今日の区分では、外側、内側ということばが出て来る。人間には外側と内側がある。人の目にはっきりと見えるのは外側。それは、その人の肉体であり、肉体に付随する肉体の動き、所作、ふるまいも入るだろう。主イエスがここで問題にされているのは内側である。それは聖書において、霊、たましい、心といった表現で言い表されている。それは人の目に容易に触れることができる世界ではない。主イエスはそこに意識を向けさせようとしている。そこは春の日差しが降り注ぐ部屋のようなものとは限らず、暗い物置のような世界かもしれない。古びたもの、かび臭いもの、目にしたくないものも潜んでいるかもしれない。だが、その世界にも入って行き、光の当たらない部分に何があるかを知るという冒険も求められている。

今日の場面は、パリサイ人との食事の場面に変わる(37節)。一人のパリサイ人が主イエスを自分の家に食事に招いたようである。聖書を読むと気づくのは、主イエスとパリサイ人の論争の場面が多いということである。それには訳がある。ユダヤ教には大きく分けて、三つの宗派があった。第一がエッセネ派。彼らは少数派で、荒野に隠遁して生活するグループ。街中で活動する主イエスとは必然的に接触は少なかったと思われる。第二はサドカイ派。サドカイ派には、エルサレムの神殿で仕える祭司とレビ人(下級祭司)が属していた。彼らはエルサレムに固まっていたので、主イエスがエルサレムに上ってからでないと、論戦はできない。第三がパリサイ派。サドカイ派が特権階級ならば、彼らは一般信徒の階級と言ったらよいだろうか。ここに属する人たちが一番多かった。当時のメンバーは6千~7千人と言われる。そしてメンバーではないが彼らの教えを受け入れ従っていた者たちが2~3万人いただろうと言われる。彼らの関心はサドカイ派のように神殿でどうお仕えするかということよりも、神の律法を日常生活にどう適用し、どう守っていくかということに関心を集中させた。彼らは旧約の律法に基づく規則集を作り、それを一般庶民に浸透させようとした。シナゴグという会堂がイスラエルの町々村々にあり、そこが彼らの教えを広めるセンターとなった。このような背景から、主イエスが行くところどこにでもパリサイ人はいて、主イエスと接触し、論争する機会は多かった。

主イエスは何度か、パリサイ人に食事に招かれたようである(7章36節,14章1節)。当時はこうした食事の場で、見解の違う二つのグループが論戦を交わすということがよくあったらしい。しかも、互いに率直に、オープンに意見を交換したと言う。主イエスの発言を見ると、食事に招待してくれたホストに向かって、そんなにあからさまに批判していいの?失礼では?もうちょっとことばを控えたらいいのに、とも思ってしまうが、古代のユダヤでは、こうした率直さは当たり前のことであったとも言われている。議論に慣れている文化であったと言えよう。この辺りが日本の文化と少し違う。と言っても、主イエスに言い負かされてパリサイ人たちは嬉しくはなかったはずである。

議論のきっかけとなったのは、当時の習慣を無視した主イエスのマナーである。37節で「食卓に着かれた」とあるが、「食卓に着かれた」と訳されていることばの意味は、7章36節の時にお話したように、「下に寝そべる」である。ユダヤ人は平素は椅子に座って食事をしたが、祝宴とか格式のある食事の宴席では、寝そべって食べるというのがマナーであった。左肘をついて足を斜め後ろに伸ばし、右手で食べるというスタイルである。主イエスはこのスタイルをとっただろう。このことが問題とされたのではない。食事の前にする手洗いについてである。「そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て驚いた」(38節)。このきよめの洗いは、下賤な人々とみなされていた人々や異邦人はしなかったが、神の律法に従おうとしていた人々は、皆実践していた習慣である。この洗いは現代人がばい菌を洗い流すためにする行為とちょっと違う。これは儀式的なきよめである。神道のきよめの概念に近い。律法には食事の前の「きよめの洗い」の規定はない。神殿で奉仕する祭司については、水で洗いきよめることが言われている。それを拡大解釈したのではないかと思われる。パリサイ人たちはきよめについて多大な関心を払っており、パリサイ派が守ってきた言い伝えと規則を集めたものに「ミシュナー」があるが、その25パーセントが儀式的きよめに関する教えだと言われている。主イエスは人が考案した儀式的きよめは、心のきよめと無関係であることを見抜いていた。

パリサイ人の驚きには非難も混じっていただろう。伝統的慣習に習っていないと。不敬神だと。そこで主イエスは正当な批判をされる。「すると、主は彼に言われた。『なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や皿の外側はきよめるが、その内側は強欲と邪悪で満ちています。愚かな者たち。外側を造られた方は、内側も造られたではありませんか』」(39,40節)。主イエスのこの反論は、パリサイ人たちがこだわっていた杯や皿といった容器の外側、内側の話を持ち出してのことである。「ミシュナー」にこういう一文がある。「すべての容器には、外側と内側と、それを持つ部分がある。もし外側が汚れている杯から飲んだ場合に、口に入った水は、その杯の外側のゆえに汚れているのではないかと心配し、そこから杯全体を汚れているとしてしまう必要はない」。まことに神経質でこだわるにもほどがある律法主義だった。だが、こだわるべきは他のものでならなければならなかった。40節からわかるように、主イエスが容器の外側、内側の話を持ち出されたのは、人間の外側、内側にたとえるためだった。人間を容器、器で表す手法は、聖書ではしばし見られる。主イエスのことばから、「あなたがたは外側をきよめることには神経質だが、内側のことは無頓着にもほどがある」という批判が聞こえてくる。

彼らの内側は、39節で言われているように「強欲と邪悪」で満ちていた。だが、それに無頓着であった。ある意味、平気だった。それを映像化したら、大変な汚れになるはずである。人はこうした罪を指摘されると、自分を正当化しようとする心理も働くが、主イエスの前では、欺瞞は一切通用しない。今すべての人は、外側は似たように見えるが、やがて神の前で本質が問われる時が来る。やがての裁きの座において、その人がどのような性質を持っていたかが明らかにされる。つまり、外側では善良な人間を装っていたにすぎない人は、外側は美しくみがかれ、覆いをかけられているが、内側はあらゆる汚物で満ちている器にたとえることができる。また、外側は美しく見えるが、内側は死人の骨と汚物で満ちている墓にたとえることができる。また、みがきをかけられ、立派で美味しそうではあるが、中は虫食いで腐っているりんごにたとえることができる。

内側と外側の関係だが、その人の内側が良いものであるならば外側も良いものとされる。しかし、内側が良いものでないならば、外側は良く見えても、実際は悪いとされる。例えば、相手に対して誠実にふるまう際に、自分の名誉のために、良く見られたいという思いでする人もいるだろうし、自分の利益のために誠実にふるまう人もいるだろう。また、誰かを味方に引き入れたいという動機でふるまう人もいるだろう。こうした場合、外側のふるまいは自己愛から来ており、自己栄光のために為されたことでしかない。だから、外側は正しく見えても悪とされる。神の前では隠れおおせるものは何もない。この世では、外面的には正直、誠実、公正によって覆われ、強欲や邪悪さが明らかに認められないということがある。当の本人も気づいていないということがある。しかし、やがての時、神の光の中でその人の本質が暴露され、自分自身も自分で自分の姿に驚き、驚愕する結果を迎えるだろう。その時は手遅れである。

さて、熟考を要するのが41節である。「とにかく、うちにあるものを施しに用いなさい。そうすれば、見よ、あなたがたにとって、すべてがきよいものとなります」。ルカの福音書にしかない表現である。主イエスは何を言わんとしたいのだろうか。「すべてがきよいものとなります」と、内側も外側もきよくなることを教えているようである。「すべてが」と、その人の心も行為も、その人の存在すべてがきよくなる。文章の初めは、「とにかく、うちにあるものを施しに用いなさい」とあり、内側から始めることがポイントであることがわかる。また、なぜか「施し」について言われている。「施し」とは、貧しい人に分け与えることである。「施し」とは、ユダヤ人にとっては人としての当然の行為で、神のみこころにかなうものとして教えられていた。主イエスは、ユダヤ人にとっておなじみの「施し」を事例に挙げられたということである。

主イエスは、ただ施しをすればいいのだということはおっしゃっていない。施しをしてりっぱに思われようとか、施しをして、神の前にポイントをいっぱい稼いで、報いをたくさん貰おうと考えていた人たちもいただろう。主イエスの教えは、施しをするにも、「うちにあるものを施しに用いなさい」である。もし内にあるもの、すなわち心の中にあるものが強欲と邪悪であったら、それは真の意味で施しではないだろう。真の意味で施しとなる内なるものとは何だろうか。二つ挙げて見よう。一つ目はあわれみである。「施し」ということばは「あわれみ」ということばに由来している。別訳すると「あわれみの行い」となる。あわれみがあってこそ、神の前に施しは施しとして認められる。もし、あわれみがなければ単なる見栄の行為である。または善行によってポイントを稼いで救われようと思っている行為でしかなくなる。詩篇37蝙21節にはこうある。「正しい人は情け深く、人に施す」。正しい人はあわれみ深く、人に施すということである。主イエスは平地の説教で命じられた。「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい」(ルカ6章36節)。

主イエスはパリサイ人や律法学者を意識して、こうも言われていた。「ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい」(マタイ6章2,3節)。人に見せようとして、ほめてもらおうとしてする行為は偽善ということである。また、こうも言われている。「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。同じように、おまえたちは外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ」(マタイ23章27,28節)。「内側はあらゆる汚れでいっぱいだ」という表現があるが、強欲も邪悪も、偽善といったものも、「汚れ」であるということがわかる。だから、「うちにあるものを施しに用いなさい」という場合の「うちにあるもの」とは、強欲とか、邪悪とか、偽善とか、そのような汚れと反する心のきよさである。心のきよさ、これが「うちにあるもの」の二つ目である。

「とにかく、うちにあるものを施しに用いなさい。そうすれば、見よ、あなたがたにとって、すべてがきよいものとなります」。これを言い換えたみことばがある。マタイ23章26節である。「目の見えないパリサイ人。まず、杯の内側をきよめよ。そうすれば外側もきよくなる」。内側からの刷新、これが聖書の教えである。もちろん、一つの行動に出ることによって気分が変わる、体調が上がる、生活のリズムができるということがある。朝の散歩や決まった一日のルーティーンを持つということは良い事である。精神を健全に保つためにも大切なことである。主イエスは、こうしたことを否定しているのではなくて、きよさを身に着けるという視点で話されている。パリサイ派のように規則を守ることによって自分をみがくとか、りっぱになろうとするとか、外側だけに注意を払って終わってしまうことは空しいということである。主イエスは、外側からきよめたり、外側から鍛えたり、外側から変えようとはしない。内側からきよめ、内側から変え、内も外も一新する。心の中を変え、すべてを変えていくというものである。前回の33~36節の教えも、目にたとえられる「自分のうちの光」が闇になると、その人の全存在が暗くなってしまうという教えだった。だから、35節で、「ですから、自分のうちの光が暗くならないように気をつけなさい」と教えられていた。

最後に、内側をきよめるための三つのステップを紹介しよう。内側をきよめるという場合、自分の霊肉の汚れを素直に認め、悔い改めるということが出発点となる。神を恐れる態度がそうさせる。自分の内側を探ること自体、勇気がいることである。そこに見たくないものがあるからである。それらから目をそむけ、無意識のうちにふたをしてしまう事がある。たとえば人へのねたみを認めないとか。功名心を認めないとか。だが素直に認め、神の前に自分の心をオープンにして、言い訳はせず、悔い改める。これが最初のステップである。これを避けて通ることはできない。ここを飛ばしたら、先はない。もし、自分の側に一パーセントでも言い訳の思いを残すなら、それはだめである。半分人のせいにしたり、神さまのせいにしたりすることは良くあることである。けれども、それでは夜明けはない。罪を神の御目のとおり罪と認めなければ、真の悔い改めとはならない。

次のステップがキリストに赦しときよめをいただくということである。キリストが流された血潮は私たちを罪からきよめる。一つの事例を挙げよう。キリストに忠誠を尽くし、キリストを王として生きようとした一人の聖徒がいた。16世紀に活躍した方である。彼は過去を振り返って、自分が様々な罪を犯してきたことを思い、これをすべて告白し、心をきよめようと決心する。このきよめなしにキリストに仕えることはできないという思いである。彼は気づく罪をすべて告白していく。告白したと思ったら、告白しなかった小さな罪が思い出され、それをきよめてもらうためにまた告白をする。これを度々繰り返す。けれども、彼は告白しても告白しても、また新たな小さな罪を思い出してしまうのである。そして、それらをきよめてもらわない限り、キリストの真の弟子となることはできないと思い詰めていく。彼は、自分の欠点をほじくり出し、罪をほじくりだし、どんなにいくら告白しても、また自分の中に罪を見出してしまい、きりがなくなってしまい、やがて罪とは縁の切れない自分に耐えられなくなり、洞窟の近くにあった穴に身を投げて自殺することまで考えてしまう。このような自分はどのように修行しても、キリストに従う者にはなれないと追い詰められていく。そのような時、転機が訪れる。彼はキリストを仰ぐことになる。彼は罪からのきよめはキリストがしてくださるのだ、いや、してくださったのだと気づいた。自分の力で罪と戦っていたような彼だったが、神の先行的な恵みがわかった。キリストの罪の赦し、きよめが分かった。こうして彼は晴れやかになり、罪を赦し、きよめてくださる主を、世界中の人に伝えたいと立ち上がることになる。

第三のステップは、聖霊を求めることである。キリストは聖霊を通して、私たちの内側の部屋に住んでくださる。聖霊が私たちの内側の、いわば内装を変える。自我ではできなかった罪を遠ざける心を与え、罪を嫌う心を与え、闇ではなく光が射す部屋としてくださり、風通しの良い部屋としてくださる。間違ってもそこは、24~26節で学んだように、汚れた霊の住み込む化け物屋敷のようではない。24節では「汚れた霊」という表現があるが、この時のメッセージでも、それとは反対のキリストの御霊、すなわち聖霊を求めることを学んだ。自我ではどうにもならなかった内側も外側も、霊肉の汚れからきよめられ、聖霊の支配をいただくとき、変わる。聖霊を何よりも求めることはすでに13節で教えられていた。「ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちに良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます」(ルカ11章13節)。日々聖霊を求めることを実践していこう。

以上のようにして、私たちは内にあるものから出発して、神と人に仕えていこう。