今日の箇所は「不正な管理人のたとえ」として知られ、ルカの福音書のたとえ話の中で、最も難解なたとえだと言われている。ある方は次のように言う。「不正な管理人のたとえは、これまで常に読者に当惑を強いてきた。神父や牧師、作家、聖書解釈者、および聖書教師は、しばしばあたかもペストを避けるかのように、このたとえを忌避してきた」。けれども、講解説教は避けて通れない。皆が困惑するのは、不正な管理人がほめられているということである。不正な管理人がほめられているので、4世紀のローマ皇帝ユリアヌスは、イエスはこのたとえで、弟子たちにうそつき、盗っ人であれと説いていると揶揄した。しかし、当然のことながら、そんなはずはない。私たちはこのたとえを通して主イエスが何を言わんとしているのかを、正しく把握したいと思う。

このたとえ話は誰に向けて語られているのだろうか。1節で「イエスは弟子たちに対しても」とあるが、これまで、パリサイ人たち、律法学者たちに向けて語ってこられた(15章2節)。放蕩息子のたとえなどがそうであったわけである。これからは、彼らに加えて弟子たちにも、ということである。パリサイ人たちも引き続き、聞いている(14節)。

たとえそのものは1~8節で語られている。ある金持ちの管理人が、財産管理がおかしいと告発をされたようである(1節)。「主人の財産を無駄遣いしている」とあるが、主人の財産の浪費、乱費である。「無駄遣いする」ということばは、放蕩息子のたとえでは、15章13節で「湯水のように使う」と訳されている。彼は自分の立場を利用して、主人のお金を着服し、公私混同でお金を無駄に使い、また私腹を肥やしていたのであろう。1世紀当時の管理人たちは、主人である地主のもとで、自分自身が地主であるかのように取引を行う権限を全面的に有していた。地主の名によって管理人が結んだ契約はすべて法的拘束力を有した。このように、管理人は地主の代理人として事業を行い、経済的な事柄を管理した。このような権限を有する管理人の働きは、信頼できなければまかせられるものではない。この管理人はその信頼を裏切ったかたちとなる。この地主が不在地主となれば、地主の目の届かないところで好き放題やれてしまう。

主人は訴えを聞いて、「おまえについて聞いた話は何なのか。会計の報告を出しなさい。もう、おまえに、管理をまかせておくわけにはいかない」(2節)と通告した。これは「会計帳簿を見せなさい。その上でおまえの進退を判断する」ではなく、「会計帳簿を私に返しなさい」ということであり、解雇確定の通告である。「もうおまえにはやめてもらう」である。ただ、まだこの時点で彼の手元には会計帳簿がある。これが大きな意味を持つことになる。

管理人は解雇された後の自分の生活について思い巡らすことになる。「どうしよう。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物乞いするのは恥ずかしい」(3節)。管理人の職を首ということになれば、首になった理由とともに、それが村中に知れ渡り、彼にはろくな仕事は回って来ないだろう。かといって、彼には農作業をするほどの体力もない。彼は「土を掘るには力がないし」と言っているが、農業というと土を耕すと思うわけだが、狭い高台や鋭角の角地は鋤で耕すことができず、掘らなければならなかったそうである。また、彼は物乞いをする気にもなれない。「物乞いをするくらいなら死んだほうが良い」という古代の文章も残っているが、彼の場合、それは単に恥だということにとどまらない。地域社会において物乞いとして受け入れられる資格は、目が見えないとか、背骨が曲がっているとか、片足や片腕がないとか。だが、おそらく彼は健常者であったと思われる。それで、彼にとって物乞いは完全な恥である。

彼は名案を思いつく。主人の債務者たちに便宜を図って、解雇された後、家に迎えてもらおうという計画である。「分かった。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、人々が私を家に迎えてくれるようにすれば良いのだ」(4節)。

彼はその計画を実行に移す。おそらく、主人には内緒である。そして主人の負債者たちは、彼に管理人としての権能はもうないということを知らない。いつも通りに、主人の代理人としての権利を持つ管理人だと思って交渉に臨むことになる。この管理人にすれば、解雇と言っても、内輪で言い渡されただけで、会計帳簿はまだ自分の手の中にある。この会計帳簿は公に権力を有する書類である。この帳簿を使って工作する機会は残っていた。彼は一大勝負に出ることになる。帳簿を提出するように命じられた以上、いつまでも自分の手元に置くことはできない。その時間は限られている。彼は計画をすばやく実行に移しただろう。この時を逃してはならないと。

管理人は、最初の債務者にも、次の債務者にも、「いくら借りがありますか」と尋ねている(5,7節)。彼は帳簿が手元にあるので、情報を求めていたわけではない。負債額は分かっている。これは当時の交渉の手順であり、帳簿にある負債額と債務者が申告する数字が一致すれば、話を前に進めることができるというものである。つまりは、これは話を前に進めるための第一手である。

債権者たちは農夫であったようだが、当時、農夫は地主から土地を借りて、麦畑や果樹園にして、その収穫の中から、合意した収量を地主に納めていたようである。負債というものはそこに発生していく。

最初の債務者はオリーブ油百バテの借りがあった(6節前半)。リットルに換算すると、約四千リットル。それはおよそ一千デナリの価値があった。それは千日分の労賃に相当する。管理人はその負債を五割減らす。五十バテにしてしまう(6節後半)。つまり五百デナリカット。次の債務者は小麦百コルの借りがあった(7節前半)。重さにして約二十七トン。それはおよそ二千五百デナリに相当する。その負債を二割減らす。八十コルにしてしまう。デナリに換算すると、先ほどと同じく五百デナリカット。二人とも五百デナリ分少ない額で証書を書き換えるよう指図されることになる。これは債務者にとって非常にありがたい。こうしてこの不正な管理人は、債務者に恩を売ることになる。

けれども、これを知った主人はどう思うだろうか。当時、被害を受けた主人は管理人を訴えたり、さらには妻や子どもを奴隷として売る権利もあった。けれども、それを実行した形跡はない。この主人は大損したのだから、何かの手段を講じてもよさそうなものである。でも、何も書かれていない。この管理人は、主人が損をしない手はずを踏んだことが考えられる。債務者たちに書き直させた「五十バテ」「八十コル」という数字は、もともと借りた数量だった可能性がある。つまり、最初の債務額である「百バテ」「百コル」という数字は、利子とか管理人手数料が含まれていての数字であって、管理人は、利子または管理人が受け取っていい管理人手数料の分を減免したのではないかということである。つまり、管理人は本来の負債のみを返すように仕組んだことが一つの可能性として考えられるということである。本来の負債のみを返しなさいということであれば、主人に損はないと言えばないことになる。利子は入らないが損はしない。でも、主人は損はしなくとも得はしてないと言うかもしれないが、減免したことにより、主人の評判は上がることはまちがいないだろう。あの地主さんはいい人だと。管理人は地主を良く見せる行動を取ったことになる。そして、もしこの管理人に経済力が少しでもあれば、百バテから五十、百コルから八十とした負債の差額のうち幾分でも、自分のお金か何かを足して埋め合わせすることもできる。埋め合わせのために使った自分のお金と言っても、そこには主人のお金を着服した不正の富も入るかもしれない。この管理人は、不正の富を使って債務者の負債の埋め合わせをした可能性が考えられる(9節前半参照)。しかしながら、それだけで終わらないはずである。主人に会計帳簿を精査されて、これまで無駄遣いした分を、主人に請求されることになるだろう。こうして負債の埋め合わせや主人からの請求で出費して一文なしになったとしても、この管理人は債務者の誰かの家に迎えてもらうことができる。物乞いするよりはいい。彼の機転の利いた行為は、自分にも、債務者にも、そして主人にもメリットが生まれることをやったということになる。主人は修正した証書を撤回して元どおりにしたいと思っても、つい先ほど、債務者たちから大助かりと喜ばれたばかりなので、また元に戻すというめんどうくさい交渉はやりづらい。元に戻すというのは自分の評判を落としてしまうことになる。

主人の反応は8節前半である。「主人は、彼を牢屋にぶち込んでやると、ブチ切れた」と言われていない。主人は、管理人が働いた不正そのものに対して、法的な罰を下すこともできたが、それをした様子もない。寛大である。「主人は、不正な管理人が賢く行動したことをほめた」(8節前半)。主人は、彼がやってきた不正をほめたわけではなく、こうすれば将来は保証される、食いっぱぐれはなくなると判断して動いた、その抜け目のない行動をほめた。債務者に対する根回しの利いた行動をほめた。実際はこんなものであったかもしれない。「不正を働いてろくでもないやつだが、それにしても頭が回る。その利口さには感服する。一本取られた」。

8節後半にはこうある。「この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである」。当時、神を信じる信者のことを「光の子ら」と言い表し、それに対して信仰のない人たちのことを「闇の子ら」と言い表す習慣があったようである。ようするに、ここでは、神を信じないこの世の人たちは自分の将来について経済面で対処することにすぐれていると言っている。いかに取引きするか、富を運用するか、金儲けするか、そうしたことにすぐれている。こうしてこの世の富を使って、地上に住む間の将来に備える。不正な管理人のように。

だが、主イエスが光の子たちに言いたいことはそれとは違う。地上に住む間の将来の備えではなく、「永遠の住まい」の備えである。「わたしはあなたがたに言います。不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます」(9節)。ここは誤解して解釈されてしまう箇所である。「不正の富」とあるが、富そのものは不正ではない。富を追求するまちがった態度のゆえに「不正」と呼ばれている。自己中心的動機で富を追求し、それを運用したりするなら、ただの不正の富となってしまう。神を認めず愛さず生きている人々は、神を第一にする経済原則はない。ただ自分のために富を追い求める。そして、神のために富を用いようとは思わない。神の御目から見れば、この世の人々の大半が神の御目にかなわない富の追求の仕方、使い方をしているので、それは不正の富と言って良い。ここでは、この世の人々にとって不正の富となってしまうこの世の富を健全な用い方をするように教えている。「不正の富」という表現は、「この世の富」と言い換えても良いだろう。そのように訳す聖書が実際ある。

その「この世の富」を用いて「自分のために友をつくりなさい」と言われている。「そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます」と言われている。ここで「友」を誰と解釈するのか意見が分かれる。有力視されるのが「神」という解釈である。なぜなら、続く文章の「彼ら」は、神の名の直接的使用を避けるユダヤ的表現と判断されるからである。この神が私たちを永遠の住まいに迎え入れてくれるというわけである。しかしながら、ご存じのように、「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのはわたしにしたのです」(マタイ25章40節)というみことばからわかるように、他の人々にした親切な行為が神にすることでもあるわけである。聖書は、神を愛することと隣人を愛することは不可分で、隣人を愛することが神を愛することであることを教えている。だから、「友」という存在は、神でもあり他の人々でもあると言えるだろう。主イエスが教えたいことは、この世の富で、お金を使って、神に対して人に対して良い事をするということであり、物惜しみせず分け合い、困っている人に与え、助けられる人を助けるということ。それが私たちにとっての永遠の未来への備えなのである。私たちは、自分や家族を養うためにお金が必要だが、それは神からの預かり物であり、私たちはその管理人であり、預かったものの一部を用いて、御国前進のために用い、他の人を助けるために用いるというのが、神のみこころなのである。手段を選ばず私服を肥やすとか、金銭愛におぼれるといったことが、今日の箇所で奨励されているのではない。それは13節の「あなたがたは、神と富とに仕えることはできません」から明らかである。富は仕えるものではなくて、あくまで、神と人とのために用いるものである。そして、最後の「彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎え入れてくれます」という表現は、明らかに4節の「人々が私を家に迎え入れてくれるようにすればよいのだ」が意識されている。主イエスは、地上の家ではなく、天の住まいに迎え入れられるという、よりよい賢い行動を教えようとしている。富をどう用いるかということにおいて。

10~13節では忠実さということを教えている。「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です」(10節)。就職すれば、初めは小さな仕事をまかせられ、信頼を勝ち取ると、だんだん大きな仕事をまかせられるという手順を踏んで行く。私たちは誰のための忠実さが求められているのかと言えば、神のためである。ある先生は言った。「スリッパ揃え一つでも主のためにしなさい」。今日の箇所ではその忠実さは、この世の富の用い方に関して忠実であるかどうかが問われているようである。11節からわかるのは、この世の富に忠実であることが小さなことに忠実であるということである。「ですから、あなたがたが不正の富(この世の富)に忠実でなければ、だれがあなたがたにまことの富を任せるでしょう」。この世の富に対する忠実さが認められれば、「まことの富」をまかせられるようになる。「まことの富」とは何だろうか。言い換えると「天の宝」である。ルカ18章22節には「天に宝を持つ」という表現がある。天の宝、すなわち「まことの富」とは、キリストとともに御国を相続した時の富のことである。私たちは、この地上世界で、金銭その他を健全に管理し用いることができるかどうかを学習させられている。そこでの忠実さが永遠の未来につながっている。

12節では「また、他人のものに忠実でなければ」と言われている。他人のもの、会社のもの、預かっているもの、そうしたものに対する忠実さも神は見ておられ、評価の基準とされる。結局は、すべては神のものであり、わたしのものではないので、私たちは管理人としての忠実さが求められる。その忠実さがなければ、あなたには何も託せないとなる。

おしまいの13節を見よう。「どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるが、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません」。ここでは、私たちの主人とは神お一人であることを教え、富を愛し、富に仕えることの愚かさを説いている。私たちは、主人とは神お一人で、神を愛し、神に仕えるという精神の中で、この世の富という神からの預かりものを、神のために用いるとき、それが「忠実」と認められる。11節の「あなたがたが不正の富に忠実でなければなりません」は、そのような意味となる。ある人は、私は富とは無縁だと言われるかもしれないが、「富」と訳されていることばは、「物質的所有のもの」「金銭」といった意味のことばである。ようするに、物、金銭をどう管理するかということが問われている。それが今日の教えである。

今日のたとえでは、管理人とか管理ということばがしばし登場したわけだが、「管理」を意味する原語は<オイコノミア>ということばに由来している。<オイコノミア>から経済を意味する「エコノミー」ということばが誕生した。経済とは何だろうと考えるときに、経済とは本来、神から預けられたものを神のみこころにかなって管理することであると知っておきたい。パウロは「金銭を愛することが、あらゆる悪の根です」(第一テモテ6章9節)と言っているが、そのような態度で金銭を追い求めるのではなく、神からの預かりものとして、神と人とのために用いること。神のために献げ、困っている人たちのために用い、助けるべき人々を助けること。これが真の経済であり、またこのことが光の子として友をつくる手段であり、天の住まいに迎え入れられる手段である。そして天において、朽ちることのないまことの富をまかせられることになる。こうした人こそが賢い管理人であり、忠実な管理人である。私たちは金銭欲を張って金銭を追い求めていないといっても、無駄に使ったり、生活費や老後のことだけに思いが行ってしまいやすい者たちであるわけなので、私たちは神を主人とする管理人としての自覚をもって、神からの預かり物を管理し、神と人とのために用いていきたいと思う。