主人の帰りを待つと聞くと、忠犬ハチ公を思い出してしまうが、そのクリスチャン版である。その主人とはイエス・キリストである。主イエスは今一度の来臨を約束されている。「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます」(ビリピ3章20節)。

主イエスは今日の区分において、「忠実なしもべと不忠実なしもべのたとえ」を語っている。「主人の帰りを待つしもべのたとえ」である。たとえは、「腰に帯を締め、明かりをともしていなさい」(35節)で始まる。これがしもべの基本姿勢である。当時のユダヤ人は、長いゆったりとした着物を着ていた。外出するとか仕事に取りかかる時には腰に帯を締めた。しもべは、テキパキと動く備えをいつもしていなければならない。激しい動きの時は着物を脱ぎ去ることもあったようだが、普段は腰にしっかり帯を締めて、敏捷に動けるようにしていた。日本人は和服を思い起こしていただいても良いが、現代人は和服を身にまとってはいるわけではない。帯を締める意図を汲んだ上で、次のみことばを思い起こしていただければ良い。「ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」(第一ペテロ1章13節)。「心を引き締め」という、この良い意味での緊張感は仕える立場からも必要で、この緊張感を絶えず保っているということである。それは「明かりをともしていなさい」にも通じる。「明かり」とは当時にあってオイルランプのことであるが、真夜中に主人が帰ってくるかもしれず、すなわち、真夜中も備えて、油断しないで帰りを待つように言われている。

たとえ話の状況としては、主人が婚礼に出かけ留守にしており、主人がいつ帰って来るかわからないという状況である。「主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸を開けようと、その帰りを待っている人たちのようでありなさい」(36節)。当時、婚礼の祝宴は一週間続いた。それ以上のこともあった。主人がその祝宴を切り上げていつ帰ってくるかわからないというわけである。これは当時あった実際の光景である。しもべは主人が戸をたたいたら、いつでも戸を開ける備えが必要だった。婚礼から帰って来る主人とはイエス・キリストを指すわけである。主イエスも、いつ戻ってくるかわからない。そして主人の帰りを待つしもべとは弟子たちということになる。しもべは二十四時間いつでも、主人を迎える心の備えができていなければならない。弟子たちも同じような心の備えが必要なわけである。警視庁にお勤めの身内の方のお話を聴いたが、休日であっても、連絡があればいつでもかけつける心の備えが必要であるということであった。また、「すぐに戸を開けようと、その帰りを待っている」というのは、ご主人の帰りを待つ主婦の方もわかるたとえである。食事の準備をして玄関燈をつけて帰りを待つ。帰りを待つその姿勢のゆえに、帰宅の車の音や玄関の戸を開ける音にも敏感になっている。足音でも聞き分けることができたりする。告げられていた時間に帰って来ないで、食べてきたなんて言われると、ブチ切れそうになることもあるかもしれないが、主イエスの場合、戻る時間は告げていない。婚礼に出かけた主人と同じである。迎え入れる姿勢としては、「よーいドン」の「よーい」の姿勢を保っているということである。

しもべの姿勢は、37節前半では「目を覚ましている」という表現で言われている(原語<グレゴリオス>)。これは、寝ている起きているを越えて、心が覚醒していることが必要というわけである。主人の帰りを待つという姿勢がそうさせる。

良きしもべに対する主人の感激の姿勢が37節後半に記されている。「まことに、あなたがたに言います。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばに来て給仕してくれます」。「給仕する」ということばは、ルカ10章40節のマルタのことば、「もてなしをする」と原語は同じである。主人がしもべとなって、しもべたちにおもてなしをする。良い主人である。主人がしもべの役を演じられるのである。主イエスはこの姿勢の片鱗を、十字架につけられる前日の夕食の場面でお見せになる。「イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた」(ヨハネ13章4,5節)。これはしもべがする仕事だったので、ペテロはこの後、恐縮してしまうわけである。私たちの主人はイエス・キリストという最高のお方で慈愛に満ちている。このお方の来臨(再臨)を待ち望むのが私たちである。

「主人が真夜中に帰って来ても、夜明けに帰ってきても、そのようにしているのを見てもらえるなら、そのしもべたちは幸いです」(38節)。大勢の人々が、キリストの再臨はいつなのか、その時間を計算している。これまで外した人は数多くいる。人々はそれらの計算に振り回されてきた。主が私たちに語っておられるのは、再臨の日を計算し、割り出すということではなく、いつでも目を覚ましているという姿勢である。「幸いです」ということばが、そのことを告げている。

主イエスは「泥棒のたとえ」を挿入している(39,40節)。この前、ニュースを見ていたら、夜、車の工場に泥棒が侵入して、タイヤのアルミホイール100万円分が盗まれたことを報道していた。盗まれた人は、侵入するとわかっていたらと悔やんでいた。後悔先に立たず、だった。同じことが主の再臨の時にも起きる。「あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのです」(40節)。「用心していなさい」とは、心の備えを呼びかけることばである。「思いがけない時」をある訳は「まさかの時」と訳していた。「まさか、こんな時に~」。主はまさかの時に来られるので、いつでも心の備えが必要である。まさかの時の再臨である。

ペテロはこのたとえを聞いて質問をしている。「主よ。このたとえを話されたのは私たちのためですか。皆のためですか」(41節)。この質問は、誰のためのたとえなのかということ。ペテロは、私たち弟子たちのためなのか、群衆を含めて皆のためなのか、と問いかけていると言ってよいだろう(1節参照)。主はこの後、42節以降で、「主人の帰りを待つしもべのたとえパート2」を語っていかれるが、それを聞けば、弟子たちが対象と言ってまちがいないことがわかる。

しもべは、42節において「管理人」と言い換えられている。英語で「スチュワード」と訳されたりする。42節で「家の召使たちの上に任命され」とあるが、江戸時代を考えれば、奉公人の最上位に位置する「番頭」のようなものである。古代の世界における管理人は、家の事全般をまかせられた一人の奴隷であった。管理人の主な働きは他の使用人たちの生活のめんどうを見ることで、特に、食事を、日ごと、週ごと、月ごとに与えることにあった。だから、42節では管理人の務めとして「食事」がクローズアップされている。主人が留守の間、この務めをきちんと果たす者が、42節で「忠実で賢い管理人」と言われている。ここまで来て、しもべの責任がはっきりした。しもべは帯を締めて、主人の帰りを待つ備えをするだけではない。動き、働く。それは、主人が留守の間、自分の務めを忠実に果たすということである。小さなことにも忠実に、である。

44節では、その忠実で賢い管理人に、自分の全財産をまかせるまでになると言われている。金銭ばかりでなく、人的資源も家畜も畑も何もかもである。これはやがて、主に忠実なしもべが、主とともに御国を統治することになることを暗示していると言って良いだろう。御国の管理人である(黙示録20章6節参照)。

次に、不忠実なしもべが描かれる(45,46節)。「もし、そのしもべが心の中で、『主人の帰りは遅くなる』と思い」(45節)とあるが、不忠実なしもべにとって、主人は愛すべき方でも敬うべき方でもなくなっていて、「いなきゃいい、帰って来なければいい、帰ってくるまでは手を抜いて、自分の好きなようにさせてもらおう。帰って来る頃にまじめな姿を見せればいいだろう」。そう踏んだ。「自分の好きなように生きて、死ぬ間際に信じて信仰を持つというのがいいわよね」と言ったクリスチャンがいるが、その方は、そう言っただけの生活を送るようになってしまった。このしもべは主人の帰りが遅くなると思い、下級のしもべたちと乱痴気騒ぎに興じてしまったようである。腰に帯を締めるどころの話ではない。究極のだらけにまで行ってしまった。このような人物がやがて現れることを、ペテロは告げている。「まず第一、心得ておきなさい。終わりの時に、嘲る者たちが現れて嘲り、自分たちの欲望に従いながら、こう言います。「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか」(第二ペテロ3章3,4節)。

主人のこと心あらずで、利己的で、自分のことにばかりエネルギーと時間を使うこのような者たちへのさばきは厳しいものとなる。「そのしもべの主人は、予期していない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ報いを与えます」(46節)。「厳しく罰し」と訳されていることばは、新約聖書でここにしか使われていないことばで、原意は「真っ二つに切る、切り刻む」という意味で、厳罰が下ることを表すことばである。忠実なしもべは主人に認められ報酬は大きいが、不忠実なしもべは報酬がないどころか、厳罰が下る。「不忠実な者たちと同じ報いを与えます」ともあるが、「不忠実な者たち」にマークが付いていて、欄外注を見ると、別訳「信じない者たち」とある。つまりは、主を信じない者たちに与えられる報いと同じ厳しい報いが与えられるという結末を迎えることになるのである。

さて、これまでのたとえから明らかのように、私たちに求められていることは、常に主イエスの来臨を待ち望む目覚めた姿勢とともに、日頃の忠実さである。どうすることが忠実であるのかは主が決めることなので、主の御思いを知っておくことが肝要である。主の御思いをあまり知らずして、独り合点で動いてしまうことがあるだろうし、主の御思いを知りながらも動かない、やらないということもあり得る。47,48節は、その人への報いは、主の御思いを知っていたのか知っていなかったのかも焦点になることが告げられている。「主人の思いを知りながら用意もせず、その思いどおりに働きもしなかったしもべは、むちでひどく打たれます。しかし、主人の思いを知らずにいて、むち打たれるに値することをしたしもべは、少ししか打たれません。多く与えられた者はみな、多くを求められ、多く任された者は、さらに多く要求されます」。ここに、「主人の思いを知りながら」「主人の思いを知らずして」といった表現があるが、新米のしもべは、何が何だかあんまりよく分からなくて、おたおたして失敗を犯す。ベテランになればなるほど、うちの主人はこれを願っているんだと主人の思いが分かるようになるはずである。私たち信仰者の場合、主の御思いはどこにあるのか、それを、みことばを通して探るわけである。先輩の信仰者に聞いたりもする。正しく教えてもらえないということも起きる。どれだけ主の御思いを知っているかは、人によって差が出て来ることになる。そして、知れば知るほど、その人の責任というのは増す。その責任を果たしたかどうかで、その人の評価が決まる。知っているのにやらないというのは一番まずい。「むちでひどく打たれます」という仕置きでそのことが描写されている(47節)。知らなかったのでやらなかったというのは、やらなかったということで良くないことなのだが、知らなかったということにおいて責任は軽くなり、「少ししか打たれません」という仕置きで終わる(48節前半)。

聖書を見ると、知っているのにやらない、言わば故意の罪は刑罰が重くなることが記されている。それに対して、知らずに犯した罪は刑罰が軽いことが記されている。

「この国に生まれた者でも、寄留者でも、故意に違反する者は主を冒瀆する者であり、その人は自分の民の間から断ち切られる」(民数記15章30節)。「また、もし人が罪に陥っていて、主がしてはならないと命じたすべてのうち一つでも行いながら自覚がなく、後になって責めを覚えるなら、その人はその咎を負う」(レビ5章17節)。

皆さんも、知らずにやってしまったということがいろいろあるだろう。交通標識を見落としてということがあるだろう。言われていたのに忘れてしまっていたということも良くある。人に教えられて気づくわけである。また、それまで罪意識もなくやっていたことが、聖書を読んで罪だと知った、ということもいろいろあるはずである。

私たちをしもべの立場に置く場合、主イエスは、その人、その人に、「わたしがあなたにして欲しいことはこれだ」と個別に託されることがある。主人があるしもべに、「あなたは私が帰って来るまで、畑を一町分、開墾しなさい」と命じたら、大変でもそうしなければならない。こんなに広い面積と思っても、それが要求されている。このしもべの責任は大きい。主人は別のしもべには、虚弱なやぎ一頭の世話を託すかもしれない。このしもべは、主人が当たり前にやってくれるだろうと思っていた世話を手違いでやっていたために、主人の帰る前に死なせてしまうことが起きるかもしれない。この場合、故意にやったことではないわけだが、主人に託されていたということにおいて、責任そのものは発生している。どのしもべに、どれぐらいどう託すかは、主人が決めることである。しもべの働きはそれぞれ違っても、主人はしもべに、求め、託し、要求する。それは当たり前のことである。「多く与えられた者はみな、多くを求められ、多く任された者は、さらに多く要求されます」(12章48節後半)。この原則がある。しもべ側に立つと、どのしもべであっても、大切なことは忠実さということである。責任をどう受け止め、どう果たしたか。主人の最終評価はそれで決まる。

ヨハネの福音書21章に主イエスとペテロの会話があるが、主イエスがペテロに苦難の人生を歩むことになると告げられた後に、「わたしに従いなさい」と命じられている。ペテロはその時、自分の後ろにいたヨハネのことが気にかかり、「主よ、この人はどうなのですか」と尋ねる。主イエスは、「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」(22節)と言われている。人はそれぞれ進むべき道が違う。主に託されていることが異なっている。人は人である。私たちは、それぞれが忠実なしもべとして歩んでいきたいと思う。主の再臨を待ち望みながら、そうしたいと思う。