神は未来に何が起こるかご存知であられても、人間はそうではない。未来を十分に予測できない。この21世紀、これから私たちの身に何が起こるのか、どういうことになるのか、推測するのは難しい。未来の不確実性のゆえに、想定外な出来事に対する備えを怠ってしまう。また、どうなるのだろうと思い煩ったり、失敗を恐れてチャレンジ精神を失ったりする。手をこまねいて何もできなかったり、前に進めなかったりする。伝道者の書11章では、不確実な未来を生き抜く知恵を提供している。
 「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう」(1節)。「パン」は中東の平たくて硬いパン、ピタであると思われる。ピタはイタリアのピザのルーツであるとも言われている。ここで言いたいことは何となくわかるような気がする。けれども難しいといえば難しい。普通に読めば、パンを水の上に投げるなんてもったいない、と感じてしまう。だから、「パンを水の上に投げる」を、全く無意味で無駄なことに見えることをすることのたとえという解釈がある。無意味で無駄に思えることでも予期せぬ結果をもたらすのだと採る。「パンを水の上に投げる」を魚に餌を与える行為という解釈もある。漁獲高を期待するならそうせよととる。ユダヤの伝統的解釈では、「パン」を慈善とか親切の比喩と解釈し、慈善行為への勧めととる。その行為は思わぬ報いをもたらすととる。けれども、一番ありえる解釈は、海外貿易ということが「パンを水の上に投げる」で表わされているということ。「パン」は商品で、「水」は大洋(大きな海)を指す。ソロモン王の時代は海外貿易が盛んだった。それによって収益はもたらされていた。だが、だれでもが海外貿易をするわけではないので、ここで伝えたいことは、文字通りの海外貿易の勧めではなくて、何もしなかったら結果は生まれない、資本を失うことを恐れて投資しなかったら何も得られない、大胆さをもたなかったら成功しない、だから失敗を恐れないで投資し、チャレンジするのだということであると思う。私たちは金銭を投資するにとどまらず、人それぞれ能力や賜物という個性的な資本も神さまからいただいているので、それを投資する。そして色々やってみる。1節はこうした冒険心を奨励しているのだろう。
 「あなたの受ける分を七人か八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるか、あなたは知らないのだから」(2節)。これは1節の投資との関連で言われている。のるかそるかの冒険心で前向きにやっていくのはいいのだが、全財産を1回の博打で失うような、むちゃなことはやめなさいということなのである。1節と2節は投資ということにおいて同じ構造になっているようだが、パラドックスがあり、1節では冒険心を奨励し、2節では用心を教えている。どちらも必要。言い方を変えれば、失敗を恐れない勇気とともに、そこには賢さ、分別というものが必要となってくるということである。冒険心、大胆さ、勇気とともに、実際の手順においては、思慮分別をもって、よく考えて、実行に移すための計画を練るということ。何かに賭けてみる積極性とともに、その積極性を実行に移すための慎重性が求められている。「一念岩をも通す」で強い意志でやり遂げる覚悟が必要であるが、「浅き川も深く渡れ」の慎重さも必要なわけである。私たちが未来を生き抜くためには、心は情熱で燃え、頭は冷静に冷えていなければならない。燃える炉のような心と、氷のような冷えた頭である。私たちはその両方を兼ね備えていなかればならない。
 「あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様、風の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたはいっさいを行われる神のみわざを知らない」(5節)。ここで著者は何を言いたいのだろうか?「知らない」ということばが目を引く。人間は、母親の胎内で赤ちゃんがどのように形造られるか知らないし、風の道といった自然現象の成り立ちも知らない。つまりは神のみわざを知らない。神のみわざは人間の理解を超えていて、どのようになるのかを知らないわけだから、あれこれ、いたずらに心配するのはやめて、すべてを神の御手にゆだねて、自分のすべきわざをしていくということが求められる。明日のことは明日思い煩う。今自分のすべきことをしていくということ。摂理信仰という表現がある。神が前もって備えてくださることを摂理と呼ぶ。だから、私たちはそれを信じて、神の御手にゆだねて、一つ一つのことをやっていく。風に道を備えてくださる神さまは、私たちの道をも備えてくださると信じる。摂理の御手にゆだねていく。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩編37:5)。
 「朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない」(6節)。この節は、これまでの要約である。この種まきの描写だが、「朝のうちに」「夕方も」という描写が心に留まる。ここは「朝から夕まで」の継続した勤労の勧めととることができるし、「あれか、これか」とあるように、「朝夕二度にわたって」ととることもできる。いずれ、不確実な未来、先のことを人は知ることができず、先のことが不確かならば、朝に夕にとやってみることが必要だと言う。金言だと思う。
 最後に強調したいことは、神のために、投資することを怠ってはならないということである。おくびょう、ためらい、優柔不断は事をなさず、神を喜ばすことはできない。キリストもタラントのたとえ(マタイ25章)でその事を教えられた。そこでは主人の心を思い違いしている悪いしもべ(管理人)が登場する。悪いしもべは主人を愛する心がなく、自己防衛心ばかりが強く、おくびょうで、主人から与った1タラントを地に埋めてしまって、少しも増やさなかった。それを厳しくいさめられた。「タラント」とは、神さまが私たちに与えてくださった聖霊の賜物だけではなく、一般的な能力や、金銭といった、神さまからの預かりもののすべての比喩であると考えられる。体や時間もタラントに含めることができるかもしれない。こうした預かりものをどうしたらいいのか?今日の箇所ではそれが、「あなたのパンを水の上に投げよ」「朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手放してはならない」と言われていた。
 私たちが残された人生、神さまのために何ができるのか、この課題にしっかり向き合っていこう。私たちの主人は神さま、イエスさまである。だから「主」と呼ぶ。私たちは、主なる神から、能力、賜物、からだ、財、時間といった資本を預かっている。人は何のために生きているのか、その答えをもっている人は、生涯現役のしもべとして、それを主なる神のために投資するであろう。