスはこのことを14節後半で、へりくだれるかどうかの問題であることを教えている。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです」。パリサイ人は他者との比較の中で、自分を高くしていた。しかし彼らの人よりすぐれた正しさというものは、律法主義的な義にすぎなかった。形式的で外面的な義である。自分の心の中までは査定しない。律法主義的な義は、私は煙草も吸わない、お酒も飲まない、怪しいところに出入りしない、もちろん、警察のお世話にはなっていない、税金もきちんと納めている、そんな風にして私は真ん中くらいというよりも高めだと自分で自分を査定してしまう。自分の弱さ、愚かさは、人前でも神の前でも認めようとしない。

この取税人はどうだろうか。パリサイ人とは反対に、無律法主義的に、不道徳に生きてきたかもしれない。実際、そうであったろう。だが、問題は、無律法主義的に生きて来た、律法主義的に生きて来たではなく、心を低くする悔い改めの姿勢があるかないかである。この取税人は、あの時あんな罪を犯した、ピンはねを何回やったと、それで自分を低くしているというよりも、自分という全存在は罪深い、私は聖なる神の前に罪のかたまりにすぎない、という罪認識に至ったのだと思う。だからもう、「あわれんでください」と言うよりほかはない。主イエスは、パリサイ人たちに向けて語られたたとえで、取税人を意識した「放蕩息子のたとえ」を15章で語られた。その時の放蕩息子のセリフに、「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」(15章18,19節)とある。これも悔い改めて自分を低くした一例である。私たちも、見栄や余計なプライドは捨てて、人間的な義の鎧は脱ぎ去って、神の前に心を低くしたい。

最後に、正しくない者がどうして義と認められるのかを確認しておこう。取税人は自他ともに正しくないことを認めていた存在であった。いくら心を低くしたと言っても、正しくない者を正しいと認めて良いのか、という疑問を持つわけであるが、私たちは、やはりそこに、正しくない者が義と認められるのは、神の子羊イエス・キリストの犠牲があってこそのことであることに気づきたいと思う。十字架の上でキリストが私たちの代わりに罪とされた。そして悔い改めと信仰をもって十字架を仰ぐ私たちにキリストの義が与えられる。私たちに与えられる義とは、私たちが勝ち取ったものではなく、もともとはキリストの義であり、それはただただ神の恵みである。私たちはこの素晴らしい恵みに感謝し、いつも十字架のもとに額づく者たちでありたい。そこは自分の正しさを誇る場所、自分の正しさを主張する場所ではないのである。