「終末の時代」と聞くと、「世も末か」といった否定的なイメージを抱く人が多いと思うが、私たちにとっては、希望の光が射す時代でもある。つまりは、キリストが再臨し、神の国が完成するということである。当時の人たちも、20節の「神の国はいつ来るのか」という質問からわかるように、神の国を待ち望んでいた。キリスト、すなわちメシアが来臨し、神の国が来るということを待ち望んでいた。今日の教えは、そうしたことが背景としてある。

当時のユダヤ人たちが待ち望んでいた神の国とは政治的王国である。他国の支配を受け続けて来たユダヤ人たちは、独立したユダヤ王国の再興を待ち望んでいたわけである。それが、彼らにとっての神の国であった。いわゆる神の国を民族国家というレベルで捉えていた。しかし、キリストが教える神の国とはそうしたレベルを超えている。以前、お話したように、「神の国」の「国」という原語は「王の支配」という概念があることばである。主イエスは21節において、パリサイ人たちに向かって、「神の国はいつ来るのか」という質問に対して、「王であるわたしの支配はすでに始まった」と言っている。そう、キリストの来臨によって、神の国の時代は始まった。

21節の「見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです」は少し説明が必要である。「あるのです」は未来形ではなく現在形である。神の国は、今すでにある、と言われている。どこに?「あなたがたのただ中に」。これをどう解するのかが一つの難問とされてきた。「ただ中に」は「内側に」と訳せることから(マタイ23章26節)、「ただ中に」を人の内側の「心」と解して、「神の国はあなたがたの心の中にあるのです」という解釈もされてきた。ナルホドとも思う。地上に打ち立てられた王国ではなく、キリストを信じ受け入れ、キリストに支配された心こそ神の国であると。それは一つの真実かもしれないが、けれども、ここで主イエスのことばは誰に投げかけられているのだろうか。悔い改めていないパリサイ人たちに対してである。主イエスをメシアと認めないパリサイ人たちに対してである。その彼らの心の中に神の国が来ているわけはない。「あなたがたのただ中に」というのは、別の表現をとれば、「あなたがたの間に」「あなたがたのいるところに」ということになるだろう。今、パリサイ人たちの面前にはキリストがおられる。キリストがおられるところに神の国はある。神の国はキリストの出現と福音宣教によって始まった。神の国は、今すでにある。神の国の王、キリストの支配はすでに始まった。

神の国はやがて成長を遂げ、イスラエルどころか、全世界が刷新されることになる。偶像は消え去り、罪は消え去り、死さえも消え去る。王はただ一人となり、主の御名だけがあがめられる世界が実現する。それが、最終的に待ち望む神の国の完成の時である(黙示録21,22章)。しかし、それまでにまだ間がある。神の国の完成はいつ実現するのか。その転機となるのが、キリストの再臨である。キリストは22節以降で、ご自身の再臨について教えておられる。

この再臨の教えにおいて、「人の子」という表現が頻繁に登場する。最初は22節である。「人の子」とはユダヤ人が知っているメシアの別称で、ダニエル7章13,14節で使われている。「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。この方に主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない」(ダニエル7章13,14節)。これは世の終わりにメシアが現れるという預言であり、永遠の神の国が訪れるという預言である。すなわち、キリストが再臨し、神の国が完成するという預言である。

では、キリストはいつどのようなかたちで再臨されるのだろうか。五つのポイントで見ていこう。①まだ、しばらくの時を要する(22節)。「人の子の日」とは、明らかにキリストの再臨の日のことである。それを「見たいと願っても、見られない日が来ます」ということは、これは後に弟子たちが、再臨の日が早く来てほしいと切望するけれども、なかなか来てくれないことを意味している。弟子たちは苦しみや試練の中で、一日も早いキリストの再臨を願う。願うけれども、彼らの願うように早くはキリストは来てくださらない。遅く感じるのである。再臨という神の定めの日までまだ時間がある。弟子たちは忍耐を試されることになる。それは私たちも同じである。

②すべての人に見られるかたちで来られる(23,24節)。「人々は『見よ。あそこだ』とか、『見よ。ここだ』と言いますが、行ってはいけません。追いかけてもいけません」(23節)。「見よ。再臨されたキリストがあそこにいる。ここにいる」という情報に惑わされてはならない。キリストがすでに来られたかのように言っている人たちがいても、それを信じてはならない。なぜなら、キリストはすべての人に見られるようなかたちで来られるからである。「人の子の日、人の子は、稲妻がひらめいて天の端から天の端まで光るのと、ちょうど同じようになります」(24節)。稲妻が突如、燦然と輝き、空の端から端までがまぶしく照らされるように、誰の目にもわかるかたちで来る。あそこに、ここにと、一部の人しかわからないようなかたちで来られるのではない。現在、キリストはすでに再臨されており、公の場に出るまである場所で待機しておられるといった情報を流しているグループもあるが、信じるに値しない。またエホバの証人は、見えないかたちですでに空中に再臨しておられると主張するが、それもうそである。キリストの初臨、すなわちキリスト誕生の時は、羊飼いたちをはじめ、本当に一部の人たちにしかわからなかったという事実がある。けれどもキリストの再臨の時はそうではない。全世界の人々の目に留まるビッグニュースとなる。

③キリストの受難が先立つ(25節)。キリストの十字架の苦しみが再臨に先行するということである。「この時代の人々に捨てられなければなりません」を聞いて、すんなり理解できた弟子はいなかっただろう。だれも、メシアの死、キリストの十字架の死を予測していなかった。だが、メシアが受難のメシアとなり、全人類の身代わりとなり、罪の贖いを成し遂げてから再びの来臨ということが神の御計画であった。

④世の退廃が進み、突然来られる(26~33節)。主イエスはこのことを教えるのに、ノアの時代に起こったことと、ロトの時代に起こったことを例として取り上げておられる。両方共通点があり、世俗化、堕落が蔓延し、突如の裁きが訪れたということであった。ノアの時代の人々は洪水によって滅びた(創世記6~8章)。ノアは救いの箱舟を神の命令によって造り、ノアは神の審判の日が近いと人々に警告を与えたが、そんなことが起こるはずはないと人々は耳を貸すことなく、世俗の事柄に没頭し、想定外の突然の洪水で滅んでしまった。ロトの時代の人々も世俗の事柄に没頭していて、罪にふけっていたが、突然の火と硫黄によって滅んでしまった(創世記19章)。具体的に裁きが起こったその場所は、死海の近郊にあるソドムという場所であるが、考古学者や科学者たちが、突然滅んだという証拠を突き止めている。昨年見たNHKのBSでは、検証によって隕石落下も否定できないことを伝えていた。いずれにしろ、それは偶然的な災難ではない。ユダの手紙では、ソドムの住民に関して、「ソドムとゴモラ、および周辺の町々も、淫行にふけって不自然な肉欲を追い求めたため、永遠の火の刑罰を受けて、見せしめにされています」(7節)と記している。ロトの家族は御使いの警告を受けて、ソドムを脱出するが、ロトの妻は「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない」(創世記19章17節)と警告を与えられていたにもかかわらず、ソドムでの生活や家財道具への未練からか、うしろを振り返ってしまう。救いの途上にあったと言える彼女であったが、彼女はソドムの住民の価値観から抜けきれなかったのか、豊かな生活を惜しんだのか、後ろ髪を引かれるようにしてうしろを振り返り、救いを全うできなかった。創世記の講解メッセージで述べたように、「うしろを振り返る」というのは、原語を見ると、首の角度の問題ではないことがわかる。それは物事に執着する行為である。彼女の心は磁石で吸い付けられるようにして、ソドムに向かってしまった。それでうしろを振り返ったのである。それで彼女は塩の柱になってしまう。ソドムは死海の近くにあり、岩塩の層がある。岩塩の層の上には硫黄を含んだ泥炭の層がある。それはガス成分を豊富に含んでいる。ここに何らかの衝撃が加わり、着火すれば、聖書が記述している災難に遭う。

ノアの時代とロトの時代の描写として、同じような表現が使われている(27,28節)。「人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」「人々は食べたり飲んだり、売ったり買ったり」。こういう行動が悪いのだろうか。これらの行為自体は何も悪くない。ただ、彼らのたましいはもっぱら、これらのことに捕らわれていた。食べたり飲んだり、これらのこと自体が生きる目的になってしまっていた。そして神への信仰とか、祈りとか、礼拝とか、霊的なことに無関心となり、世俗のことに没頭するばかりであった。これは現代も同じである。

こうした日常における突然の裁きは終わりの日にも起こる。「人の子が現れる日にも、同じことが起こります」(30節)。キリストの再臨には裁きが伴う。キリストを待ち望む者にとっては再臨は救いの日であるが、そうでない者たちにとっては裁きとなる。そしてこの日は、ノアの日、ロトの日と同じように突然に来る。キリストの再臨の日は、持ち物や財産を取りに行っている暇もない。もしくは、逃げる暇さえないかもしれない(31節)。今、防災への関心が高まっている時代ではあるが、人々は災害の備え、死去する前の備え、色々な備えに精を出しても、それだけでは足りない。再臨の備えというのは霊的な備えだからである。キリストを待ち望む姿勢の問題だからである。だが、ある方は言われる。「今のキリスト者は、キリストの再臨を待望していないような生活をしている。それはあたかも、この地上で永遠に暮らしたいかのようだ」。私たちはほんとうにキリストを愛しているだろうか。キリストと相まみえる日を待望しているだろうか。神の国を待ち望んでいるだろうか。もし地上で自分の欲望を満たすことに関心の比重が傾いているなら、危険信号が点滅している。

「ロトの妻のことを思い出しなさい。自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます」(32,33節)。ロトの妻はどうして滅んでしまったのか考えてみよ、という教えである。ソドムに後ろ髪を引かれた彼女の結末は私たちへの警告である。33節では「自分のいのちを救おうと努める者は」とあるが、ここでは、神ではなく自分が大事の利己主義、自分一番の自己愛に生きること、自分の世俗愛を満たそうとすることが言われている。それが「自分のいのちを救おうと努める」姿であり、結局、それが自分のいのちを失うことなる。だが、私ではなく神が第一の姿勢で、自分を捨て、自分の十字架を負い、世に対して死に、キリストをすべてにまさって愛する者のいのちは守られることになる。これが神の国の原則である。

⑤キリスト者の携挙が伴う(34~37節)。「携挙」はキリスト教用語となっているが、「携え挙げる」と書く。天に携え挙げられることである。34節は夜の描写である。「あなたがたに言いますが、その夜、同じ寝床で人が二人寝ていると、一人は取られ、もう一人は残されます」(34節)。「同じ寝床で人が二人寝ていると」というのは、男二人で寝ていると可能性と、夫と妻が寝ている可能性がある。いずれにしろ、取られるのは片方となる。それに対して、35節は日中の描写と言って良い。「同じところで臼をひいている女が二人いると、一人は取られ、もう一人は残されます」(35節)。キリストの再臨というのは一度限りの出来事だが、ある地域では夜だが、他の地域ではそうではなくなる。例えばイギリスで夜の時間帯、日本は昼間である。だからこれは合理的な説明である。共通していることは、片方が取られるということである。すなわち、片方が天に携え挙げられる、天に救い入れられるということである。

弟子たちは、こうしたことがどこで起きるのかと問うている。「弟子たちが、『主よ、それはどこで起こるのですか』と言うと、イエスは彼らに言われた。『死体のあるところ、そこには禿鷹が集まります』(37節)。これをどう解釈したら良いのか、難しい問題ではある。禿鷹は猛禽類で死肉を食べる鳥である。文脈を見れば、世の終わりの裁きの描写であることがわかる。主イエスは、霊的に死んでいる人のところに、神の裁きが突如襲うということを禿鷹で言い表したいのだろうか。いや、主イエスの禿鷹の格言は、もっと直接的に受け取って良いようにも思う。世の終わりに人類は二つに分けられる。天に携え挙げられる人と地上に取り残される人、救われる人と裁かれる人。裁かれた人たちのからだは死体となって累々と横たわっている。主が再び来られる時、大規模の、広範囲の、地球全体の裁きがあるだろう。死体が累々と横たわっている光景が思い浮かぶ。そこに禿鷹といった猛禽類が群がって、食べきれないでいる光景が思い浮かぶ。いずれ、悲惨で凄惨な光景しかイメージできない。主イエスはここできれいごとを言われたいのではないだろう。主イエスは私たちに警告を与えておられる。ノアの時代の人々、ロトの時代の人々のようにならないことを願って、警告を与えておられる。

22節で明らかなように、再臨の教えは弟子たちに向けて語られている。「イエスは弟子たちに言われた」と冒頭で言われている。ならば、再臨によってキリストを信じる者に与えられる救いの素晴らしさに焦点を当てて語ってもよさそうなものを、身を引き締める教えとなっている。「ロトの妻のことを思い出しなさい」と、ルカの福音書独特の警告文もある。ロトの妻は、いわば半端クリスチャンというか、神の国とこの世の境界線上でふらふらしているような不安定な信仰者であった。世と世の欲に対して、きわめて免疫力が低い人物。そして、その感染力に負けてしまった。私たちはどうだろうか。私たちは、自分は大丈夫だなどという過信を持つのは止め、自分の弱さを素直に認め、誘惑からの守りを祈りつつ、すべてのものにまさって主イエスを愛することを心がけていこう。そしてこの終末の時代、使徒ヨハネが黙示録の最後で言ったように、主の再臨の約束に応答して、「アーメン。主イエスよ、来てください」と言う者たちでありたいと願う。「アーメン。主イエスよ、来てください」と、私たちも主の再臨を待ち望もう。