主イエスは今日の区分で、「わざわいだ」と6回も言っている。たいへん特徴的な箇所である。しかも、社会的にはわざわいとは無関係に見える人たちに向けて、このことばを投げかけている。今日の記事は37節からの続きである。主イエスはパリサイ人から食事に招待された。その時、主イエスは、食事の前に儀式的作法として行われていたきよめの洗いをされなかったので、パリサイ人は驚くことになる。このことをきっかけとして、主イエスはパリサイ人批判を始めることになる。外側のきよめに拘泥するも、自分の内側がヘドロ状態であることには無頓着でいる彼ら。そんな彼らを主イエスは40節で「愚かな者たち」と呼んだ。その後、主イエスは「わざわいだ」を連発することになる。「わざわいだ」ということばは、パリサイ人に対して3回、律法の専門家に対して3回発せられる。

「わざわいだ」ということばがどういうことばなのかを、最初に説明したいと思う。皆さんは、「ああ!」「まったくもう!」「なんてこった!」といった表現をすることがあるだろう。それらを感嘆詞とか間投詞と言う。「わざわいだ」と訳されているギリシア語の発音は「ウーアイ」。これは発音を聞いてわかるように、怒りとか憤りとか嘆きを表す感嘆詞である。「ウーアイ」を日本語にした場合、「ああ」とか、「哀れだ」とか、「不幸だ」とか、「わざわいだ」とかなる。実は「ウーアイ」が登場するのは、ここが初めてではない。6章24~26節で4回使用されている。どのことばがそうかと言うと「哀れです」と訳されていることばがそうである。最後に使われているのが、26節の「人々がみな、あなたがたをほめるとき、あなたがたは哀れです」。これを直訳的に訳すと、「わざわいだ(ウーアイ)、人々がみな、あなたがたをほめるとき」。主イエスは今日の場面では「わざわいだ(ウーアイ)」を、パリサイ人グループに限定して使っている。確認しておくが、「ウーアイ」は、怒りとか憤りとか嘆きを表す感嘆詞である。

では最初に、パリサイ人に対する三つのウーアイを見ていこう。第一番目は42節。「だが、わざわいだ、パリサイ人。おまえたちはミント、うん香、あらゆる野菜の十分の一を納めているが、正義と神への愛をおろそかにしている」。正義と神への愛がなおざりにされていた。彼らは様々な儀式律法やしきたりを注意深く行おうとしていた。所作、ふるまいにこだわるも、それらは形式主義で、いわば中身のない抜け殻状態だったので、ウーアイなのである。正義と神への愛は見られない。ミカ書には、こういうことばがある。「何をもって、私は主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のささげ物、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。・・・主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか」(ミカ6章6,8節)。「正義と神への愛」は、見えるかたちでは人に対して表されると言われるが、10章で学んだ「良きサマリア人のたとえ」などがその事例である。

主イエスは42節後半で「十分の一もおろそかにしてはいけない」とも言われているが、その理由もお話しておきたい。十分の一のささげものの規定は主が定められたものである(申命記14章22~29節)。この規定には二つの目的があった。それは何だろうか。一つは神に仕える祭司、レビ人たちの生活をサポートするためである。もう一つは、孤児、やもめ、寄留者といった貧しい人々、困っている人々をサポートするためである。これらもおろそかにしてはならない。

第二番目は43節。「わざわいだ、パリサイ人。おまえたちは会堂の上座や、広場であいさつされることが好きだ」。ナルシシズムということばがある。自己愛と訳せるが、自分に栄光を帰そうとする態度のことである。彼らは、人々の前で自分の値打ちを見せびらかしたい、人々から賞賛を浴びたい、そこに気持ちが行っていた。「会堂の上座」とあるが、お偉方への優遇席というものがあり、その第一の座を狙うということ。「広場」は皆が集まるところである。彼らはそうした場所で注目を浴びて、りっぱに思われたかった。こういった自己栄光を求める不遜な態度がウーアイなのである。

第三番目は44節。この箇所はわかりにくい。「わざわいだ。おまえたちは人目につかない墓のようで、人々は、その上を歩いても気がつかない。」エルサレムのオリーブ山の墓地の写真を見たことがある。白く塗られた、べったらとした低い墓石がたくさん並んでいた。エルサレムでは春の過越しの祭りがある前に、墓石を白く塗った。墓は死体と同じく、そこに触れるものは七日間汚れると律法で言われている(民数記19章16節)。祭りに上って来る人たちが墓に触れて汚れたら困る。祭りに参加できなくなる。それで、目立つように白く塗った。これに近づいてはいけませんよと。だが、不注意にも塗り忘れてしまう墓もあったようである。それが「人目につかない墓」であると思われる。それは人を汚す墓なのだが、その上を歩く人にはその自覚もなく歩いてしまう。多くの民衆は、パリサイ人たちのことを人を汚す存在とは思っていない。それで彼らと彼らの教えに接触して汚れてしまうというわけである。主イエスはこれまで、彼らの教えのまちがいを指摘したばかりか、39節では、「その内側は強欲と邪悪に満ちています」と、彼らの内側の汚れも指摘した。主イエスはパリサイ人たちを、ひどいことばで言えば毒のようにみなしている。だが一般民衆はこの毒に気づいていない。パリサイ人たちにもその自覚がない。パリサイ人たちは霊の領域の詐欺師となり、人を毒すというか汚してしまう存在となってしまっていた。この状態がウーアイだった。

45節から対象がパリサイ人から律法の専門家に変わる。ここを見ると、律法の専門家は主イエスのパリサイ人批判を、まるで自分たちに対する批判のように受け取っていることがわかる。「先生。そのようなことを言われるなら、私たちまで侮辱することになります」。「律法の専門家」とは53節にある「律法学者」のことである。律法学者にはサドカイ派もいたことはいたが、律法学者の大半はパリサイ派だった。だからパリサイ人が批判された時、彼らはまるで自分たちが批判されたように感じた。

主イエスは彼らに、パリサイ人たちの場合と同じく、三つのウーアイを突き付ける。第一番目は46節。「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を背負わせるが、自分は、その荷物に指一本触れようとはしない」。「人々に負いきれない荷物を負わせる」とあるが、「負いきれない荷物」とは、彼らの誤った律法解釈が生み出した規則のことである。日常生活でああしなさい、こうしなさいと、瑣末な規則をたくさん作り、それが負いきれない荷物のようになってしまった。根本的ウーアイは、彼らの誤った律法解釈である。彼らは律法の字面だけ受けとめ、それをねじ回し、こね回し、曲解し、負いきれないものとして民衆に差し出し、それを負わせるが、あとはあなたがたの責任なのだと、それに指一本触れようとしない。主イエスはそれと正反対のお方である。主イエスがマタイ11章28節において、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と言われた時、律法学者たちが人々に負いきれない重荷を負わせたことが背景としてあると言われる。主イエスは29節では律法の専門家からではなく「わたしから学びなさい」と言われている。主イエスは30節では、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」と言われている。主イエスは負いきれない荷物を私たちに負わせることはなく、また荷物に指一本触れようとしないではなく、主は私たちの人生の同伴者となってくださり、私たちとくびきをともにして、ともに荷物を担い、神に従うことができるように助けてくださるお方である。だから私たちは、「わたしのもとに来なさい」と言われた主イエスの人格に、主イエスのことばに行くのである。

第二番目は47~51節。「わざわいだ。おまえたちは預言者たちの墓を建てているが」で始まるが、ここは、預言者たちを殺した先祖たちの後継者になってしまったというウーアイである。旧約時代の預言者たちは、ユダヤ人の指導者階級また偽預言者たちによって迫害され、殺されて来た。律法の専門家たちはその子孫であるというわけである。

この区分の文章について三点、説明しておこう。最初は47,48節の文章である。先祖の殺した預言者の墓を、子孫の彼らが建てる行為が批判されている。墓というのは、ふつう、亡き人を偲んだり、敬ったり、称える意味で建てる。だが、この場合、主イエスはそう見ていない。偽善的行為として見ている。意味合いが少し違うが、日本の事例を挙げると、天神様がある。菅原道真を憎んで殺した人たちがいた。その殺した人たちが神社に菅原道真を祭り、子孫にも拝まさせている。当然のことながら、敬愛の念でそうしているのではない。自分たちに祟りの害が起きないため、あなたのことを大事に思ってますよ~という偽善である。律法の専門家たちが預言者たちの墓を建てていると言っても、あなたがたとあなたがたの教えを大事に思ってますよ~、ではない。その証拠に、彼らは預言者たちが預言していた救い主イエス・キリストが現れると、敵対し、殺し、血を流そうとしている。かつてモーセは、キリストについてこう預言した。「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたはその人に聞き従わなければならない」(申命記18章15節)。キリストも一預言者である。だが、聞き従うのではなくて、殺そうとしている。こうして彼らは、預言者たちを殺した先祖の後継者であることを、自らが証明することになる。

49節には、「だから、神の知恵もこう言ったのだ」とある。「神の知恵」が擬人化されているが、神の知恵とは具体的には旧約聖書の証言のことである。旧約聖書には、神のしもべが迫害され、殺されるという記述がある。また各書において、神さまはこうした血の責任をうやむやにせず、裁く時が来ることを告げている。

51節では、預言者たちの血を流した血の責任が問われることに関して、誰から誰までの血の責任かということで、「アベル」と「ザカリヤ」が挙げられている。アベルの死は創世記4章10節にあるが、聖書に記されている世界最初の殺人事件である。アベルは兄のカインに殺された。そこでは、主のことばとして、「あなたの弟の血が、その大地からわたしに向かって叫んでいる」とある。続くザカリヤの死は、第二歴代誌24章22節に記されているが、彼は祭司で、祭壇と聖所の間で殺されてしまう。その時、彼は「主はご覧になって、責任を問われますように」と言って絶命する。51節後半の、「そうだ。わたしはおまえたちに言う。この時代はその責任を問われる」という裁きは、具体的には、紀元70年に起こるローマ軍によるエルサレム神殿の崩壊・エルサレム陥落であると推測できる。その時に神殿が崩れ去っただけではなく、60万人以上のユダヤ人が殺され、それ以上の者が捕虜として連れ去られたと言われている。その後、エルサレムにユダヤ人が住むことが禁止されることになる。それが目前に迫っていた。このエルサレム壊滅は、ユダヤ人の長年の不信仰の積み重ねに対する裁きであったのである。

第三番目は52節。「わざわいだ、律法の専門家たち。おまえたちは知識の鍵を取り上げて、自分は入らず、入ろうとする人々を妨げたのだ」。人々が天の御国に入らないようにしているというウーアイ。「知識の鍵」とは、天の御国に入るための知識の鍵である。律法学者たちは、この知識の鍵を取り上げ、誰も天の御国に入らないように妨げているというのである。では、自分たちだけ入るのかと思えば、自分たちも入らない。彼らは天の御国に入るための知識の鍵を捨ててしまう。この知識の鍵とは、言い換えればキリストの福音ということができるだろう。かつてパリサイ人であった使徒パウロは言う。「しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。」(ガラテヤ2章16節)。キリストを信じる信仰によって救われる、これが福音である。福音が知識の鍵である。そして知識の鍵の主体は主イエス・キリストである。律法学者たちは博学でたくさんの知識を持っていたかもしれないが、それらは天の御国に入るための知識の鍵とはなっていなかった。現代も、無駄で人を惑わす知識の鍵がジャラジャラといっぱいあるのではないだろうか。それらは鍵の形をしているが用をなさない。私が北海道から関東に引越した時、家の合鍵作りに出かけた。店の主人は合鍵作りで忙しくしていた。店のご主人は仏頂面で独り言を言った。「なんで今日は鍵作りにこんなにいっぱい客が来るんだ。合わないように作ってやろうか」。それを隣で聞いていた奥様が、「あなた。そんなこと言うんじゃありませんよ」。私は夫婦の漫才を苦笑して聞いていた。天の御国に入るのには、合う鍵、合わない鍵がある。どれでもいいということではない。御国に入る知識の鍵を持っている人は幸いである。

彼らは自分たちの独善、形式主義、不遜を悔い改め、誤ったプライドは捨て、へりくだって主イエスの教えを聞くことができれば、「わざわいだ」と呼ばれることはなかっただろう。だが、彼らは53節からわかるように、それとはまったく反対の態度、主イエスに対して「激しい敵意」を抱くことになる。侮辱されたとすっかんかんに怒った。自分たちの信じていること、自分たちがしてきたこと、そして自分たちの全存在までもが否定されたように感じたからである。特に彼らは国の指導者層であったからなおさらである。プライドが高かった。私たちは痛いところを突かれてイラッとなっても、その通りかもしれないと聞く耳を持つことが必要である。54節では、「彼らは、イエスの口から出ることに、言いがかりをつけようと、狙っていたのである」とある。私たちも求道時代、主イエスの口から出ることに言いがかりをつけようとした一人ではなかっただろうか。だが、ある時から言いがかりをつけるために聖書を読むことをやめたはずである。それは自分の愚かさ、弱さ、罪ということに気づき始めた時である。私たちは「わたしのもとに来なさい」と言われた主イエスのもとが安息の場所と自覚し、そこにとどまり、主イエスに学ぶ姿勢を持ち、主のことばを苦くも甘くも聞く耳を持ちたい。その者こそがわざわいではなく幸いなのである。