今日の箇所は「愚かな金持ちのたとえ」として知られている。私が大学生の時、複数の大学の大学生クリスチャンたちが協力し、講演会を主催した。その時、クリスチャンの大学教授に伝道メッセージをしていただいたが、今日の「愚かな金持ちのたとえ」から語ってくださった。たとえ話には作物、穀物のことが出てくるが、その教授は農学が専門の教授で、どれだけ蓄えても物でいのちは買えないというお話を、熱を込めて語ってくださったことを覚えている。

最初に、ノルウェーの詩人、アルネルガー・ボルグの詩を紹介したいと思う。お金への信仰の空しさを表現している。

食物はお金で買えるが、食欲は買えない。

薬はお金で買えるが、健康は買えない。

ベッドはお金で買えるが、睡眠は買えない。

化粧品はお金で買えるが、美しさは買えない。

別荘はお金で買えるが、喜びは買えない。

快楽はお金で買えるが、喜びは買えない。

友だちはお金で得られても、友情は得られない。

使用人はお金で得られても、忠実さは得られない。

静かな日々はお金で得られても、平安は得られない。

 

意味深い詩であるが、もう一つ付け加えるならば、「永遠のいのちも天の御国もお金では得られない」。

「愚かな金持ちのたとえ」を見ていく前に、背景を簡単に話しておこう。1節を見ていただくと、「数えきれないほどの群衆を前にして、主イエスは「まず弟子たちに話し始められた」。ところが、13節で「群衆の一人がイエスに言った」とあるように、群衆の一人が話に割って入ったので、弟子たちへの話は中断してしまった。それが21節まで続くという流れである。

群衆の一人は、遺産相続の分配上のトラブルをめぐって、主イエスに調停を願い出た。こうした問題で頭を悩ませた経験のある方もおられるだろう。主イエスは調停人になることを14節で断っているが、この人の願いそのものは、当時ありふれたものであった。ユダヤ教の指導者はこうした問題を引き受けるのが常であった。祭司、レビ人といった階級は、この種の裁判、調停をするように旧約聖書の律法で命じられている。また新約聖書で頻繁に登場するパリサイ人と言われる人々は、町々に会堂を建てて、そこで「小サンヘドリン議会」というものを作って、民事訴訟などを処理した。ユダヤ教の指導者層は、こうした問題を当たり前に引き受けていた。群衆の一人は、主イエスを「先生」と呼んでいるが、主イエスに同じようなことを期待したことがわかる。

主イエスが調停を断ったというのは、ええいめんどうくさいということではなく、主イエスが進められている働きは、遺産の分配、財産の所有、そうした関心のレベルから人々解き放って、もっと大事なことに心を留めさせることにあったからである。遺産の分配のことで主イエスに調停を願ったこの人は、巧妙にだまされたとか不当な扱いを受けたと感じて、損得のことで頭が一杯になっていたかもしれないが、彼はもっと大事なことに気づくべきであった。それはいのちの問題である。

「いのち」は財産以上に大切である。主イエスは人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです」(15節)。「財産」と訳されていることばは、「所有しているもの」「持っているもの」が直訳となる。「持ち物」と訳す聖書もある。財産家でなくとも、誰しもが何らかしらの持ち物はあるだろう。この「所有しているもの」「持っているもの」がもっとたくさんになることを願うのが人間の性(さが)である。遺産相続の時など、それが如実に現れる。ある人は「遺産があると、99パーセントの人が狼になる」と言った。つまりは、主イエスが「警戒しなさい」と言われた「貪欲」が牙をむくわけである。そして争いも起きる。

主イエスは、人々が執着する、いわば「モノ」から「いのち」は生じないことを知ってほしい。でも、私たちは思うだろう。いのちを存続させるには食べ物も着る物も必要だ、生活費は欠かせないと。「その人のいのちは財産にあるのではない」なんて極端すぎると。そもそも、「いのち」とは何だろうか。良く使うことばであるが、「いのち」は多様な意味を持つ。実は、新約聖書の原語において、「いのち」を意味することばが幾種類かあるが、今朝は三つ紹介しよう。一つは<ビオス>。これは、いかに長く生きられるか、いかに豊かな生活ができるかといったいのちのことで、ルカ8章14節では「生活」と訳されている。「生活」は生きて活動すると書く。生きて活動しているということがいのちあるということ。生きて活動するためには、食べる物、着る物は欠かせず、それらは生きることに直結してくる。人が生きていくためには、やはり、金が必要だ、モノが必要だ、となる。確かにそうである。生きることと、生きるに必要なモノとは切り離せない。いのちとモノとは切り離せない。モノがなければ飢えと裸で、人の一生はあっけなく終わってしまう。だから、「俺に必要なのは神ではなく金だ」ということばも聞くわけである。では、15節の主イエスのことばは、まちがっているのだろうか。

実は、15節で言われている「その人のいのちは財産にあるのではないからです」の「いのち」とは<ビオス>ではなく<ゾーエー>ということばである。これは根源的ないのちを指すことばである。もともと神が持っているいのちを指すことばである。聖書において、人間を造られた創造主であられる神が「いのち」また「永遠のいのち」と言われている。だから、この神との関係から切り離されていることが「死」と定義される。いのちそのものである神を知らない、神との関係が切れているという状態であるならば、心臓が動いていても死んでいるとされる。生活している、何しているといっても、死んでいるとされる。食べ物に困らず、いくらモノを豊かに持っていても死んでいるとされる。そうであるならば、「人のいのちは財産(持ち物)にあるのではない」ということは確かであって、真実は、「人のいのちは神にある」ということになる。それを理解してもらうために、主イエスは「愚かな金持ちのたとえ」を語っていかれるが、その前に、「いのち」と訳せる三つ目のことばを紹介しておく必要がある。

いのちと訳せる三つ目のことばは<プシュケー>である。20節の「愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる」の「たましい」ということばにマークが付いていて、欄外注を見ていただくと、別訳「いのち」となっている。<プシュケー>は人間を構成する霊的要素に強調が置かれている。聖書から、人間はたましいと肉体で構成されていることがわかる。肉体からたましいが取り去られる時がいのちが取り去られる時である。その時、人は物理的な死を迎える。次回の箇所の、ルカ12章22節でも<プシュケー>が登場する。ご覧ください。「何を食べようかと、いのちのことで心配したり、何を着ようかと、からだのことで心配するのはやめなさい」。ここで「いのち」と訳されていることばが<プシュケー>である。ここで、心配することはないと言われているいのちは、地上で死を迎えるまでのいのちのことである。主イエスは、あなたがたは地上でいのちある間、様々な心配があるだろうが、烏をさえ養い、草花さえ装ってくださる神におゆだねして、まず御国を第一に求めるようにと、説教されることになる。心配する必要はないよ、神の養いに信頼しなさい、神が生かしてくださるよ、ということである。神は、私たちの死んでからのことしか関心がないお方ではなく、地上でのいのちや生活にも関心を注いで養ってくださるお方である。

今日の15節で言われているいのちは、地上でのいのちや生活を越えた、生死に左右されない、もっと本質的ないのちのことである。根源的ないのちのことである。神のいのちのであり、神が下さるいのちのことである。このいのちをいただいた人は、永遠のいのちをいただいたということになる。だから、その人は死んでも生きるのである。天の御国で生きるのである。

では、16節以降のたとえを見ていこう。金持ちの畑が豊作となる。17節で「彼は心の中で考えた」とあるように、独白を始める。「どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう』」(17,18節)。彼は先読みしている。そして計画的に事を運ぼうとしている。備えあれば憂いなしを実践しようとしている。実に賢い金持ちに思える。いったいどこがいけないのか。模範的にさえ思える。

彼の問題は19節で明らかになる。「そして、自分のたましいにこう言おう。『わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ』」(19節)。最後は「食べて、飲んで、楽しめ」と、息せき切って、三つ連続して自分に命令するという、まさしく、所有しているもの、持っているもの、財産の中にいのちがあり、幸せがあるかのような独白である。

彼は自分のことを賢い者と思っていたかもしれないが、神の目にはとんだ愚か者である。「しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか』(20節)。彼は幾つかの点で間違っている。四つ挙げてみよう。第一に、彼は自分が死ぬべき者で「これから先何年も」生きられるとは限らないということを認知していない。神は、「今夜おまえからいのちは取り去られる」と宣言してしまう。彼が蓄えたものは彼のために用をなさない。以前、死を宣告された金持ちが医者に札束を差し出した話をしたことがあるが、それで死の宣告は変わることはなかった。

第二に、彼は自分のたましいの面でもまちがった認知の仕方をしている。十二分な食物、豊かな食物、それがたましいを満たす、満足させると思い違いしている。だが現実は、そうはならない。それは一時の勘違いにしかすぎない。彼は死を前にしては驚愕しかなかっただろう。

第三に、彼は全くのエゴイストで、神を神としていない。彼の独白を聞いていると、「わたし」ということばの連発となっている(原文で「わたしは」が8回、「わたしの」が4回)。わたし、わたし、わたし、である。わたしに注目して訳してみよう。「わたしはどうしよう。わたしは、わたしの作物を蓄えておく場所が、わたしにはない。そして彼は言った。『わたしはこうしよう。わたしはわたしの倉を取り壊し、わたしはもっと大きい倉を建て、そしてわたしは、わたしの穀物や財産をみなそこに蓄えておこう。そしてわたしは、わたしのたましいにこう言おう。たましいよ、あなたはこれから先何年分もたくさんの財を築いた。さあゆっくりして、食べて、飲んで、喜べ』」。たとえ話の金持ちはまちがいなく、神に感謝もせず、神を神としていない。神のことは一言も口にしていない。このたとえ話は、一応、神を信じているという人たちに向けて語られている。すべてのものの主権者であり、恵み豊かな与え主であられる創造主なる神を信じている文化において語られている。でもこの金持ちの口からは、神のカの字もない。全部俺の力でやった、俺のおかげだ、俺のためにすべてはある、とオレオレ主義である。神への感謝はおくびにも出さない。「神をほめよ、我がたましいよ。神に感謝せよ。神が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」という精神とは程遠い。彼は、財を用いて神と人のために尽くそうということはなかっただろう。まさしく、21節で「自分のために蓄えても神に対して富まない」と言われている通りである。

彼の喜びは、自分が得たもので他者の必要を満たすことにはない。全くの自己中心で、関心はひたすら自分を喜ばすことだけ。わたしは、わたしの、わたしに、わたしのもの、わたしを、と自分を喜ばすことだけである。ある金持ちの実話だが、大富豪になるまで、休日もなく、友人もなく、ただひたすら大金持ちになる執念をもって働いた結果、衰弱してしまった。お金は腐るほどあるのに、重い皮膚病と憂鬱症になって苦痛の日々を送り、食事は一日にビスケット数枚と水一杯だけになってしまったそうである。そんな時、彼は牧師を尋ねて相談した。牧師はこう助言した。「あなたは今までお金儲けのために努力して疲れ果て、精神と肉体が衰弱しましたね。これからは他人のために施し、仕える人になってはどうですか」。彼はこれを実践し、人生は喜びで満たされていったそうである。私たちは、誰のために生きるのか、何のために生きるのか、確認したほうがよさそうである。幾多の困難を乗り越え、65歳でケンタッキーフライドチキンを創業したカーネルサンダースのことば、「人をしあわせにすることに引退はない」は本当である。

第四に、彼は滅びの運命に定められていることを認知していない。彼は地上での生活のことしか頭にない。物欲に支配されて生きている。結局、彼の問題は、貪欲であり、モノへの執着である。そこにいのちがあるかのような愚かな生活である。彼の最後は滅びであり、永遠の死である。次のような寓話がある。ある金持ちが人生という海辺に立っていた。向こう岸は天国だった。その時、ひとりの天使が現れて、向こう岸へ行くためには、このイカダに乗って漕いでいかなければならないと言った。そのイカダに金持ちは自分の全財産を積み上げた。天使は注意した。「このイカダはたいへん古いものですから、そんなに荷物を積むと沈んでしまって、向こう岸へは行き着けないかもしれません」。けれども金持ちは耳を貸さない。お金の箱、宝石の箱、骨董品、美術品、衣服、食べ物、これらの品物を全部積んで海を渡り始めた。しかし間もなく大波が押し寄せて来て、イカダを打ち、彼とモノを乗せたイカダは沈んでしまった。彼は、まさしく、モノにいのちがあるかのような愚かな態度を取ったわけである。

今日、一番お伝えしたいことは、信仰を持っておられる方々にも確認していただきたいことであるが、神にいのちがあり、人のいのちは神にあるということである。参照箇所を幾つか、ヨハネの福音書から挙げさせていただく。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、死からいのちに移っています」(ヨハネ5章24節)。神のいのちとは永遠のいのちである。いのちである神との関係を失っていることが死である。だが、キリストを信じ、神を信じる者は死からいのちに移される。永遠のいのちを持つ。

キリストはいのちそのものである神である。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」(ヨハネ11章25節)。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはありません」(ヨハネ14章6節)。キリストは、ご自分がいのちであることを明言している。

キリストが与えるいのちは、単に永遠という性質を持つだけではなく、私たちを満足させるいのちである。「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」(ヨハネ4章14節)。キリストが与えるいのちが水にたとえられているが、「決して渇くことがありません」に注目していただきたい。これが神のいのちの一つの特質である。ルカ12章15節の「貪欲」ということばはこれと正反対で、もっと持つことへの渇きを意味することばである。もっと、もっと、さらにもっと、と渇き求める。それは塩水を飲み、渇き、また飲み、渇きを繰り返すようなものである。だが、神のいのち、キリストが与えるいのちはそれと正反対の性質を持つ。キリストは次のようにも言われている。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」(ヨハネ6章35節)。キリストはまことの食物であり、永遠に満たしを与える食物である。

最後にこのことばを紹介しよう。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17章3節)。このようにして聖書は、私たちを神のいのちに招いている。永遠のいのちに招いている。満たしを得るいのちに招いている。

今日の教えから、人のいのちは財産にはない、持ち物にはない、モノにはないということを汲み取ろう。人のいのちは神にある、神のキリストにあるということを汲み取ろう。だから、この地上の人生で神を第一に求めていきたい。次回は、神を第一に求める人の生活とはどういうものなのかを、ご一緒に学ぼう。