「失われた息子のたとえ」の第二回目である。前回は、たとえが語られた二千年前の文化的背景を意識しながら、主イエスの教えを汲み取ることに努めた。これはたとえ話なので、登場人物の父親と息子にはそれぞれ意味が込められているわけである。父親は神を表し、息子は私たち人間を表す。息子がいるということは、息子を産んだ親が当然いるということになる。同じように、人間がいるということは、人間を造り、人間を愛しておられる神がいるということである。それがこのたとえの前提条件となっている。今日の二回目は、放蕩息子が放蕩して落ちた状態に焦点を合わせながら、神の愛について考察したいと思う。

息子は二人いて、弟息子のほうが父親に財産の分け前を求めた(11,12節)。父親の生前に財産の分け前をねだるというのは、当時にあって稀有なことである。それは赦されざる罪とさえ言われた。父親に、死んでくれと言っているのに等しい非礼行為である。しかし父親はそれを許した。それから幾日も経たないうちに、弟息子は大金を手にして家を飛び出し、自由を味わおうとする。その時は晴れ晴れとした気持ちだっただろう。やった~!これからの俺の人生は最高だと。異国の地で好きなように生きてやると。

息子は遠い国に旅立った(13節前半)。前回お話したように、この遠さというのは、息子の心が心理的に父親から遠ざかっていたことを物語る。親の目の届かない世界で、自由気ままに生きていきたい。このことは私たち人間がいのちの源である神から離れ、神に背き、神の恵みを考えないで、自分の思い通りに生きようとする姿を象徴しているようである。

息子は遠い国で親の財産を湯水のように使い果たしてしまった。父親はこうなることはある程度予測していたはずだが、息子の自由にさせた。息子が家を出て行く際に、最低限の教えは与えただろうが、息子の自由意志を束縛してない。これが一つのポイントである。まず神は、人間をロボットのような命令を自動的に行う存在として造らなかった。自分でそうしたいと思えばそうすることができる自由意志を持つ存在として造られた。その自由意志をあやまって使えば大変なことになる。この息子の人生を見ればそれは明らかである。

彼は食べるにも困り果てる状態となる。豚の餌さえも分けてもらえなくなる(14~16節)。お金は尽き、ぶた以下にみなされ、誰からも相手にされなくなり、死の足音が聞こえ始める。これはいわゆる「底つき」体験である。人間として、これ以上の底はないという底にまでたどりついた。お金がない。それだけでなく家畜以下の扱いの屈辱。孤独のきわみ。そして死と隣併せ。17節後半には「私はここで飢え死にしようとしている」とある。ほんとうに底の底まで落ちた。こうなるまでの彼の歩みを考えると、彼は自由を楽しんでいたように見えて、実は好ましくない習慣に縛られていたことが見えてくる。そして転げ落ちて行った。

現代は「依存症」ということばがある。アルコール依存症、薬物依存症、ニコチン依存症、ギャンブル依存症、買い物依存症(物があふれている時代、カードやスマホで決済も簡単になってきた)、ゲーム依存症、ネット依存症、ポルノ依存症(30節参照)、こうして身上を潰すということが起きてくる。「依存」と関係することばに「嗜癖」(しへき)がある。依存は状態に強調を置いた表現であるが、嗜癖は「癖」ということばが使われていることからもわかるように、行動面に強調が置かれている。意味は「繰り返す悪い癖」である。それは行動の習慣である。人は自由、自由と言いながらも、この行動の悪習慣の奴隷となっている。それは先ほど取り上げた依存症も当然入る。昔から言われて来た「飲む、打つ、買う」などは代表的なところ。こうしたこと以外に、わかっちゃいるけれどもやめられないという習慣、癖はいろいろある。浪費癖、盗癖、過食、摂食障害もこの領域に入ると言われている。繰り返される暴力も入るだろうし、さらには誰かに依存してないと生きられないという不健全な人間関係障害(共依存)も入ってくる。

この息子も依存、嗜癖の問題でつぶれていったようである。悪習慣が止まない。こうなってしまった場合の処方箋は意外なものである。専門家が家族等に第一に伝えることは、「決して金を払ってやったり、いったんきれいな体にしてやるといった尻ぬぐいをしてはいけません」ということなのである。たとえばクレジット会社からの請求が続き、本人が大変なことになる。本人が反省の色を見せているようだからと本人の尻拭いをしてやる。するとまた半年後に請求書が…。悪循環は繰り返される。金がどこからか出ている限り、この嗜癖は止まない。なぜ本人が嗜癖を止めようとしないのか。それは周囲に、本人の世話をして支え続ける「もう一人の人」の存在があるからである。専門用語でこの人のことを「イネブラー」と呼ぶ。このイネブラー的存在は、本人に説教しつつも、心配していろいろ世話をしてしまう。本人が直面すべき現実を代わって処理してしまう。「本人への愛情」と思ってやっていることが裏目に出て、本人の嗜癖、依存を支え続けるという悪循環になる。本人にとって、親、妻、他の人の存在といった周囲の人は、自分の嗜癖行動の尻拭いをする存在にすぎない。本人にとっては、その人たちの嘆きよりも、自分の救済のほうが大事なのである。イネブラーと言われる人たちは、依存症、嗜癖行動を維持する手段として使われてしまう。後で、助けようとしてやったことはまちがいだったと気づいても、手遅れということはよくある。

こうした場合、周囲に求められているのは、「やさしさ」ではなく「きびしさ」であると言われる。アルコール依存症の例をあげると、「もう飲んじゃだめ」「体をこわすよ」「今日は一杯だけにしましょうよ」などの妻の愛情行為が逆に、夫の飲酒を維持することになっていると言う。この妻はイネブラーになってしまっている。共依存の関係になっているとも言われる。私がいなければこの人はダメになってしまうというその姿が依存。イネブラーとなっている妻はアルコール依存ではないけれども、アルコール依存症の夫に依存してしまっているというわけである。アルコール依存の人たちがどうしてアルコールを断つことができたかというなら、その答えは「底をついたから」である。誰かが脇にいて、くっついて面倒を見ていると、その人はなかなか底をつかない。底をついて本人が「我に返る」ことが必要なのである。

16節で「だれも」彼に豚の餌さえも与えなかったことが言われている。これがまさしく「底つき」である。彼にはこの体験が必要だった。お金があるうちは、まだまだなんとかなると思っていた。それがなくなっても、まだまだ自分の力でなんとかなる、と思っていた。また誰かが助けてくれると思っていた。だがそうではなかった。彼は見放され、完全に底をついた。イネブラーは誰もいない状況になった。ある専門家は、アルコール依存症の患者の家族にこの「底つき」の話をすると、「要するに見捨てればいいんですね」と誤解されることがあると言っているが、見捨てるのではなくて、本人が「我に返る」手助けをすることなのである。その「きびしさ」が真の愛情であると。

この「底つき」の理解に達したのは、クリスチャンで、アルコールホーリクス・アノニマス(略してAA)の共同創設者ビル・ウィルソンである。彼のアルコール依存症回復のプログラムは日本でも導入されていて、大変有名なものである。それは「AAの12のステップ」という回復プログラムである。第一のステップは、「私たちはアルコールに対して無力であり、思いどおり生きていけなくなったことを認めた」で始まる(自分の無力さを徹底して認める)。その後、自己吟味のステップが続いて、ステップの5は「神に対し、自分に対し、そしてもう一人の人に対して、自分の過ちの本質をありのまま認めた」(徹底して砕かれての悔い改め)。ステップ7は「私たちの短所を取り除いて下さいと、謙虚に神に求めた」(神に助けを求める)。ステップ8,9は、自分が傷つけたすべての人に心を向けて埋め合わせをする行動を取るように促しており、その後のステップでは、祈りと黙想を通して神のみこころを知り、それを実践する力を求めるようにさせている。このようにウィルソンは、自分が神の前に無力な者であることを認め、降参して、悔い改めることから勧めている。

ウィルソンはアルコール依存症と戦う仲間にこう書いた。「復活の前には屈辱が来る。・・・。痛みは代価であるばかりでなく、たましいの試金石である」。彼は屈辱、痛みの価値を語ったのである。この息子はまさしく、屈辱と痛みを伴う底つき体験を通して「我に返った」(17節)。「我に返る」ということばには悔い改めの意味が含まれている。「悔い改め」は旧約聖書では「神のもとに帰る」こととして表現されている。今、この息子は父親のもとに帰ろうとする。なぜ帰ろうとしたのかと言うのなら、底つきを通して、自分が最低の人間であるという自覚が生まれ、父親を父親としていなかった根本的な誤りの姿に気づいたからである。父親の恵みを恵みとしてこなかった愚かさに気づいたからである。これが「我に返った」である。

彼は我に返り、ほんとうにへりくだった(18,19節)。高慢ちきだった彼は、罪を告白し、何の資格もないただのぼろくその罪人であることを認めている。それまでの彼は傲慢で自分が全く見えていなかった。人は、やること、なすことがうまく行っている時は、自分が何者であるかのような錯覚に陥っている。自分のことが良く見えていない。けれども挫折し「底つき」を覚えた時に、ありのままの自分の姿が見えてくる。みじめで弱く、罪深い自分の姿を。神を神として来なかった傲慢な姿を。

私たちは、自分はこの放蕩した息子ほどひどくない、依存症にも陥っていないと言うかもしれない。だが所詮「五十歩百歩」である。父親は24節を見ると、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」と言っているが、死の本質は、神との関係が切れていることである。神との関係性の喪失、それが死であると聖書は様々な箇所で教えている。聖書は神との関係が回復して得られるいのちを「永遠のいのち」として説明している。すべての人がこのいのちを必要としている。また「いなくなった」、すなわち神のもとから失われているということでも、すべての罪人が該当している。ある人は、「私は神という存在を信じている」と言うかもしれない。だが、神の存在を信じているだけでは仕様がない。この放蕩息子も神の存在ぐらいは信じていただろう。18節で彼は「私は天に対して罪を犯し」と言っているが、これは前回お話したように、神に対して罪を犯したということの婉曲的表現である。この告白に至れることが大切なのである。放蕩息子は自分の無力さ、自分の傲慢さを徹底的に認めて、砕かれて、この告白に至った。19節では、「もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」(19節)と言っているが、すなわち、あなたの奴隷で構いませんとの、打ち砕かれた姿を見せている。12節の尊大な姿はもうそこにはない。

放蕩した息子を待ち受けていたのは、豊かな愛の人であった。毎日、首を長くして息子の帰りを待っていた(20節)。息子が父親を忘れて自分勝手な生活をしている時も、父親は息子のことを一日たりとも忘れることはなかった。遠くから歩いて来る息子を見つけると、「駆け寄って」息子を迎えた。この描写に先行的な神の愛を見るわけである。この愛はキリストの十字架に表わされているわけである。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(第一ヨハネ4章10節)。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し」と、神の愛が先行しているのである。キリストは私たちが神に背いているとき、自らいのちを捨て、罪のための宥めのささげ物となってくださった。たとえ話の父親は、息子が悔い改めたので愛を示したのではない。その逆で、息子は父親が自分を愛してくれていたので悔い改めた。同じように、すべてに神の愛が先行している。この神の愛に気づかずに生きているのが私たち人間である。この放蕩息子のように、肝心かなめの父なる神を忘れ、何様の顔をして生きている。ちりに過ぎない存在なのに。だが、そのような私たちを、神は待ちに待つ。
放蕩息子の父親が神であるとすると、神は私たちが背き、罪に走ることを知っておられた。ご自身に背き、どうなってしまうかを知っておられた。神は飢饉という災いに遭うことさえ予知できるお方である。行き詰ってしまい、底をついてしまうことも。だが、無理に留めたり、引きずって連れ戻すことはされない。あくまで、私たちが自由意志をもって立ち返ることを願っておられる。

父親は悔い改めて帰って来た息子に何をしてあげただろうか(22節)。ぼろぼろの汚い着物を着ていたと思われる息子の服を脱がせてあげて、晴れ着を着せた。次に、子どもとしての権利回復はまちがいない指輪をはめさせた。そして靴をはかせた。靴は奴隷ではなく自由人であることのシンボルである。息子は19節にあるように「雇い人の一人」、すなわち奴隷でいいと思って帰ってきたが、父親はそうはさせない。さらに、一世紀頃、肉を常食する習慣はなかったと言われるが、肥えた子牛一頭を引いて来てほふらせた。それはお祝いの食事を意味した(23節)。このようにして父親は、最大の歓迎の意を示した。同じように神は、ご自身に立ち返る人間を大歓迎してくれるのである。私たちの側では、もうちょっとましな人間になってからとか、もうちょっと社会に評価される人間になってからとか、そのような気苦労は無用なわけである。むしろ、自分を少しでも立派に見せようとするその自我が邪魔なのである。ぼろぼろの姿で、そのまんまの姿で神のもとへ行けば良いわけである。そして何かに誰かに依存するのではなく、キリストに依存するのである。

「『この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた」(24節)。帰ってきた息子を迎えて、父親にあるのは、喜び、喜び、喜び。今日のたとえを通して、私たちの帰りを待ち受けている神の愛を感ぜずにはおれない。今、神さまは十字架という目印を立てて、それを道標にして私たち人間の帰りを待っている。この十字架という道標は、自分の罪、愚かさ、傲慢さを認めた者でしか、ほんとうの意味で目に入らない。十字架で行われたのは私の罪のための贖いのみわざであったと、十字架のもとにひれ伏し、額ずくことができる人は幸いである。私たちは次の声も聞きたい。

「わたしは、あなたの背きを雲のように、あなたの罪をかすみのように消し去った。わたしに帰れ。わたしがあなたを贖ったからだ。」(イザヤ44章22節)。梅雨明けの青空のように罪を消し去ってくださるみわざが、あの十字架のみわざだった。このみわざを心から父なる神に感謝し、キリストとともに新しい人生を送ることができる人は幸いである。