受難週を迎えた。キリストの受難は想定外のこととして起こってしまったことではなく、神がそのように定められ、旧約時代にすでに預言されていたことであった。本日はイザヤ書より、キリストが私たちを罪から救うために神のしもべとして歩んでくださったことを、ご一緒に見たいと願っている。

まずイザヤという人物だが、イザヤは貴族の階級にあったと思われる人物で、彼の預言者としての召命の記述は6章にある。そこを見ていただくと、預言者として召されたのは「ウジヤ王が死んだ年」(1節)ということで、紀元前740年頃である。この頃、彼が住んでいた国、エルサレムを首都とするユダ王国は堕落していた。神に背くことが常態化していた。彼はそのような時、神殿において、高く上げられた王座に着いておられる「主を見た」(1節)。主を見て、「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ」(3節)という賛美も聴くことになる。イザヤの最初の反応はどうだっただろうか。彼は主の栄光を見、主の臨在に触れ、自分が罪に汚れた者であることを直感し、「ああ、私は滅んでしまう」と言った(5節)。使徒ヨハネは後に、イザヤはこの時、主イエスの栄光を見たのだと語っている(ヨハネ12章41節)。イザヤが見た栄光の御座に座すキリスト、聖なるキリスト、そのお方がイザヤの召命から七百数十年後に、人の姿となって来られ、十字架につくしもべとしての人生を選び取られることになる。

本日の箇所は、「しもべの歌」と呼ばれることが多い。そして、これは誰のことを言っているのかと議論されるが、この箇所の新約聖書への引用からも、主イエス・キリストに焦点が当てられていることは間違いない。ご存じのように、イザヤ書はキリスト預言で満ちている。

では、今日の42章の箇所に目を落とそう。「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ」(1a)。「見よ」と、注意が喚起されている。語り手は神なわけだが、メシアが「神のしもべ」とされている。これまで、聖書において「神のしもべ」と言われてきた人物には、アブラハム、モーセ、ダビデなどがいる。ダビデは王であったが、神によって、「わたしのしもべダビデ」と言われている(第二サムエル3章18節)。ご存じのように、メシアはダビデの家系から出現することが定められていた。メシアは王として諸国を治めることが期待されており、今日の箇所でも、神のしもべは王であることが十分に暗示されている。だが、42章で啓示されている王は謙遜なのである。「しもべ」という自覚のゆえである。主イエスのことばをご紹介しよう。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべとなりなさい。人の子も、仕えられるためにではなく仕えるために、また多くの人の贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです」(マルコ10章43~45節)。

「わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者」(1b)。主イエスが公生涯の初めに、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けた時、天からかかった声を思い起こす。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」(マルコ1章11節)。

「わたしは彼の上にわたしの霊を授け」(1c)。主イエスがバプテスマを受けられた時に、御霊が鳩のように下られたことを思い起こす(マルコ1章10節)。また、次の記述を思い起こす。「神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなく与えられるからである」(ヨハネ3章34節)。

「彼は国々にさばきを行う」(1c)。「さばきを行う」と聞くと、剛腕な権力者の姿をイメージする。良く見ると、3節では「さばきを執り行う」とあり、4節では「さばきを確立する」とあり、それが全世界の国々に対して言われている。このさばきを行う方とは、歴史に名を馳せたエジプトの王、バビニアの王、ローマ皇帝、スターリン、ヒトラーのような権力者なのだろうか。「さばき」<ミシュパート>ということばの意味をお伝えしておこう。「公義」「正義」と別訳されるが、この言葉は法廷用語で、「救い」ということを法的側面から言い表している。罪や悪がのさばっている状態は救いが必要である。罪や悪をほおっておかず、救いをもたらすのが神のしもべの仕事である。私たちは、不義、不正、無秩序、悪が一掃された、正義が実現した社会を夢見る。これらの不幸の根源は罪にある。神のしもべは、不幸の根源である罪を取り除き、そして新天新地という神の国を実現してくださるお方である。この神のしもべとこの世の指導者との違いは、この世の指導者のように、無法な権力者でない、横暴な独裁者ではないということである。神のしもべは、強権政治で民を圧迫し、社会に混乱をもたらしてきた過去の指導者とは違う。神のことばを語る務めに心を砕き、全くもって謙遜で柔和なお方なのである。

「彼は叫ばず、言い争わず、通りでその声を聞かせない」(2節)。「叫ぶ」と聞くと、大声で民衆をたきつけ扇動する政治家、民衆のリーダーといった人物の叫びを連想する。昔も今も扇動家たちは大路で大声を張り上げ、誇大な自己宣伝をし、民衆を扇動しようとする。だが、主イエスは全く違う姿をとられた。主イエスは確かに民衆の前で説教をされた。それは民衆を扇動するような内容では一切なかった。ただ誠実に、神のことばを語っていかれただけである。民衆が主イエスを王として担ぎ上げようとしたこともあったが、彼らの手から逃れるように、一人退かれてしまうのである(ヨハネ6章14,15節)。バプテスマのヨハネも、身内も、こうした自己アピールのない姿に不思議がるという有様だった。なぜ、もっと、世に自分を現わさないのかと。

しかし、主イエスは、公にご自分を王としてお示しになる時があった。本日は「棕櫚の主日」(パームサンデー)と言って、受難週の最初の日は、主イエスが王としてエルサレムに入城されたことを記念する日でもある。民衆は棕櫚の枝を振って、また道に棕櫚の枝を敷いて、主イエスを歓迎した。しかし、その乗り物はろばの子であった。ふつう、王の乗り物と言えば軍馬である。けれども主イエスは、あえて荷物を運ぶろばの子に乗られた。「見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って」(マタイ21章5節、ゼカリヤ9章9節)。ろばは平和の象徴である。戦いの象徴ではない。そしてこの場面において、主イエスは「柔和な方」と言われている。そのお姿のまま、この週の金曜日には十字架にかけられることになる。主イエスはさして抵抗する様子もなく、この十字架刑に服する。あまりにもおとなしく従順である。どうしてなのかと思うほどに。

主イエスには、この世のリーダーに見られるような自己顕示欲、横暴さ、傲慢の姿は全くないお方である。ご自分のもとに来るように人々を招いた時も、このように言われた。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます」(マタイ11章28,29節)。人々に対して、何と優しいお姿か。このお姿は3節でも描かれている。

「傷んだ葦を折ることもなく」(3a)。パスカルは、「人間は一本の葦にすぎない。自然のうちで最も弱いものである」と言った。葦はそれ自体が非常に弱い植物だが、ここでは「傷んだ葦」とあり、さらに弱い状態になっている。そのような弱い人たちに対して、思いやりと優しさがある。いたわりがある。

「くすぶる灯心を消すこともなく」(3b)。油を入れた器に灯心が浸してある。その灯心の先に火をつけた。火が燃えて行くに従い、先のほうは燃えがらになり、暗くなっていく。そのため、先端を時々切る必要があったが、注意を払って、そっと切らないと、火を消してしまうことがあった。乱暴にやったらいけない。優しく扱わなければならない。灯心を十分に油に浸すことも忘れてはいけない。人間は弱々しく燃えている光、消えかかっている光、暗くなっていく灯心のようなものである。主イエスはそのような人間を乱暴に冷酷に扱わない。

ご存じのように、主イエスは弱い人たち、自分で自分をどうすることもできない人無力な人たち、傷ついて疲れている人たち、人間の中で廃物のように思われている人たち、また信仰の弱い人たち、このような人たちを無下に扱うことなく、いたわりと優しさと忍耐をもって接せられた。主イエスは悲しみにやつれ果てた人々を助け、病める者をいやし、収税人や罪人と言われる人々を見捨てず、嘆き悲しむ者を慰め、恐れている者を励まし、飢えている人々には食物を与え、罪に悩む者には赦しと救いを与えた。信仰者を見れば、ペテロの燈心はほとんど消えかかってしまったことがあった。主を裏切り悲しませたと。だが、彼に回復の機会を設けられた。

「真実をもってさばきを執り行う」(3c)。主イエスは弱い人たちをおもんぱかるだけで、罪や悪に屈してしまうというお方ではない。主イエスは何が罪であるかを教え、悔い改めを説き、神の国とその義とを第一に求めるように説いた。

「衰えず、くじけることなく」(4a)。主イエス・キリストは強いお方である。堅忍不抜の精神をお持ちの方である。「衰える」とは「弱くなる、気力がなくなる」ことを意味することばであるが、そうなりそうでそうならない。「くじける」とは「押しつぶされる」ことを意味することばであるが、そうなりそうでそうならない。十字架に向かわれるあの精神には感動を覚える。そして、十字架ですべてが終わってしまったのではなく、そこでクラッシュされて終わったのではなく、よみがえられた。

「ついには地にさばきを確立する。島々もその教えを待ち望む」(4b,c)。主イエスは、現在も生きておられ、働いておられる。主は「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイ28章20節)と約束されている。私たちを通して、また聖霊を通して、うまずたゆまず働いておられる。そのお働きは前進している。そして、やがての時、神の国が完成する。罪と罪の結果は完全に消し去られ、正義は完全な勝利を治める。公義は地に打ち立てられる。主を知ることが、海をおおう水のように地を満たすことになる。それは主イエスの再臨によって成就する。

以上、見てきた1~4節が「しもべの歌」と言われているが、神のしもべは、柔和、謙遜、優しさという特性を持ちながら、同時に強いお方であるという印象を持つ。続く5~9節も、しもべの歌に含まれる、あるいは関係すると言われている箇所である。ここでは、しもべを用いての神のみわざについて記されているが、6,7節に注目したい。6節では神のしもべが「国々の光」と言われており、7節では「こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、闇の中に住む者たちを獄屋から連れ出す」とある。光と闇の対比で描かれている。国々の光である主イエスが来臨され、この世界は、光と闇という二つの異なる霊性の戦いの場になった。そして闇は光に打ち勝てない。「闇」は「無知、罪、悲しみ、破滅」などの象徴である。また「悪魔」の象徴である。今、光は闇の中に輝いている。そして闇はこれに打ち勝てない。主イエスは、すべての人を照らすまことの光である。有名なキリスト預言にはこうある。「闇の中を歩んでいた民は、大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く」(イザヤ9章2節)。キリストの降誕、公生涯で、これは現実のものとなった。

もう一つ心に留まることは、「囚人」「牢獄」「獄屋」という捕らわれの状態を指す表現である。この状態が闇の中にいるということである。たとい太陽の下にいても闇の中におり、問われ状態の中にいる。そして、この状態は全くの自由を失っている。罪が手枷、足枷となっている。主イエスは、「あなたがたは、わたしを信じなければ自分の罪の中で死ぬ」と語られた後に、「真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8章32節)と、ご自身の働きを告げておられる。「自由」という漢字の語源は「自分の思い通りにふるまう」ということだが、自分の思い通りにふるまっているようで、心も、目も、手足も不自由になっていることがあるだろう。何を思おうが、何をしようが、こっちの自由だろうということばを聞く。けれども裏を返せば、暗闇の牢獄の中で、罪の鎖につながれて、つながれた範囲でしか動けない自由を味わっているようなものである。この自由に満足しない者は幸いである。牢の窓格子から外を見れば、そこには光に照らされた世界が広がっている。主イエスはその世界を見させ、その世界に連れて行こうとした。私たち罪人は、いったい自分は何をやっているんだろう、自分のたましいはいったいどこにあるんだろう、そのようなうめきにも似た内なる声に耳を傾けることから始めなければならない。そして、真の自由への旅たちを願い、キリストに助けを求めるのである。

キリストは捕らわれ状態の人を解放するために、十字架に向かわれた。そこで、ご自身のいのちを代価として支払われた。「捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ」るためである(イザヤ61章1節)。あるアジアの国で、一人の青年が牢獄に入れられていた。賭博といった自分の罪ゆえである。お母さんが面会に来た。お母さんの手はひどく傷ついていた。その訳を聞くと、釈放に必要な代価を稼ぐために、石運びのような重労働に携わっているということであった。彼は後に、お母さんの犠牲によって釈放されることになる。主イエスの場合、その犠牲は十字架であった。先にマルコの引用であったように、十字架につかれたのは、多くの人の贖いの代価としてご自分のいのちを与えるためであった。「贖い」とは、身代金、釈放金を支払って買い取るという意味がある。囚人や奴隷、捕囚となった人が対象となることばである。

最後に、ピリピ2章6~8節を読んで終わろう。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」。キリストの受肉(人の姿をとること)が「しもべの姿」をとったこととして言われている。しもべとは主人に従う存在である。自分の好きなように、やりたいように生きるのではない。主人の命には従うのである。キリストは「十字架の死にまで従われました」と、ここまで従順であられた。むろん、私たちの罪のためである。先ほどの青年は、牢獄を出てから、お母さんの犠牲に応える第二の人生を歩んで行かなければならないと思ったようで、賭博に誘われても以前のように応じることはなくなった。私たちはどうだろうか。私たちは、「キリストのいのち」という贖いの代価によって救われたのである。買い取られたのである。だから、この事実に感謝して、私たちも神のしもべとして歩んでいきたいと思う。