今日の区分は、神を恐れて生きるとはどういうことなのかについて教えられている。ある方は、神を恐れることが終末時代の霊性であると語っているが、そうであると思う。黙示録14章7節では、天中を飛び、全世界に呼びかける御使いのことばとしてこうある。「神を恐れよ。神に栄光を帰せよ。神のさばきの時が来たからだ。天と地と海と水の源を創造した方を礼拝せよ」。

今日の主イエスの教えの流れを確認しよう。主イエスは先にパリサイ人の食事の席に招かれた(11章37節)。そこで主イエスは堂々とパリサイ人批判を始めた。その内容は、主イエスが今日の記事で口にされている「偽善」に関するものであった。そして、11章53節で「イエスはそこを出て行かれると」と場面は変わり、12章1節で、「そうしているうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった」という状況になる。そうした群衆を前にしながら、「イエスはまず弟子たちに話し始められた」と、まずは弟子たちを対象に話し始められる。続いて、群衆を対象に語ることになる。

弟子たちに対する最初の教えは1~3節である。先ほど会ってきたパリサイ人の偽善が取り上げられている。「パリサイ人のパン種、すなわち偽善に気をつけなさい」(1節)。主イエスはパリサイ人の家に招かれて、彼らの偽善を責め立てて来たばかりである。彼らは人の栄誉を求めることに関心を払う。人の目にどう映るかと人目ばかり気にする。内側に醜いものを隠し持ちながら、そうしたことには無頓着で、人目に映る外側をりっぱに取り繕う。人の目に自分を良く見せようとすることにエネルギーを使う。虚栄心がそうさせる。

「偽善」は仮面をかぶった俳優を意味することばである。外と内がちぐはぐで、仮面で内側の悪徳、強欲、邪悪さ、汚れを覆い隠すばかりか、自分を良く見せようとする。それは良い行いともなる。例えばこんな風に。自分が他の人より優れていると見られたいために自分を良く見せようとするかもしれない。つまりは手柄と評判のために自分を良く見せるかもしれない。利得という報酬のために自分を良く見せるかもしれない。人の愛顧を勝ち取るために良く見せるかもしれない。単に法の処罰を恐れてそうするかもしれない。地位の失墜を恐れてそうするかもしれない。その他もあるだろう。以上は、見たところはどれも正しく見える。その行いは良いものとして現れてくる。しかし誠実と正義のためではない。何々のためと言っても、あくまで自分のためである。

神が見られるのは、これまで学んできたように内側である。外側は良く見えても、内側では神を嫌い、聖さを嘲笑し、自分に対抗する者を憎み、復讐心を抱き、意図では盗んだり、むさぼりの罪を犯しているということは良くあることである。「すると、主は彼に言われた。『なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や皿の外側はきよめるが、その内側は強欲と邪悪で満ちています』(39節)

主イエスはこうした偽善に弟子たちも陥る危険があったので、ここで教えている。ここで偽善は「パリサイ人のパン種」と言われている。「パン種」というのは、小麦粉を練った固まりを膨らませるイースト菌のことである。ユダヤ人の主食はパンである。パンを焼く前に、生パンの一部をちょっとだけ取っておいて、今度新しく練るときに、その古い練ったパンの固まりの一部を混ぜるというかたちで、パン種を次から次へと移したわけである。ところが、そうやって新しいパンに次から次へと古いパン種を入れていくわけなので、これが古くなりすぎると、パンが酸っぱくなることがあった。こうしたことから、古いパン種は、悪の影響力とか、腐敗を及ぼす感化力のたとえに用いられることがあった。主イエスはパリサイ人や律法学者の偽善に弟子たちも犯されることを案じた。

偽善という仮面ははがされる時が来る。偽善という仮装も脱がされる時が来る。「おおわれているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはありません」(2節)。人に対しては隠し通せても、神の前ではそうではない。やがてのさばきの時は、仮面はすべてはぎ取られた姿で、自分でも気がつかなかったような驚愕する姿で神の前に立たなければならなくなる。もはや隠すものはなし。逃げ場もなし。隠れる場所もなし。醜いその人の本性が露わになり、隠せるものは何もない。素っ裸である。その人が密かにしてきたことも、すべて暴露される。

「ですから、あなたがたが暗闇で言ったことが、みな明るみで聞かれ、奥の部屋で耳にささやいたことが、屋上で言い広められるのです」(3節)。これはその人の隠れた言動も、やがて明るみにされる時が来ることを教えている。「奥の部屋」は、間仕切りのある個室のことである。隔離された部屋のことである。それは私たちにとって、プライベートルームのこともあれば、地下室のような密室のこともあるだろう。そこでのひそひそ話も、人には言えない行為も、すべて露わにされてしまう。人は公共の前では悪いことをしないし、言えない。でも、暗闇や奥の部屋ではそうではない。なぜかというと、人を恐れてもすべてをご存じの神を恐れていないからである。第一コリント4章5節にはこうある。「主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます」。暗闇も壁も、神の前では私たちの秘密を守ってくれはしない。だが、守ってくれるかのようにふるまうのが人である。神を恐れていないからである。暗闇や奥の部屋は簡単に罪を犯せる場所かもしれない。だが神を恐れることを学び始めると、罪に対する心理的距離が遠くなることがわかる。簡単に罪を犯せなくなるのである。それだけではない。神への恐れを身につけ始めると、人への恐れがなくなってくる。

主イエスは偽善から恐れに教えをシフトする。4~7節である。「わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、その後はもう何もできない者たちを恐れてはいけません」(4節)。主イエスはここで弟子たちを「友」と呼んでいるが、弟子たちを友と呼んだのは、この箇所とヨハネ15章13~15節の箇所だけである。友というのは、すべてを分かち合う親しい間柄のことを指す。この場合は主イエスと一心同体の関係にある弟子たちのことである。主イエスと弟子たちは緊密な関係にある。主イエスは弟子たちのために命を捨て、弟子たちも主イエスのために命を捨てることになる。こうした緊密さが意識されての教えである。主イエスは弟子たちがやがて、ご自分の名のゆえに殉教の危険に遭うことを知っておられた。そこでまず人を恐れるなと教える。「からだを殺しても、その後はもう何もできない者たちを恐れてはいけません」。普通、殺されたら人は終わりだと思う。だが終わりではないから、それ以上何もできない人間を恐れるなと主は言われる。人前で、隠すとか、黙るとか、偽るとか、逃げるといった言動に出る必要はない。

「恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい」(5節)。神は人間に対して主権を持ち、人の運命に関して最終権威を持つお方である。人の死後にさばく権威を持つお方である。「ゲヘナに投げ込む権威」と言われているが、「ゲヘナ」について説明しておこう。ゲヘナはヘブル語で「ゲ・ベン・ヒノム」と言った。略称では「ゲ・ヒノム」と言った。「ゲ」は「谷」という意味。つまり、「ヒノムの谷」という意味である。エルサレムの北西から西側を走って南東のほうに下る谷を「ゲ・ヒノム」と言った。かつて、この谷の川原で、王たちが自分の息子、娘たちを火で焼いて、バアル、モレクといった異教の神々に献げるという儀式が行われていた。「また自分の息子、娘を火で焼くために、ベン・ヒノムの谷にあるトフェトに高き所を築いたが、これは、わたしが命じたこともなく、思いつきもしなかったことだ」(エレミヤ7章31節)(同19章1~6節、同32章34,35節)。この谷から上がる人身御供の火の手と煙が、やがて神の刑罰の火にたとえられるようになっていった。「ゲヘナに投げ込む」ということを、黙示録では「第二の死」と表現されている。「しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄と燃える池の中にある。これが第二の死である」(黙示録21章8節)。人は第一の死(肉体の死)をもたらすことはできても、第二の死をもたらすことはできない。私たちが誰を恐れなければならないかは明らかである。

とは言っても、人を恐れやすいのが私たちである。そのことを知っておられる主イエスは、今度は神の愛、あわれみということを強調することによって、人への恐れを消し去ろうとしている。「五羽の雀が、二アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でも、神の御前で忘れられてはいません。それどころか、あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。恐れることはありません(6,7節)。あなたがたは、多くの雀よりも価値があるのです」(6,7節)。ここでは、神は弟子たちに対して、私たちに対して、どれほどの関心を払い、どれほど大事に思ってくださっているかを告げている。だから人を恐れることはないと。最初に、雀と私たちの比較がされている。「五羽の雀が二アサリオン」という値打ち。「一アサリオン」は、一日の労賃である一デナリの16分の1。ローマの最小単位の銅貨。その銅貨一枚の一アサリオンで二羽の雀が買えたという。つまり一羽の雀は銅貨一枚にもならないような値打ちしかない。雀は、二羽とか何羽とか、数を束ねないと売り物にはならないような安っぽさ。雀を買ってどうするのかということだが、食べるわけである。雀というのは、うんと貧しい人の例外的食べ物とされていたようである。焼いて食べる。そんな安っぽい、ちっぽけな雀の一羽でも、「神の御前には忘れられてはいません」。なおさら、あなたがたのことは・・・というわけである。

神さまの関心は、「それどころか、あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています」(7節前半)で強調されている。髪の毛の本数は平均10万本と言われている。それが数えられているというのは誇張ではないだろう。この神に対して持つべき態度は信頼ということになる。神は単に恐れるべきお方ではなく、ともに信頼すべきお方である。

今日の区分の最後、8~12節からは、神を恐れる者はキリストを選び取る、キリストを告白するということが教えられている。「あなたがたに言います。だれでも人々の前でわたしを認めるなら、人の子もまた、神の御使いたちの前でその人を認めます」(8節)。「認める」<ホモロゲオー>とは原語で「告白する」という意味のことばである。このことばは「信仰告白をする」という意味で使われるようになる。一例を挙げると、「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われます」(ローマ10章9節)。ルカ12章8節の直訳は、「人々の前でわたしを告白する者は誰でも、人の子もまた神の御使いたちの前でその人を告白する」。つまり、この地上で人々の前でキリストを告白するなら、天上ではキリストが御使いたちの前でその人を告白するというのである。9節はその逆のパターンである。人前でキリストを言い表さない。告白しない。つまりは知らないと言ってしまう。すると主イエスは、証人となる御使いたちの前で、その人のことを知らないと告白することになる。覚えておいていただきたいことは、これらの文言は神を恐れるという文脈の中で言われているということである。神を真に恐れる者はキリストを告白する。反対に、神を恐れるのではなく人を恐れる者は、キリストを告白しないという失敗を犯す。

10~12節は、キリストを告白することと聖霊の関係について言われている。10節は、キリストを信じる対象として告白しないという流れの中で、赦されざる罪について言われている。「人の子を悪く言う者はだれでも赦されます。しかし聖霊を汚す冒瀆は赦されません」。聖霊を冒瀆する罪については、マタイ12章30,31節にもある。そこでの前後の文脈を見ると、悪霊どもを追い出している主イエスのみわざを、ベルゼブル、すなわち悪魔によるものだとパリサイ人たちが決めつけていることがわかる。主イエスを悪魔に仕立て上げる敵対的発言である。だが、ここでは悪魔に関する言及はない。またヨハネの手紙第一5章16節には「死に至る罪」という表現がある。ヨハネは異端反駁のためにこの書を執筆していたので、キリストをまことの神として認めない異端のキリスト観が念頭にあることはまちがいない。しかし、ここでは異端的なキリスト観について触れられてはいない。では、「聖霊を冒瀆する罪」をルカの文脈からどう捉えればいいのだろうか。ルカの文脈から言えることは、まず、聖霊はキリストを証する霊であるということ。この聖霊の証を、悪意をもって執拗に、いつまでも拒み続けることが聖霊を冒瀆する罪であると思われる。ペテロのように臆病になって単発的にキリストを知らないと拒むとか、また、パウロのように、知識の欠如から一定の短期間、悪口を言って拒むというのではなく、聖霊の証に対して、悪意をもって、いつまでもいつまでも頑固に拒み続ける。それがキリストを証する聖霊に対する冒瀆であると思われる。

聖霊はキリストを証する霊なので、キリストを告白しようとする者を助けてくださる。それが11,12節で言われている。「人々があなたがたを、会堂や役人たち、権力者たちのところに連れて行ったとき」というのは、具体的には裁判が想定されている。キリスト者すべてが裁判法廷に出頭しなければならないということではない。覚えておきたいことは、「言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださる」(12節)からもわかるように、聖霊はキリストを告白しようとする者を助けてくださるということである。使徒4章1~12節にはその事例がある。そこではペテロが議会で審問される様子が描かれているが、彼は聖霊に満たされ、「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです」(12節)と証ししている。使徒パウロは、キリストを告白させるのは聖霊であることを明言している。「神の御霊によって語る者はだれも『イエスはのろわれよ』と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」(第一コリント12章3節)。聖霊はキリストを告白させる霊である。この聖霊が私たちの心に遣わされている。すでにキリストを信じている者にとって大切なことは、キリストを証する場面、キリストを告白する場面において、聖霊の助けを仰ぐということである。キリストは聖霊を求めることについて、すでに話しておられた。「ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それなら、なおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます」(11章13節)。

今日の教えをまとめると、神を恐れるということが中心としてあることがわかる。神はすべてをご存じであられ、私たちの内側も、密かなる行為もご存じであられ、私たちの生死に関して生殺与奪の主権を持っておられるお方である。神を恐れることは偽善を避けさせる。それだけではなく、人を恐れることをやめさせ、人前でキリストを告白することを選び取るようにさせる。それに合わせて、キリストを告白しようとする者には聖霊の助けがあることを学んだ。この終末の時代、神を恐れることと反対の方向に世の中は向かっている。罪を罪としなくなり、すべてが許されるかのようなふるまいが目立っている。嘘、欺瞞も増えている。ことばは軽くなって来ている。神を恐れていないからである。終末の時代のクリスチャンの霊性は神を恐れることでなければならない。神を恐れ、そしてキリストの御名があがめられるために、聖霊の助けをいただいて、キリストの証人として歩んで行こう。私たちは、キリスト以外には、だれによっても救いはないこと、天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないことを知っているのである。