今日の中心テーマは、「見えるようになりましょう。見るべきものを見ましょう」である。前回は28節で「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです」と、「聞く」ということが言われていた。今日の区分では「見る」に移っている。今日のみことばに「からだの明かりは目です」とある(34節前半)。「眼光鋭い」ということばがあるが、その人の内側から溢れ出てくる生命力が眼光として感じられるというわけである。近代では、目はからだに光を取り込んでくれる明かり窓といった捉え方もするが、古代はそうではない。目は外からの光を取り入れる窓ではなくて、目から光を発すると捉えた。その人の内側の光が目を通して発せられる。それが眼光である。「からだの明かりは目です」という場合も、古代の眼光のイメージで言われている。しかも、この場合の目とは、肉眼という肉体上の目を越えたもので、それは、その人の存在の中心である「たましい、心」のシンボルである。それは人の内側にあるものである。それは「霊の眼(まなこ)」「心の目」と呼んでいいものである。それが光なのか闇なのかが問われる。だから主イエスは、「ですから、自分のうちの光が闇にならないように気をつけなさい」(35節)と言われた。

主イエスは群衆を前に「しるし」の話から始められる(29節)。しるしについては16節で言及があった。「また、ほかの者たちはイエスを試みようとして、天からのしるしを要求した」。16節の欄外注にあるように、しるしとは「証拠としての奇跡」である。「神のメシアとしての証拠を見せてみろよ。天から火を呼び下すとか、天使らを連れて来るとか、奇跡を行え。そうしたら信じてやる」。主イエスは、こうしたことを行おうと思えばできるけれども、行うつもりはない。主イエスは、しるしを求める時代は悪い時代であることを話された上で、「ヨナのしるし」だけは与えることを告げる。ヨナのしるしを再現するというのである(30節)。

ヨナは紀元前8世紀の預言者で、和名にすると「鳩」。ヨナはアッシリアの首都ニネベに遣わされた。彼はニネベで説教をする前の事、海に投げ込まれて死んだと思われたが、大魚のお腹の中で三日三晩過ごし、その後、姿を現してニネベで説教をする。それは裁きの説教であった。ニネベの住民にとっては「悔い改めの説教」となった。ニネベの住民は異教徒であったにもかかわらず、徹底した悔い改めを見せた(ヨナ書参照)。

「ヨナのしるし」とは、ヨナが死んだと思われたけれども、三日三晩大魚のお腹の中にいて姿を現したことになぞらえて、死んで三日目によみがえる主イエスの復活のことだと言われる。確かに、それはそれでいいのだけれども、それだけのことではない。「ヨナのしるし」とは正確に言うと何だろうか。それはヨナの説教を含めたヨナの預言者としての生涯である。ルカは、ヨナのしるしという場合、預言者としての務めである神のことばを語るということに力点を置いている。それは32節からわかる。「ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります」。主イエスの公生涯におけるみことばの宣教は、ヨナの悔い改めの説教になぞらえることができる。主イエスが言われたいことは、「わたしは現代のヨナだ。いやヨナにまさるものだ。わたしを見よ。そして、しるしを求めるのではなく、わたしのことばに聞け」ということなのである。こうして、みことばよりも奇跡ばかり求める人々をけん制している。

飛ばした31節も読んでみよう。「南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります」。「南の女王」は第一列王記10章1節で「シェバの女王」と言われている。シェバは、今でいうと、アラビア半島の南端にあるイエメン辺りである。その遠い地から、ソロモンの知恵を聞きに、神のことばを聞きに、はるばる旅してやってきた。目を見張る求道心である。話をニネベの住民に戻すが、先に見たニネベの住民は、当時、周囲の諸国にも知れ渡っていた極悪非道な人々だったにもかかわらず、外国からやってきたヨナの説教を聞いて、王様から家畜に至るまで悔い改めたと言われる。今、お伝えした「南の女王」にせよ「ニネベの人々」にせよ、異教徒、異邦人である。にもかかわらず、聞いて信じた、悔い改めた。それに対してユダヤ人たちは、ソロモンにもまさる、ヨナにもまさる、まことの救い主を目の前にして、15,16節で見たように、あなたは悪霊どものかしらベルゼブルだとか(15節)、天からのしるしを見ないと信じないとか(16節)、やっていた。つまり、主イエスに対して聞く耳も見る目もない。

主イエスは、「しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります」(31節後半)、「しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります」(32節後半)と、「わたしを見なさい」と注意を惹きつけた後、真に見るべきものはわたしなのだよ、ちゃんとした目を持ちなさいと、それを教えるために、次に「明かりのたとえ」を話される。「だれも、明かりをともして、それを穴蔵の中や升の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。入ってきた人たちに、その光が見えるようにするためです」(33節)。「明かりのたとえ」は、8章16~18節にもあった。その時、ご説明したが、「明かり」とはオイルランプのことで、その明かりとは、神の奥義を指し、主イエスが宣べ伝えておられる神のことばがそうであった。そして、神の奥義とはイエス・キリストご自身でもあることをお話した。「明かり」とは主イエスのことばであり、主イエス・キリストご自身である。それは見えないように隠すためにあるのではなく、皆に見えるようになるためにある。今や、まことの明かりは皆に見えるように輝いている。燭台の上の光となっている。燭台の上の光であるから、それは皆に見えるためにある。主イエスは世の光として来られた。主イエスは「わたしは世の光です」と何度も宣言しておられる(ヨハネ8,12章)。だが、目が悪いと、この光は見えない。主イエスという光、主のみことばという光は見えない。皆に見えるようになるためにあるのに、見えない。そこで求められるのは、見る側の目の健全さである。明るい目ならば良いが、暗い目は見えない。

「からだの明かりは目です。あなたの目が健やかなら全身も明るくなりますが、目が悪いと、からだも暗くなります」(34節)。「からだの明かりは目です」。最初に述べたように、この「目」とは、単に肉体上の目を越えて、その人のたましい、内面の心を指す。それは35節の「自分のうちの光」という表現からもわかる。それは、内面の心、たましい、ということで、人間存在の中心となるものである。それを、「霊の眼(まなこ)」とか「心の目」という表現を取ることができるわけである。

この目が「健やか」であったら良い。「健やか」は新改訳第三版では「健全」と訳されていたが、原語の意味は「ダブル(二重)」に対立することばで「シングル(一重)」である。二重映しに見えるとか、ぼやけて見える、濁って見えるとかではなく、きちんと焦点が定まって正しく見える印象がある。シングルということばで、すっきりとはっきり見える正常な状態の目を表そうとしている。見るべきものがはっきりと見える。「霊の眼」「心の目」はそうでなければならない。

心の目が健やかで健全ならば、はっきりと見るべきものが見えて、「全身も明るくなります」。ここで「からだ」「全身」というのは肉体の枠を超えて、人間という存在そのものを意味している。それは、その人の行動、生活、人生、そういったことにまで影響を与える。霊の眼、心の目というものは「自分のうちの光」なのだから、それが明るく、健やかで、主イエス・キリストが見えているならば、その人のすべてが明るくなる。それは部屋全体が電球一個で明るくなるのと似ている。また懐中電灯で部屋全体が照らされるのに似ている。

だが、目のような電球が切れたり、目のような懐中電灯が光らなくなったらば、すべては真っ暗である。「目が悪いと、からだも暗くなります」。目が悪いのはパリサイ人や律法学者たちがそうであった。彼らは頭は良かったかもしれないが、目が悪かった。「私たちは見える」と実際言っていたが、全くそうでなかった。「悪い」ということばは、「邪悪な」とか「貪欲な」という意味を持つ。「邪悪な目」「貪欲な目」ということである。日本語で悪い目を表すのに、「あんたの目は節穴かい」と言ったりする。板を見ると、たいてい節がある(枝が生える部位)。板の節が抜けて穴ができる。その穴は狭いため、そこから十分には見えない。そこから、節が抜けたただの穴ぼこを悪い目にたとえている。目が悪い証拠とは、主イエスのことがわからないということである。主イエスを悪霊どものかしらと見てしまったユダヤ人たちは、明らかに目が悪かった。彼らは次週以降の箇所で、心の邪悪さ、貪欲さを、すなわち目の悪さを徹底して批判されることになる。

目に関する参照箇所を幾つか挙げてみよう。先ずは旧約聖書から二箇所。「私の目を開いてください。私が目を留めるようにしてください。あなたのみおしえの奇しいことに」(詩篇119編18節)。「さあ、これを聞け。愚かで思慮のない民よ。彼らは目があっても見ることがなく、耳があっても聞くことがない」(エレミヤ5章21節)。目があっても見ることがない、というのは、霊的盲目の描写である。

続いて、新約聖書から二箇所。ヨハネは主イエスとピリポのおもしろいエピソードを告げている。「ピリポはイエスに言った。『主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。』イエスは彼に言われた。『ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、私たちに父を見せてください、と言うのですか』」(ヨハネ14章8,9節)。「父」とは父なる神のことであるが、弟子たちの目も問題はゼロではなかった。パウロはエペソの教会に向けて、次のように言っている。「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、・・・・知ることができますように」(エペソ1章18,19節)。「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって」と言われているので、どうやら、信仰を持ったらすぐにはっきり見えるようになるのではないようである。まだはっきりと見えていないものがある。以前、冷蔵庫のドアを開けて、梅干しの入った容器を見つけようとした時のことである。毎朝、梅干しは食べるので、毎日の作業である。冷蔵庫のドアを開けて、冷蔵庫の明かりが切れるまで見ていたが見つからない。もう一度開けて明かりが切れるまで見ていたがみつからない。もうどこかに取り出してしまったのかと思い、家内に聞くと、冷蔵庫に入っているという。そこでもう一度開けてみると、何と一番目の前に梅干しが入った容器があった。それが目に入っていなかったのである。自分にとってはショックだった。最近、そういうことが続く。私たちは、同じような失敗を霊の目の領域の範囲でもやっていると思う。そして損をしている。霊的貧乏性に陥っている。主イエス・キリストのことがわからない。主イエスがくださる恵みのすばらしさがわからない。以前、眼鏡屋さんが言っていた。「見ようとすれば見えてくる」。そのことばがとても印象的だった。「見ようとすれば見えてくる」、そういう姿勢は主イエス・キリストと主のみことばに対して必要であると思う。へブル人の手紙の著者は言った。「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい」(へブル12章2節)。「目を離さない」ということばは、「目を向ける」「見つめる」「目を据える」という意味を持っている。主イエスに対して、意識をOFFにしてしまうことなく、「目を据える」といった、いつもそのような姿勢でいたいと思う。そうしたら、よりはっきりと見えてくるのではないだろうか。

困ってしまうのは、「目が悪いと、からだも暗くなります」と、心の目が悪くなって光を失うと、その人の存在そのものが暗くなってしまうということである。そうなると、神の目には煤けた黒い人にしか見えなくなる。りっぱな着物で着飾っていても、ばっちりお化粧をしていても、意味をなさなくなる。やがて神の前に立つ時、地上で着ていた衣裳も化粧も関係なくなる。その人の本質的な姿で、神の前に立つことになる。信徒時代、トラクトか小冊子か何かで、罪人たちの姿が腐敗臭を放つ真っ黒な姿で描かれていたのを見て、これがほんとうの自分の姿かもしれないと、ゾッとしたのを覚えている。

だが、もし目が明るく健全であるなら、光は全身に行き渡り、その人の存在そのものも明るくなる。「もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、明かりがその輝きであなたを照らすときのようになり、全身が光に満ちたものとなります」(36節)。まさしく光の子である。「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません」(第一テサロニケ5章5節)。光の子どもとは、今日の講話からは、目が明るく健やかな人である。その人は栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていくだろう。「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きです」(第二コリント3章18節)。そして、やがての時、主の栄光を反映した姿で御前に立つことができるだろう。

今日の主イエスの教えを通して、自らの目はどうだろうかと問いかけてみたいと思う。自分の目は健やかだろうかと。旧約時代の目の良い人物として、モーセを挙げることができる。彼についてはこう言われている。「目に見えない方を見ているようにして忍び通したのです」(へブル11章27節)。彼の目は健やかであった。私たちはどうだろうか。私たちは、神はいないと思っているわけではないし、偶像の神を信じているわけではない。そこまで盲目ではない。ゾンビーのように暗くはない。それでも、内なる目は弱々しく、光乏しく、おぼろげにしか見えないということはありうるのではないだろうか。霊的視力の弱さである。肉体のほうの目は、年とともに焦点が合わない近視になったり、二重映しに見える乱視になったり、その他、目の病気を患ったりと、正常な視力を失うものである。けれども、主イエスの目の講話は、そうした次元のことではない。肉眼が良くても、この世のものばかりに目が注がれ、主イエスのことは見えずにいるというのなら、悪い目でしかない。ラオディキヤの教会に対して、主イエス自ら、次のような忠告を与えた。「目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい」(黙示録3章18節)。ラオディキヤは目薬の町として有名だった。だが、そこに住む信者たちの霊の眼のほうはさっぱりだった。肉眼は年とともに衰え光を失っても、霊の眼は年とともに澄んでいき、明るくなっていきたい。主イエス・キリストを見る、そのことに専心したい。主イエスは、「明るい目を持ちなさい、わたしを見なさい、見るべきものを見なさい、見える者になりなさい」と私たちに願っておられる。