今日の教えはルカの福音書にのみある祈りの教えである。ルカの福音書は祈りの記事が多い。主イエスの祈りの場面や主イエスの祈りの教えが他の福音書よりも多い。祈りの福音書と言われる所以である。さて、今日の箇所では何を教えられたいのだろうか。「いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された」(1節)。祈ることをあきらめてしまう者たちがいる。ネバーギブアップの精神で祈ることを教えているようである。あきらめないで祈り続けよと。振り返ってみると、あきらめないでしつこく祈り求めることは、ルカ11章5~13節で教えられていた。そこでは「真夜中に友人にパンを借りにいくたとえ」が語られた。「友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう」と主イエスは言われ、まして天の父はどうなのだろうかと、あきらめないで天の父に求め続けることを教えられた。「求めなさい。探しなさい。たたきなさい」と。そうすれば必要なものは与えられると。
今日の祈りの教えは、それと似ているようで、実はちょっと違う。文脈を見てみると、前回に続き、終末の時代が意識されている。前回の17章において、主イエスは弟子たちに対してご自身の再びの来臨、すなわち再臨の教えを語られた(17章22~37節)。主イエスはご自身が再臨される日を、「人の子の日」とか「人の子の現れる日」という表現を取られていた(17章22節,30節)。この再臨については今日の箇所でも言及されている。18章の8節後半では、「だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」とある。「人の子が来るとき」、すなわちキリストの再臨の時ということである。その時、信仰に満ち満ちている信仰者は少ないらしい。この終末の時代、次のように思う信仰者が増えるだろう。「神が善ならば、なぜいつまで悪を放っておかれるのか。神が善ならば、なぜいつまで悪を裁かないでいるのか。ほんとうに神は正義の神なのか」。「この世は悪くなっていくばかりで、神は悪を放置しているように感じる。神を信じている者たちへの迫害も止まない。神はいったい何をしておられるのか。悪がのさばるばかりだ。神の国が来るなんて信じられない」。こうして、神は何もしてくれないと不満が募ることになる。神への信頼は薄れていく。この世が悪くなっていく姿に心を奪われるだけではなく、自分たちの迫害の現状に心奪われることになる。失望と落胆が広がることになる。自暴自棄になる者もいるだろう。そうなると、祈っても何も変わらない、事態は悪くなるばかりだと、祈ることをあきらめてしまうことになる。信仰なんて何の役に立つんだ、とつぶやく者も出て来るだろう。全くの不信仰になってしまうと、神は正義の神なのだという確信は持てなくなり、主の再臨や神の国の到来さえも信じられなくなるだろう。神は万物を創造し、万物を支配し、神の国の到来を約束してくださっておられるわけだが、その神が沈黙しているように感じてしまうわけである。神は我々に無関心なのか、悪に対して無力なのか、神は正義の神というのはうそなのか、我々を見捨てているのか、そんな憶測が広がるわけである。信仰とは言い換えると「信頼」ということだが、神への信頼を失ってしまうわけである。そうなると、神を仰ぐのではなく悲観的になって下向いて希望ゼロで生きることになるか、前回の箇所にあったように、ノアやソドムの時代の人々のように世俗のことに没頭して、そこに楽しみを見い出そうとするようになるだろう。主イエスは再臨前にこうした信者が増えることを知って、ここで警告している。そして、不正な裁判官のたとえを通して、神はあくまで正義の神であり、擁護してくださるお方だから、失望しないで、信頼して祈り続けることを教えたいのである。では、たとえを見ていこう。
「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた」(2節)。自分を神の上に位置づける尊大な人物で、正義感も愛のかけらもないエゴイストである。裁判官としては最低の人物である。だが裁判官という職務のゆえに、彼の人格に関係なく、争い事があれば裁きをする責任がある。
「その町に一人のやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私を訴える者をさばいて、私を守ってください』と言っていた」(3節)。「やもめ」は典型的な社会の弱者である。それゆえに、旧約聖書は弱者であるやもめを擁護するように教えている。申命記にはやもめに関する記述が多いが、最初と最後の記述を読んでみよう。「(主は)みなしごや、やもめのためにさばきを行い、寄留者を愛して、これに食物と衣服を与えられる」(申命記10章18節)。「寄留者、孤児、やもめのさばきを曲げる者はのろわれる」(申命記27章19節)。こうした教えにのっとり、裁判官は、やもめのために公正な裁き、正義の裁きをする責任があった。たとえのやもめの場合、「私を訴える者をさばいて、私を守ってください」と主張しているので、彼女は不当な扱いを受けていたようである。彼女はこの裁判官に自分の主張の正しさを確証してくれることを願った。そして公正が施されることを願った。すなわち、正義の裁判を願った。そうでないと、彼女は自分の権利を奪われて、社会的にますます厳しい立場に立たされ、生活はますます容易ではなくなる。出エジプト記では次のようにも言われている。「やもめ、みなしごはみな、苦しめてはならない。もしも、あなたがその人たちを苦しめ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶことがあれば、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる」(出エジプト記22章22,23節)。裁判官は、この主のお心を受けとめて裁判する義務がある。だが、3節の文体を見ると、この裁判官は、やもめの苦しみにも主のおこころにも心を留めることはなく、やもめの訴え、主張に一発で耳を傾けたのではないことがわかる。「彼のところへやって来ては」を、ある訳は「何度も何度も彼のところへやってきては」と訳している(TCNT)。つまりは、この裁判官は彼女の訴えを突き放し続けたのである。だが、それであきらめるようなやもめではなかった。彼女は一度、裁判官のところへ出かけ、彼女は再び…そしてまた…さらにもう一度と、繰り返し繰り返し足を運んだ。しつように足を運んだ。あきらめることを決してしなかった。このやもめは、「いつでも祈るべきで、失望してはいけないこと」を教える良き模範である。
4節前半を見れば、「この裁判官はしばらく取り合わなかったが」とある。ひどい裁判官である。彼女に対して何の同情もみられない。無下に追い返し続けた。彼女のために裁いてやっても一文の足しにもならないから相手にしたくないということもあったはずである。職務怠慢もいいところである。裁判官の資格はない。6節冒頭で、彼は「不正な裁判官」と言われているので、賄賂で裁判を曲げるような裁判官であっただろう。自分の損得が裁判の基準になっていた。神の律法にかなう裁きをしなければならないとか、民衆の権利を守る正しい裁きをしようとか、そういう精神はない。2節で言われているように、ほんとうに「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」であった。いわゆる「ろくでなし」である。ところが、彼はなぜか重い腰を上げる。
「後になって心の中で考えた。『私は神をも恐れず、人を人とも思わないが、このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよう。そうでないと、ひっきりなしにやって来て、私は疲れ果ててしまう』(4節続き~5節)。傍若無人で愛のかけらもなく、正義のセの字もない裁判官。彼の心を動かし、行動に移させたのは、やもめの「うるささ」、ひっきりなしにやってくる「しつこさ」。「私は疲れ果ててしまう」は、欄外注の別訳で「私の顔をたたき続けることになる」とある。この原文の表現は、もともとはボクシングやレスリングのことばであり、相手の顔を殴って目の下に隈を作らせる、という表現である。顔をたたき続けられたらどうなるだろうか。何度も顔を打たれ、フラフラになり、ダウン寸前の状態が目に浮かぶ。この裁判官は、何度も何度も足を運び訴えるやもめのしつこさにやられた。疲れた、もうかなわないと。かんべんしてくれと。そしてやもめの願いを受け入れることになる。
「主は言われた。『不正な裁判官が言っていることを聞きなさい。まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。』」(6,7節)。「不正な裁判官」は「不義の裁判官」と訳せる。それは「正義の裁判官」である神との対比である。ろくでなしの不義の裁判官ですら、やもめの願いを聞き入れたのだから、まして正義の神は、信者たちの願いを聞き入れないだろうか、いや聞き入れてくださる、という論法である。正義の神が聞き入れてくださらないはずはないという論法である。あきらめず祈り続けているのならば、神の正義は実現するという確信を与えるための論法である。終末の時代を生きる私たちの祈りを励ますための論法になっている。
「あなたがたに言いますが、神は彼らのため、速やかにさばきを行ってくださいます」(8節前半)。「速やかに」と黙示録22章12節には、再臨の約束として、「見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る」とある。「見よ、わたしはすぐに来る」と言われた主の再臨の時が、正義の審判、正義の裁きの時となる。
だが、地上に生きる信仰者にとって、主の再臨は遅いと感じる。地上では嘆かわしい現状が続く。悪はのさばったままで、時代はますます暗くなる一方である。キリスト者への迫害も止まない。反キリスト的勢力が幅を利かせる。神は何をしておられるのか、神の正義は印刷物だけの話なのか。なぜ神は沈黙しているのか。神はいるのかいないのか。神は無力なのか。神は全能で正義の神ではないのか。神は愛の神ではないのか。神が善であるならば、なぜ悪を放っておかれるのか。災いも繰り返されるばかりだ。このように、色々な声が聞かれることになる。
主イエスの表現では、「だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」(8節後半)という時代となる。終末の時代は、信仰者が試みられる時代である。練りきよめられる時代と言ってよいだろう。信仰の真価が問われる時代である。ご利益信仰的にどうにか神につながっているのでしかない人たちは危うい。終末の時代、名目上のクリスチャンの仮面ははがれることになってしまう。「はたして地上に信仰が見られるでしょうか」の「信仰」には原語では定冠詞がついている。すなわち「その信仰」ということになり、特定の信仰を指している。では、「その信仰」とはどういう信仰なのだろうか。「その信仰」とは、「ひっきりなしにやって来て」「昼も夜も神に叫び求めている」ような信仰のことである。神は正しい裁きを速やかにしてくださると信じ、祈り続ける信仰である。もう一度言う。神は正しい裁きを速やかにしてくださると信じ、祈り続ける信仰である。ちょっと自分の身に悪いことが起きるだけで、信仰そのものを捨ててしまうような人たちもいる。そうでなくとも、神が信頼できなくなって、礼拝からもみことばからも祈りからも遠ざかる人々がいる。
私たちは次の三つのことを覚えておきたい。第一に、私たちはキリストの十字架によって罪赦され、永遠の滅びから救われた者であるということ。永遠の救いを受けたのだということ。このような驚くべき恵みを受けたのだということを心に叩き込んでおけば、自分のことに関しては、「神はあれしてくれない、これしてくれない」と不平を言うに値しないことがわかる。地上で受ける苦難は永遠の救いを思えば、瑣末なことでしかない。だいいち、ひとり子を私たちの身代わりに十字架につけてまでして私たちを救おうとしてくださった愛の神が、私たちを見捨てるわけはない。第二に、神は選びの民のために必ずや正しい裁きをしてくださるということ。7節で信仰者たちのことが「選ばれた者たち」と言われている。「選ばれた者たち」、すなわち選びの民とは、神が主権をもって救いに定められた民のこと。私たちが救われるというのは、永遠の昔からの神の御計画であった。エペソ1章4節には、「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び」とある。そうであるならば、神は選びの民をまちがいなく擁護してくださるはずである。主が再臨されるその時、正しい裁きが行われ、私たちは神の子としての報いを受ける。だから、せっかちな判断は止めよう。第三に、ペテロが言っているように、「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のよう」(第二ペテロ3章8節)であるということ。私たちは主の再臨が遅いと思っても、主の御前ではそうではない。主は間もなく来臨され、正義の裁きをされ、永遠の御国を実現してくださる。その永遠の長さと比較すると、この地上の歴史は一瞬である。神はご計画をもって時を定めておられる。地上に住む信仰者は、神への信頼とともに、祈りと忍耐が要される。だから、今の現実にしか目を留めないでいてはならない。希望の未来があることを信じ続けなければならない。夜明けは必ずやってくる。夜明け前は闇が深くなる。今はそういう時代である。
私たちに求められているのは、失望しないで祈り続けることである。黙示録を見ると、聖徒の祈りが神の前に立ち上る「香」として表現されていることがわかる。「巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老たちは子羊の前にひれ伏した。彼らはそれぞれ、竪琴と、香に満ちた金の鉢を持っていた。香は聖徒たちの祈りであった」(5章8節)。「また、別の御使いが来て、金の香炉を持って、祭壇のそばに立った。すると、たくさんの香が彼に与えられた。すべての聖徒たちの祈りに添えて、御座の前にある金の祭壇の上で献げるためであった。香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。それから御使いは、その香炉を取り、それを祭壇の火で満たしてから地に投げつけた。すると、雷鳴と声がとどろき、稲妻がひらめき、地震が起こった」(8章3~5節)。この後、地上に裁きが始まる。七人の御使いがラッパを順次吹き鳴らして、裁きが始まっていく。この裁きにおいて、聖徒たちの祈りの香の描写が結びつけられているのが印象的である。神は聖徒たちの祈りを無視していない。
これまで、「主よ。いつまでですか」という叫びが全世界で挙げられてきただろう。「いつまでこのような状態をがまんしていなければならないのですか」。「いつまで悪に耐えなければならないのですか」。「いつまでこのような世の中が続くのですか」。「いつになったら主は来てくださるのですか」。「いつになったらあなたは正しい裁きをしてくださるのですか」。「御国はいつ実現するのですか」。そして、「主よ、来てください」「正しい裁きをしてください」という祈りがささげられてきただろう。主はそうした叫びや、祈りの一つ一つに耳を塞いで来られたわけではない。その叫び、訴え、嘆願の一つ一つを聞いて来られた。主は選ばれた者たちを愛したもう正義の神である。すべてには時がある。だから、信頼して、失望しないで祈り続ける信仰を発揮していこう。それが私たち一人ひとりへの主イエスの願いである。