伝道者の書10章は様々な格言で成り立っていて、共通したテーマはないようだが、「愚か」ということばが際立っている。「愚かさ」「愚か者」ということばが9回登場する。10章全体からは、愚か者とは、思慮分別がなく、物事を理解する力、先を見通す力がなく、浅はかで、自制できず、おしゃべりで、駄弁が多く、無駄な労苦を重ね、墓穴を掘るという姿が見えてくる。もっと冷静に、落ち着いて、自制を効かせて、思慮分別をもって、というのがない。肉の本性丸出しとなる。
 どうやら知恵者はこれと反対の態度のようである。聖書における知恵とは、神を恐れることが根本にあることを述べてきたが、今日の箇所では、知恵は冷静な態度、自制として表現されている「支配者あなたに向かってが立腹しても、あなたはその場を離れてはならない。冷静は大きな罪を犯さないようにするから」(4節)。
 では1節の格言に注目しよう。「死んだはえは、調合した香油を臭くし、発酵させる。少しの愚かさは、知恵や栄誉よりも重い」。この一節で、「少しの愚かさ」は何にたとえられているだろうか?「死んだはえ」である。超一流のコックが作ったごちそうでも、そこに死んだはえが一匹入っていれば、もうその料理はおしまい。昨年、あるコンビニに入ったら、おでんの鍋に死んだはえが一匹入っているのを発見。もう売り物にならないわけである。同じように、知恵はすばらしいといっても、少しの愚かさが知恵を台無しにしてしまう。ここでは調合した香油が例として挙げられている。この香油は薫り高く、高価なものとして知られていた。しかし、死んだはえ一匹で台無しになる。ここで「臭くし」「発酵させる」とあるが、ようするに腐敗させてしまうということである。それは、はえに付着している病原体に原因がある。「蛇、サソリのごとき有害生物は、獲物を襲って傷つけ、毒を注入して死に至らしめる。一方、はえや蚊はそれほど危険とみなされていないものの、病原体の媒介者として活動し、菌を至る所にまき散らし、やがてはたくさんの人の命を奪うこともあるので、実際は負けず劣らず危険な存在である」。確かにそうである。
 昔は、はえが何匹飛んでいようが気にしなかったが、今は一匹で大騒ぎして、はえとの戦いを繰り広げる。けれども少しに思える愚かさとはどうだろうか、ということである。
 参考に、新約聖書を開こう。→マルコ7:20~23 「愚かさ」(アフロースネー)の意味は、「分別のないこと」「道徳的判断ができない人の愚鈍さ」を意味し、罪人の獣性に焦点を合わせた表現であると思う。肉の本能のままにふるまおうとすること。それがいろいろなかたちとなって表れる。この愚かさとは頭の善し悪しではなく、人格の問題。誰しもが自分は愚かだと思ったことがあるだろう。何であんな馬鹿のことをしたんだ、無駄口をたたいてしまった。考えの足りない行動に走ってしまった。しかし、キリストは、この愚かさは、かたちになって外に表れる以前に、すでに心にあると言っている。キリストは「愚かさ」を挙げる前に、「悪い考え」から始まり、「高ぶり」まで挙げているが、それらのリストは愚かさの総体と言ってもいいだろう。そして、23節のキリストのことばから、愚かさの同義語は「悪」であり「汚れ」であるということがわかる。キリストの説明をたとえを使って考えると、コップの中にきれいな水が入っているとする。しかし、その水の中に一匹の死んだはえが入っている。一匹のはえのために水全体が汚れてしまう。これが人間の心である。
 私たちは三つのことを実践したい。第一に、自分の心を見張り、愚かにならないように自分に言い聞かせることである。「恐れおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ」(詩編4:4)。静まれ、静まれ~と、冷静に、落ち着いて、自分に言い聞かせることである。とりとめのない思いを受け入れたり、思慮の足りない行動に出てしまうことを阻止しなければならない。
 第二に、悪からの守りを日々祈ることである。それはキリストご自身が命じている。「私たちを試みに会わせないで悪からお救いください」と祈れと。私たちは無防備でいてはならない。誘惑は日々ある。「私たちを試みに会わせないで悪からお救いください」、このような悪からの守りの祈りは一日も欠かすことができない。私たちは自分の弱さを自覚しなければならない。自分の力だけでなんとかなると思ってはならない。悪からの守りを祈り、一匹のはえを追い払うというか打ち落とすことをしていくのである。
 第三に、悪からのきよめの祈りをすることである。私たちはこの地上で罪なき完全な人として歩むことができず、一匹のはえを受け入れてしまった後のことを考えなければならない。解決はキリストの血潮にある。それは十字架の上で犠牲となったいのちである。このキリストの血潮が悪からきよめる(第一ヨハネ1:7~9)。まず自分の罪に気づいたら時間を置かず、少なくとも、翌日には引きずらないようにして、夜寝る前には、罪の告白の時を主の御前にもつ。それを習慣化することである。9節の「罪を言い表す」の「言い表す」(ホモロゲオー)という用語は「同じことを言う」という意味。誰と同じことを言うのか?もちろん神さまとである。神さまが、「それは汚い一匹のはえだ」と言われたら、「そうです。汚い一匹のはえです。異論はありません。認めます。汚い一匹のはえを受け入れました」と同じ事を言うこと。「いえ、かわいいみつばちです」なんて言っちゃいけない。言い訳はなしである。その時、大切なことは、7節で言われている「御子イエスの血」、このキリストの流された血潮に全面的な信頼をもつということ。すなわち、十字架につかれたキリストを仰ぎ、キリストの血はわたしの罪を赦し、汚れからきよめ、わたしにいのちと平安をくださるのだ、と信じることである。絶対的な信頼を「御子イエスの血」、キリストの血潮に置くことである。他に頼めるものはない。ただひたすら、キリストが十字架で流された血潮に拠り頼み、罪を告白し、きよめていただくことをしていきたい。
 神道の場合は、お祓いや禊(みそぎ)によってきよめのわざを行う。これは身体を洗うという感覚だが、これで大丈夫とするのは、神道の人間観に関係する。神道は人間の本性を善ととらえ、人間の内部は善なのだから、汚れは祓って済ますことができると考える。神道にとって悪とは、贖わなければならない死の刑罰をもたらす罪ではなく、人間を宿主とするガンのような存在でもなく、人間の心に染みついた汚れでもない。悪を人間の弱さ、足りなさ、欠点といった軽い程度のものとみなす。また外部に付着したほこり、窓ガラスのくもり程度のものととらえる。それは祓えばいい。人間の本性は善で神性を宿す存在なのだから、生活の中で付着した外部の汚れは祓えると考える。けれども、真実はそんなに甘くはない。人間の悪、汚れは、祓ったり、水で清めればなくなってしまうというような甘いものではない。それで済むのだったら悩みはしない。人間の悪、汚れは頑固な性質のもので、人を腐敗に至らしめる恐ろしい性質のもので、そのきよめは、もはや人間の力ではどうすることもできない。悪、汚れは、罪のない神の子羊キリストの犠牲の血によらなければきよめられないという厳しい性質のものである。だから、私たちが頼るものは、ただキリストの御血である。血潮である。それ以外ではない。罪を告白し、キリストの血潮に頼る訓練をするのである。
 私たちの目標は知恵ある者となることを目指すことだが、それには「少しの愚かさ」にも対処していかなければならないわけである。「少しの」と思い、見過ごしてしまいがちなものがたましいを占領してしまう。今日は、この「少しの愚かさ」を強く意識させていただいた。少しの愚かさを警戒したいと思う。