イースターおめでとうございます。イースターは、トンネルを越えるとそこは雪国だったではなく、トンネルを越えるとそこはうららかな春の光が射す世界だったというイメージを与える。キリストは春の日曜日の早朝によみがえられた。キリストの復活は、死からいのちへ、悲しみから喜びへという逆転劇をもたらした。聖書を外した時間軸で地上の人生を見てしまうと、いのちから死へ、喜びから悲しみへ、となってしまう。人生のトーンが暗くなるイメージである。地上の生涯は死で終わるからである。あの人もこの人も死ぬ。わたしも死ぬ。いや、すべての人が死ぬ。けれども、そこでジ・エンドとならないのが聖書の教えである。今年のイースターは詩篇90編を中心に見て、死で終わらない人生があることを、ご一緒に味わいたいと思う。

この詩篇は、神さまとはどのようなお方なのかを伝えることから始まる(1,2節)。初めに2節をご覧ください。「山々が生まれる前から、地と世界をあなたが生み出す前から、とこしえからとこしえまで、あなたは神です」。神とは永遠の神であることが言われている。永遠とは何だろうか。人間の限られた一生とは反対である。神はいつから存在されたのか。山々が生まれる前から、それどころか地球があるこの銀河系が生まれる前から、永遠の昔から存在しておられた。そしてこれからも永遠に存在しておられる。人間がこの地球に存在する時間など、神の永遠という長さの億分の一ミリにもならない。私たちは、「とこしえからとこしえまで」、すなわち永遠から永遠までということをイメージするのは難しい。初めもなく終わりもなく存在されるということをうまく理解できない。有限な存在の人間が無限の神を理解すること自体、困難を極める。だが、有限な存在の人間に無限の存在の神を理解できるなら、もはやそれは神とは言えないのではないかと思う。神は人間の知恵も力も超越し、時間さえも超越した永遠の神であり、創造主である。永遠のはじめに存在していたのは神であり、終わりのない永遠まで存在するのが神である。

さて、この詩篇の作者は、この神との関係を大切にして生きることが人の幸せなのだと1節で語っている。「主よ、世々にわたって、あなたは私たちの住まいです」(1節)。この詩篇の作者は表題にあるように「モーセ」である。モーセをご存じだろうか。映画の主人公にもなった過去の偉人である。モーセは今から四千年前の人物で、イスラエルの民の偉大な指導者であった。イスラエルの民はかつてエジプトで200年以上に渡って奴隷として苦難の生活を強いられていたが、モーセをリーダーとしてエジプトを脱出する。そして荒野で40年間旅をすることになる。旅なので定住ではなく、テント住まいである。この旅の間、敵の攻撃、野獣との遭遇、疫病、照りつける太陽の下で食料と水の確保の困難さを味わうことになる。これが40年間続いた。モーセの人生の後半は、旅人としての人生だった。しかも荒野という厳しい環境で。そこは店一軒あるわけではない。宿が一軒あるわけではない。サバイバルの人生である。そのような彼にとって、神は私たちの住まいであるという告白は、実感のこもったものであっただろう。神は拠り頼むことができるお方で、このお方の中に守りがあり、安らぎがある。このお方こそマイホームで、永遠に朽ちることのない私たちの家なのだと。

続く3~5節では、神とは対照的な人間のはかなさが言われている。「あなたは人をちりに帰らせます。『人の子らよ、帰れ』と言われます」(3節)。「人をちりに帰らせます」で、人間の死を表現している。人間は死ぬ者でしかない。これは神の永遠性と対比される。人の生涯は短い。そして「ちり」ということばで、人間は土くれにすぎないことを教えている。神はアダムに対して、こう言われている。「あなたは額に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ」(創世記3章19節)。文明が進歩した現代でも、この現実は変わらない。人間は超人でも神でもない。神に造られた土の器にすぎない。そして、そのいのちは短い。

それに対して、神はどうだろうか。「まことに、あなたの目には、千年も昨日のように過ぎ去り、夜回りのひと時ほどです」(4節)。神にとっては千年も一日のよう。「夜回りのひと時」とは、具体的には4時間である。永遠の神にとっては千年もその程度の時間感覚となるのだ。だから、私たちの人生の長さは、神の前では一瞬の出来事でしかなくなる。パッで終わりである。

「あなたは押し流すと、人は眠りに落ちます。朝には草のように消えてしまいます。朝、花を咲かせても、移ろい、夕べにはしおれてしまいます」(5,6節)。「眠り」とは死の描写である。中東では熱風が吹くことが多く、先ほどまで咲き誇っていた草花が、短時間であっという間に枯れてしまうことが良くあった。それを人の人生にたとえているわけである。人のいのちのはかなさ、もろさ、つかの間の人生というのは、他の聖書箇所でも描写されている。「女から生まれた人間は、その齢が短く、心乱されることで満ちています。花のように咲き出てはしおれ、影のように逃げ去り、とどまることがありません」(ヨブ14章1,2節)。「あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です」(ヤコブ4章14節)。皆さんがご存じのシェークスピアも、マクベスという歌劇で、次のようなセリフを与えた。「人の一生は歩き回る影(影法師)にすぎない。あわれな役者だ。舞台の上で大げさに動いて、声張り上げて、出番が終われば消えるだけ」。

詩篇の作者は、この消えてしまう根本的理由について語ろうとする(7~11節)。この区分で頻繁に登場する表現が「御怒り」「激しい怒り」といった表現である。神の怒りが繰り返し言われている。こうした表現から目を背けてしまいやすい私たちだが、詩篇の作者は、人がほんとうに幸せになるために目を背けてはならないと、繰り返し語っている。この中に、怒ったことがないという人はいるだろうか?神が怒る理由は私たちの罪にある。「あなたは私たちの咎を御前に、私たちの秘め事を、御顔の光の中に置かれます」(8節)。「咎」は罪のことである。「秘め事」だが、ある訳は「隠れた罪」と訳している。人の目からは隠されていても、神の目から隠れることはできない。隠れた思い、隠れた行為、それが何であっても神はご存じで、神はそれらの罪に対して怒り、裁くお方である。闇に隠れてしたことでも、神の光によってあばかれ、それにふさわしい裁きが下る。神は生きておられ、神は見ておられる。そして正しく裁く権威を持っておられる。国のリーダーであっても、人を裁く裁判官さえも、やがて神の前に立つ時が来る。このように言われている。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(へブル9章27節)。

この裁きについてもう少し説明しておこう。関連するみことばに「罪の報酬は死です」(ローマ6章23節)とある。「報酬」とは賃金のことで、罪の支払う賃金は死ということである。それでしかない。これは災いである。では、「罪の報酬は死です」の「死」とは何だろうか。それは二つに分けることができるが、まず肉体の死そのものが入る。宗教改革者のルターはこう述べている。「人間は死すべき者として造られていなかった。人間の場合、死は、罪の刑罰として与えられたものである」。モーセもそれを理解しつつ、次のように告げている。「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは、労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります」(10節)。「七十年、八十年」とは平均寿命のことを言っているのではなく、当時にあっての長寿の表現である。長寿と言っても、わずかの瞬く間の人生である。その人生の中で刈り取るものの多くが労苦と災いである。そして、死という最大の災いを刈り取ることになる。

私たちは、こんな人生なら生まれて来ないほうが良いのではないか、と後ろ向きにもなってしまう。また、「どうせ明日は死ぬのだ、飲めや騒げ」の人生を送ろうとなってしまう。自分の欲のおもむくままに生きようとなってしまう。だが、肉体の死のほかに、もう一つの死があることを覚えておかなければならないのである。人は肉体の死を迎えて終わりではなく、死後にもう一つの死を迎える。それは、たましいの死とも言えるもので、永遠の死である。聖書では永遠の刑罰という表現もされている。「罪の報酬は死です」という場合、罪に対する最終審判である、この永遠の死、永遠の刑罰も意味されている。

「だれが御怒りの力を、あなたの激しい怒りの力を知っているでしょう。ふさわしい恐れを持つほどに」(11節)。ここで暗に言いたいことは、罪を裁かれる神を恐れなさい、ということである。死んだ後には何もないと考えている人は、神を恐れることはしないだろう。結果、罪を罪とせず、自分の好きなように生きる人生を送るだろう。

詩篇の作者は、神の御怒りを知っている者として祈りのことばを記す。「どうか教えてください。自分の日を数えることを。そうして私たちに、知恵の心を得させてください」(12節)。これは、あと何年生きれるのかなと数量的に日を数えて終わりではなく、神を恐れて一日一日を大切に送ることへの願いである。人生の残り少ない日々を、神を恐れる謙虚な姿勢で生きていくことである。しかし現実は、多くの人が死についてさえ考えることもないだろう。ルターは次のように言っている。「すべての人の心は死の恐怖におののかなければならない。ところが、実際のところ、一万人のうち、これについて考える人は十人にも満たない。ほとんどの人々は、死もなく、また、神もないかのような人生を送っている」。ルターの言う「死もなく、神もないかのような人生を送っている」、それは、現代でも同じではないだろうか。人間には驕りがあるのではないだろうか。

さあ、後半は、13節以降から、神が与えてくださる救いについてご一緒に見ていこう。神は私たちの罪に怒りを燃やし、滅ぼし絶やすことを願っておられるのだろうか。そうではない。神はあわれみ深く、情け深く、怒るのに遅いお方。13節では「あわれんでください」と神のあわれみに訴えている。14節には「あなたの恵みで」とあるが、恵みは旧約聖書で神の愛を現す用語である。恵みとあわれみの神は、私たちの罪を赦す道を備えられた。作者のモーセはここで、荒野でのつらい日々を思い返しつつ、悩み悲しみから解き放たれた生涯を神が与えてくださることを願っている。私たちはこの箇所を、キリストの復活を通して新しく読み込むことができる。キリストの復活の前には、キリストの十字架があった。皆さんは、キリストが十字架についたことをご存じだろう。十字架とは極刑の手段で、罪ある者を厳正に裁くための手段である。それは死の刑罰である。キリストは十字架についた時、私たちの罪を負ったと聖書は証言している。「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた」(第一ペテロ2章24節)。そのことにより、キリストは神の御怒りの下に身を置くことになった。キリストが十字架について後、十二時から午後三時まで全地が暗くなったとある(マルコ15章33節)。まだ夜の時間帯ではない。罪に対する神の激しい怒りがキリストに向けられていたのである。天空の暗黒がそのことを示していた。そして午後三時に絶命した。私たちの罪のための身代わりの死である。私たちの死を死なれたのである。「罪の報酬は死です」をキリストが受けられたのである。それが金曜日。そして三日目の朝、日曜日の早朝、キリストは死からよみがえられた。

「朝ごとにあなたの恵みで私たちを満ちたらせてください。私たちのすべての日に喜び歌い、楽しむことができるように」(14節)。朝に関するもう一つの箇所を紹介しよう。「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」(詩篇30編5節)。まさにキリストの復活はこれをもたらしたのである。悲しみにくれ、絶望感に浸っていた弟子たちは、日曜日の朝に驚きの事実を告げ知らされることになる。最初に女弟子たちがまだ薄暗い中、墓に向かったが、墓は空であった。御使いは宣言した。「ここにはおられません。よみがえられたのです」(マタイ28章6節)。驚きとともに、喜びが彼女たちの全身を走った。これが真の喜びのスタートだった。そして、この喜びは弟子すべてに広がっていった。復活のキリストと会見した弟子たちは、晴れやかな顔となり、死を恐れない者たちへと変えられていった。「キリストは死からよみがえられた。キリストを信じる者に罪の赦しと永遠のいのちが与えられる」というメッセージが広がっていった。

初めのほうで述べた、「罪の報酬は死です」には続きのことばがある。「しかし神の賜物は、私たちの主キリストにある永遠のいのちです」(ローマ6章23節)。「神の賜物」とは、「神のプレゼント」ということである。それが永遠のいのちである。無償でこれが与えられる。キリストは十字架にかかる前に、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」(ヨハネ11章25節)と宣言されていたが、このいのちが与えられる。「自分の一生は、ほとんどが労苦とわざわいで短く、墓場で終わる」と嘆いている人も、「やり直したくても、もうどうすることもできない過ちの人生を送ってしまった。死後に望みはない」と嘆いている人も、キリストの復活に望みを抱くことができる。それは、罪の赦しとともに永遠のいのちが与えられるという希望である。

わたしは幼い頃から、この地上での人生がすべてではないはずだ」という感覚をもって生きて来た。それは、「死ですべてが終わるなら、人生なんてあってもなくても大して意味はない。けれども、そんなはずはない。人間は死ぬために生まれてきたのではないはずだ」と心の中で思っていたからである。目に見える現実は死で終わってしまうということはわかっていたが、この地上での生活が人の最期であってほしくないと思っていた。高校生の時、聖書には天の御国とか、永遠のいのちといった教えがあり、興味を惹きつけられた。しかしながらキリストにつまずいた。罪からの救いが必要であり、キリストを救い主と信じなければ救いはないという教えに納得するまで、数年時間かかった。なぜ十字架についてよみがえったというお方を信じなければならないのかと。なぜ聖書はキリストを信じることにこだわるのかと。しかし、ある時、自分が罪人にすぎないことを素直に認めることができたとき、キリストの十字架という身代わりがなければ自分の罪は赦されないことを素直に信じることができた。また、キリストが復活しなければ、永遠のいのちはただの願望で終わってしまうこともわかった。確かに、十字架で死んで墓に入って終わった死人を信じても、そこに永遠のいのち希望は生まれない。だが、事実は、キリストは死からよみがえった。死を征服した。

永遠のいのちをいただいた人は、墓に入って人生が終わるという終末観を乗り越える。この確かな希望が人生の力となる。また、それだけではない。死からよみがえられたキリストが私の人生の同伴者となってくださると、信じることができる。一人で孤独に肉体の衰えも感じながら、右往左往して生きていくのではない。確かな道連れが人生の重荷をともに担って歩んでくださる。「私たちのすべての日に喜び歌い、楽しむことができるように」という願いは現実のものとなるのである。

16,17節は、新しい生活の決意である。そのために神の助けを呼び求めている。印象的なのは「私たちの手のわざを確かなものしてください」という願いを二度繰り返していることである。詩篇の作者は、残された人生のために祈り求めている。それは、これからの日常生活を空しく生きることがないように、神のお心にかないやっていけますようにという祈りである。私たちも同じ心持ちでいたい。何のために生きているのかわからないような人生は、キリストとの出会によって終わりである。キリストによって人生の夜明けを経験できるのである。「新しい朝」を迎えるのである。

興味深いことには、聖書の一日の時間の巡りは、「朝があり夕があった」ではなく、「夕があり朝があった」である。希望の朝に心を向けさせてくれる。キリストが死の闇を打ち破って朝に復活したということは、やがて死の眠りで終わることのない、永遠の朝の訪れを告げるものだった。同時にキリストの復活は、毎日の生活に空しさや閉塞感や、おどろおどろしい闇を感じて生きている私たち罪人にとって、夜明けを告げる光となってくれるのである。キリストの復活の光が私たちの希望である。キリストは暗闇を、死を打ち破ってくださった。今日、ともにキリストの復活に感謝したいと思う。