前回は13~21節から、貪欲を警戒することについて学んだ。「そして、人々に言われた。『どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです』(15節)。貪欲は、もっと持つことへの渇きを意味することばであった。もっと、もっと、もっと、とモノに対して渇き求める。その渇きはなくならないばかりか、やがて死に至って終わってしまう。モノにいのちはない。いのちは神にある。神ご自身がいのちである。永遠のいのちである。神のいのちは死によっても奪われることのない永遠のいのちである。

私たちは、「愚かな金持ちのたとえ」を聞いて、そうだ、そうだ、となる。貪欲はいけないと。けれども、地上で生きている間、住む所も、食べる物も、着る物も必要なことは確かだろうと自問自答が始まる。それを知っておられる主イエスは、地上で生きている間の生活必需品は神が下さるのだから、心配しないで、まず神を第一に、御国を第一に求めるよう、教えられる。

今日の区分を見ると、「心配」ということばが度々登場し、生活上の心配を戒める教えとなっていることがわかる。 「主イエスは弟子たちに言われた。『ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようかと、いのちのことで心配したり、何を着ようかと、からだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上、からだは着る物以上のものだからです』(22,23節)。「心配するな」と言っても、では誰が心配してくださるのか、となるわけだが、今日の教えを聞けば、それは父なる神さまであるとわかる。それを主は丁寧に説いていかれる。

22節で「いのちのことで心配したり」とあるが、前回説明したように、この節で使われている「いのち」ということばは、15節で使われていた「いのち」ということばと原語が異なる。15節の「いのち」<ゾーエー>は、根源的ないのちのことであり、それは神のいのち、永遠のいのちである。神ご自身がいのちである。このいのちを私たち信じる者に下さる。そして、22,23節の「いのち」<プシュケー>は、この地上でのいのちのことである。肉体の死によって終わるいのちのことである。神は、こちらのいのちのことも配慮してくださる。いのちに伴うからだのことも配慮してくださる。生活必需品を備えてくださる。そうしてくださるのは、私たち神の子どもたちに対して比類のない価値を置いてくださるからである。

主イエスは、そのことを分からせるために、烏と草花を引き合いに出す。まず「烏」(カラス)である(24節)。さて、烏について見る前に、主イエスが「雀」(スズメ)について話されたことを思い起してほしい。「五羽の雀が、二アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でも、神の御前で忘れられてはいません」(12章6節)。「アサリオン」はローマの最小単位の銅貨のことだが、当時、雀は一アサリオンで二羽買えた。はした金一枚で雀二羽買えた。銅貨二枚二アサリオンとなると四羽買える計算になる。ところが実際は銅貨二枚で五羽買えた。ということは一羽はおまけとも言える。そんなはした金で買える雀一羽、おまけの一羽の雀でも、神の御前では忘れられていないという。そこで今度は烏である。「烏のことをよく考えなさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。それでも、神は養っていてくださいます。あなたがたは、その鳥よりも、どんなに大きな価値があるでしょう」。烏は律法では汚れた生き物とされているので(レビ11章5節)、安っぽいとされた、ちっぽけな雀ほどの価値もない。雀以下である。しかも、種蒔きをはじめ、目に見えて何かをしているというのでもない。嫌われものの感も強い。だが、そのような烏さえ、神は養っていてくださる。空を飛ぶ烏を見ると、神さまが養ってくださっているんだなーと思わせられる。烏と私たちを比較したら、神さまは私たちのほうにはるかに大きな価値を置いてくださっていることは明らかである。だから、神は私たちのことを養ってくださることを疑ってはならない。

主イエスは草花に移る前に、「心配するな」というメッセージを送る。「あなたがたのうちだれか、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。こんな小さなことさえできないのなら、なぜほかのことまで心配するのですか」(25,26節)。さて、ここでも「いのち」ということばが登場する。22,23節の「いのち」とはまた別の原語が使用されている。25節の欄外注を見ると、読みが<ペキス>とあり、「一キュビトに相当、約44センチ」とあり、別訳として「身長」とある。原語<ペキス>は肘から中指までの長さで約44センチ。長さの単位である。そうすると、この場合の「いのち」は「寿命」「年齢」といった長さのことになる。「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分の寿命を延ばすことができるでしょうか」ということである。<ペキス>は同時に「身長」をも意味することばである。本文では文脈上、寿命といういのちを選択している。寿命にしろ、身長にしろ、心配したら延びるというものではない。反対に縮みそうな気がする。

さて、今度は草花との比較である(27,28節)。「草花がどのようにして育つのか、よく考えなさい」で始まる。「草花」にマークが付いていて、27節の欄外注を見ると、「あるいは『ゆりの花』」とあるが、新改訳第三版では、本文で「ゆりの花」となっていた。当時、白百合と似たような同じ花であれば、何でもこのことばで表したようである。皆様には、ゆりの花を思い浮かべていただければ良いと思う。ゆりの花は、働くことなくも育っている。そして、スキンケア、メイクに時間をかけ、美容院に通い、フィットネスクラブに通い、美容食品にこだわり、と美容に費やすそぶりはない。ファッションコーディネーターのところに足蹴く通うこともない。だが、「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていませんでした」と言われている。このように装ってくださったのは誰なのかを主イエスは考えさせる。そして、装っていただいた対象は、「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草」でしかないことを考えさせる。そこから引き出されるメッセージは、神は草とあなたがた神の子どもたちのどちらをより大切に思っているかわかるだろう?草を装ってくださる神が、あなたがたのことをほおっておかれるわけはないだろう、ということである。

これを汲み取るならば、やはり心配はいらないはずである。主イエスは繰り返し、心配をやめさせることばを語る。「何を食べたらよいか、何を飲んだらよいかと、心配するのをやめ、気をもむのをやめなさい」(29節)。「心配する」<メリムナオー>はピリピ4章6節では「思い煩う」と訳されている。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いとによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」。思い煩うという意味での心配は必要ではない。「気をもむ」ことも要らない。

「これらのものはすべて、この世の異邦人が切に求めているものです。これらのものがあなたがたに必要であることは、あなたがたの父が知っておられます」(30節)。心配をするばかりか、モノに渇き、もっと、もっと、と貪欲になってしまうのは、「この世の異邦人」、すなわち、まことの神を知らない人がすることなのだと主は言われる。だが、「これらのものがあなたがたに必要であることは、あなたがたの父が知っておられます」とあるので、必要なものは父なる神が与えてくださると、そこに心を置けばいいわけである。

以上のことから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと、心配する必要はない。主イエスは続いて、いのちやからだのことで心配するのはやめて、では、積極的にはどういう姿勢でいるべきかを、二つ教えている。一つは、御国を求めることである。それは異邦人が、衣食住のことを切に求めることと対照的である。「むしろ、あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます」(31節)。以前は「御国」を新改訳第三版において、「神の国」と訳していた。御国はあるのだろうか。あるのである。この御国が私たちの未来を明るくする。以前、朝日新聞で、ある女性歌人のことばが紹介されていた。「受験も出産も控えていないいまでさえ、来年やその先のことを考えたくない。未来に対して、信頼度がゼロなのだ」。目に見える世界だけを見ていると、未来に対して獏とした不安しか抱けないというのはわかる。しかし、神が存在しておられ、御国があるとしたらどうだろうか。「未来に対して、信頼度がゼロなのだ」ということから脱することができるのではないだろうか。そして、この御国に属するものの性質を考えてみたい。使徒ペテロはペテロの手紙第一1章4節において、「また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これは、あなたがたのために天に蓄えられています」と語っている。異邦人が切に求めるものは、やがては朽ち、汚れ、消えていってしまうものである。それら物質的なものに執着し、それらをひたすら求める生き方は愚かである。私たちが何よりも求めるべきは御国である。それ自体、朽ちることはない。

「御国」の基本的意味は「神の支配」である。神の御支配があるところが御国である。神という存在の中に御国があると言って良いだろう。だから、御国を求めるとは、言い換えれば、神を求めるということに等しい。そうするならば、今見たように、「朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産」を受け継ぐばかりか、「そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます」と、この地上での生活必需品も加えて与えられると約束されている。「神を信じて、神を求めて何がいいことあるか、きれいごとはたくさん」という人たちのことばに押し負ける必要はない。「小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです」(32節)。主イエスの弟子はわずか、少ない、小さな群れである。それは今も同じである。小さいこと、少ないことは恐れにつながる。周囲は価値観の違う人たちが多く、主の弟子の価値観を受け入れないばかりか、さげすんでくる。愚かであると。ばかばかしいと。信じるに値しないと。嘲笑されることもある。けれども、「恐れることはありません」と励ましてくださっている。御国は必ず与えられるのである。父なる神は、喜んで私たちに御国を与えてくださるのである。感謝である。

心配するのはやめての、もう一つの積極的姿勢は、施しだと言われている。「自分の財産を売って施しをしなさい。自分のために、天に、すり切れない財布を作り、尽きることのない宝を積みなさい。天では盗人が近寄ることも、虫が食い荒らすこともありません。」(33節)。これは明らかに、16~21節で主イエスが語られた「愚かな金持ちのたとえ」の、愚かな金持ちと正反対の姿である。主イエスも「愚かな金持ち」を意識して語られたと思う。愚かな金持ちは、わたしの作物、わたしの倉、わたしの穀物や財産、わたし、わたしと、自分を富ますことしか考えなかった。他者の必要はいっさい考えない。エゴイズムのオレオレ主義。最終的に、「自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです」(21節)と言われる有様だった。彼は地上にたくさんの富を積み上げたが、天には彼の富は何もなかった。

施しをするという天に宝を積んだ人の事例は、ルカが使徒の働きにおいて、二つ紹介している。「またヤッファに、その名をタビタ、ギリシア語に訳せばドルカスという女弟子がいた。彼女は多くの良いわざと施しをしていた」(使徒9章36節)。「さて、カイザリアにコルネリウスという名の人がいた。イタリア隊という部隊の百人隊長であった。彼は敬虔な人で、家族全員ともに神を恐れ、民に多くの施しをし、いつも神に祈りをささげていた。…すると御使いは言った。『あなたの祈りと施しは神の前に上って、覚えられています』」(使徒10章1,2,4節)。

「施し」ということばは現代では余り使われなくなってきたが、援助、チャリティー、寄付、献金、そうした行為となるだろう。

最後の節である、34節の「あなたがたの宝のあるところ、そこにあなたがたの心もあるのです」ということから聞こえてくるメッセージは、「あなたがたの心が一番関心を寄せているものが、あなたがたの宝なのだ。その宝は天にあるのか、地上にあるのか?あなたがたの心はどこ置かれているのか?」結局、この心の置きどころがものをいう。それをまちがえると心を地にへばりつかせてしまい、貪欲、エゴイズム、心配性といった領域を右往左往することになるだろう。私たちの心は、天に、御国に、神に絶えず置かれているだろうか。低空飛行が始まったら気をつけよう。心をどこに置いているかが、その人の一生を決め、その人の未来を決めるのである。今日の教えは特に「心配」ということばで始まったが、心配が生じたら、繰り返し、今日の教えに耳を傾けたいと思う。