今日の区分では人の争奪戦の描写がある。しかもそれは、この地上での肉弾戦ではなく、霊的な領域における戦いのことで、私たち人間の支配権をめぐっての戦いである。私たちはこの戦いに無知であるか、または不健全な興味を抱いて陳腐なものにしてしまうかのどちらかである。今日の場面では、主イエスが「サタン」「悪霊」の存在について語っているが、人々の中には、「サタン」ということばを口にすることさえ愚かに思い、そして、その存在すら信じていない人たちがいる。かと思えば、何かにつけ「サタン」と口にし、霊の世界に魔術的な興味を抱いて、聖書のことばがそっちのけになってしまっているような人たちもいる。だから、私たちは主イエスが話されることに注意深く耳を傾けたいと思う。

今日の主イエスの教えは、主イエスの悪霊追い出しがきっかけとなっている(14節)。この主イエスのみわざにいちゃもんをつける者たちがいた。「しかし、彼らのうちのある者たちは、『悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ』と言った」(15節)。「ベルゼブル」という聞き慣れない表現が出てくるが、「悪霊どものかしら」という表現によって「サタン」の別名であることがわかる。「ベルゼブル」はヘブル語の「バアル・ゼブール」に当たる。「ゼブール」の意味は「住む所」「住居」「家」である(第一列王8章13節 イザヤ63章15節 ハバクク3章11節)。「バアル」の意味は「主」「主人」である。「バアル・ゼブール」のことばの意味は、「家の主人」といったところだろう。それ自体、悪い意味はない。ただ、「バアル」という発音で気づかれた方もおられると思うが、「バアル」は旧約聖書に登場する偶像の神で、カナンの有名な農耕神である。イスラエルの民は神に背き、バアルに額づいて堕落していった。預言者エリヤがバアルの祭司たちと対決した物語は有名である(第一列王記18章)。バアルは神々の代表格のような存在である。聖書は神々の正体は悪霊であると告げている。「彼らは、神ではない悪霊どもにいけにえを献げた。彼らの知らなかった神々に、近ごろ出て来た新しい神々、先祖も恐れもしなかった神々に」(申命記32章17節)。「むしろ、彼らが献げる物は、神にではなく悪霊に献げられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません」(第一コリント10章20節)。サタンと神々は関係している。このような事実から、「バアル・ゼブール」はサタンを表すのに転用されていったようである。それにしても、主イエスをベルゼブル呼ばわりするとは、全くひどいものである。

次のように要求する者たちもいた。「また、ほかの者たちはイエスを試みようとして、天からのしるしを要求した」(16節)。あなたがメシアだったら、天からの証拠としての奇跡を見せてみろ、というわけであるが、「しるしを要求した」の「要求した」は、「要求し続けた」という文体となっており、彼らはこれまでの主イエスのみわざに満足していないということを表している。満足していないどころか、主イエスのみわざをサタンに帰してしまっている。

それで、主イエスは二つの反論を試みている。第一の反論が17~18節。国の内輪もめを例証として取り上げている。内輪もめしていたら国は立ち行かない。内部分裂で国は滅茶苦茶になってしまう。国の王様がしもべどもと争っていたら、その国は衰退してしまう。同じように、悪霊どものかしらであるサタンが子分どもとやりあっていたら、彼の国は成り立たない。主イエスは大々的に悪霊追い出しを継続して行っていたが、悪霊どものかしらがそのようなことをするはずはない。子分の一人や二人をとっちめることはあっても。18節では「サタンの国」という表現がある。「国」ということばは、「王の支配」という概念があることばで、サタンがその王である。サタンは自分の支配の中に、ひとりでも多くの人間を閉じ込めておきたい。そのために悪霊どもを使っているのであって、その逆ではない。しかし、主イエスはサタンの支配から人々を救いたいのである。著者のルカは使徒の働きで、パウロに告げられた主イエスのことばをこう述べている。「それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々ともに相続にあずかるためである」(使徒26章18節)。「サタンの支配から神に」とある。また、コロサイ人への手紙には、パウロのことばとしてこうある。「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子の御支配の中に移してくださいました」(コロサイ1章13節)。つまり、「愛する御子の御支配」が「神の国」なのである。「国」には王の支配という概念があることをお伝えしたが、神の国の王とは、主イエス・キリストである。

サタンによって悪霊追い出しをしているのではないという反論の第二は、19節である。ユダヤ教の悪霊祓いの祈祷師が例証として取り上げられている。「あなたがたの子ら」と言われているのがユダヤ教の悪魔祓いの祈祷師である。「子ら」とは仲間という意味合いで使われている。主イエスは、「わたしが行っている悪霊追い出しがベルゼブルによると言うのであれば、あなたたちの仲間が行っている悪霊追い出しもベルゼブルによるとなるだろう。そうではないのか?」というわけである。主イエスは彼らの論理の矛盾を突いている。ユダヤ教の悪魔祓いの祈祷師が呪文を使って追い出していたという記録が残っているが、主イエスは権威のある神のことば一つで追い出していた。しかも追い出せない悪霊はなかった。もし彼らのしていることが神によるものだとするならば、さらにすぐれた主イエスのわざをベルゼブルに帰すことは到底できない。

主イエスはこの後、わたしのわざは神によるものなのだと積極的主張をされる。「しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」(20節)。「神の指」という表現が心に留まる。この表現は、モーセが魔術師との対決の場面で、魔術師が敗北を認めたときのセリフである(出エジプト8章19節)。魔術師たちはモーセがして見せたことを「神の指です」と表現した。その後、エジプトの王パロは降参して出エジプトが実現する。イスラエルの民はエジプトの奴隷状態から解放されることになる。今や、主イエス・キリストによって第二の出エジプトが実現しようとしていた。主イエスの十字架と復活によってサタンは致命的な敗北を帰すことになる。悪霊追い出しは、その先駆けである。そして、この悪霊追い出しは、神の国が到来したことのしるしであった。こうして、サタンの国に神の国が攻め込んで来て、サタンの国と神の国がぶつかり合う時代となった。けれども、両者の力関係は同等のものというのではない。神の国は前進する。だから、最終的には、神の国が完全な勝利を治めるのである。

主イエスはサタンとの戦いを二つのたとえで描写する。一つ目は、国の戦いのたとえである(21~23節)。「強い者」(21節)がサタンである。十分に武装して自分の屋敷に住んでいる王様、領主として描かれている。「もっと強い人」(22節)が主イエスである。「分捕り品を分ける」とあるが、この「分捕り品」がサタンの捕虜とされている人々のことである(イザヤ49章24,25節 53章12節)。本人にその自覚があるかないかは別として。主イエスは暗黒の王のもとで捕虜となっている私たちを救い出すために、光の国の王として攻め込んで来られた。この世界は闇と光という異なる霊性の戦いの場である。そして闇は光に打ち勝てない。私たちは、この霊的戦いにおいて、どちらの味方につくのか、ということが問われる。「わたしに味方しない者は、わたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです」(23節)。敵か味方か、その中間はないようである。私たちは主イエスとともに集める。すなわち、主イエスとともに救いに選ばれている羊たちを集める働きをするよう召されている。

サタンとの戦いを表すもう一つのたとえは、汚れた霊の住み家のたとえである(24~26節)。悪霊が「汚れた霊」と言われている。「汚れた霊が人から出て行く」という幸いから物語がスタートする。汚れた霊が出て行った人は、空屋敷になぞらえられている。空き家である。そして空き家問題が発生する。汚れた霊はほどなくして、「出て来た自分の家に帰ろう」と決心する。放蕩息子ならぬ放浪悪霊の帰還である。屋敷が空であることをいいことに、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、みなでそこに住み着くことになる。これぞ最悪である。このたとえから何を学ばなければならないのだろうか。主イエスを救い主であると一度は告白した、主イエスから悪霊を追い出してもらった、病をいやしてもらった、幻を見た、奇跡を体験したと言っても、主イエスを神の救い主としてしっかり受け入れることをしないならば、そしてこのお方に従っていかないのならば、己は化け物屋敷になってしまうということである。人はスピリッチュアルな体験に高揚したりするものである。けれども、大切なことは主イエスとの関係である。有名なみことばがある。主イエスのことばである。「わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。誰でも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(黙示録3章19,20)。これはラオディキア教会に対することばで、基本、信者に向けて言われていることを忘れてはならない。信仰者であるはずなのに、キリストを家の外に立たせているというのである。そのままでいいはずはない。主人が不在の空屋敷、空き家。家はまちがいなく荒れる。地上の空き家を見れば、蜘蛛の巣が張り、ねずみ、ハクビシン、へびなどが住み着き、汚れがひどくなっていく。放置しておけばおくほど。最終的には壊すというか壊れるしかない。私たち人間も同じことが起きる。やはり、住むべきお方に住んでもらわなければならない。私たちは、キリストが今、聖霊を通して私たちのうちに住まわれることを覚えておこう。このように言われている。「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません」(第一コリント6章19節)。私たちが聖霊の住まいと言われている。聖霊はキリストの御霊である。キリストの臨在の霊である。それは「汚れた霊」と反対の性質を持つ。この聖霊を私たちは慕い求めているだろうか。前回は祈りについて学んだ。そこで主イエスは悪魔的なものの象徴として蛇やサソリに言及された後、「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます」(11章13節)と言われた。そこから私たちは、祈りにおいて、聖霊を第一に求めるべきことを学んだ。

霊的戦いに勝利する秘訣は、ラオディキア教会に主が言われていたことが基本にある。罪を悔い改めて、主人イエス・キリストに自分自身を明け渡し、聖霊の御支配を受けることである。そうでなければ、その空き家は嘆かわしい状態になってしまう。

今日の区分において、霊的戦いに勝利する秘訣がもう一つ言われている。それが27,28節に記されている。27節冒頭で、「イエスがこれらのことを話しておられると」とあり、サタン、悪霊の教えとリンクして、27,28節が言及されている。大切なことは、「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです」(28節)である。多くの体験主義者はみことばから離れる。しかし、ここでは「神のことばを聞いて守る」ことが言われている。「守る」ということばは、「大事にする」「落とさないようにしっかり守る」というニュアンスのことばである。宝物に対するような姿勢である。そういう姿勢がみことばに対してあるだろうか。

サタン、悪霊は真理のみことばを恐れている。8章の「種蒔きのたとえ」の解き明かしのとき、主イエスはこう言われた。「道端に落ちたものとは、みことばを聞いて信じて救われないように、後で悪魔が来て、その心からみことばを取り去ってしまう、そのような人たちのことです」(12節)。悪魔が心からみことばを取り去ってしまう。悪魔が嫌うのはみことばである。人々の心をみことばからそらし、関心を持たせないためなら、どんな方法でも使うだろう。そして色々な興味や偽りの教えなどに心を縛り付けてしまう。罪を犯す時は、みことばはどこかに飛んでなくなっている。だが、みことばに固着し、従うことを心がける人こそ幸いである。主イエスはマルタのもてなしの場面において、10章42節で「必要なことは一つだけです」と言って、いのちのみことばに絶対的価値を置き、これを食することを最優先するよう教えられた。さらに、エペソ人の手紙6章後半は霊的戦いを教える箇所として良く知られているが、そこではなんと唯一の武器として神のことばが取り上げられている。そこでは、こう言われている。「御霊の剣、神のことばを受取りなさい」(エペソ6章18節)。

霊的な敵は実際に存在する。先ずはこの敵に心の目を開きたい。その上での戦いである。霊的戦いに勝利する秘訣について、聖書は特別なことを言っているわけではない。悪魔の攻撃は多種多彩で巧妙である(出エジプト記のファラオの誘惑参照)。しかし、それがどのようなものであっても、主が私たちの知性感情意志のすべてに働いて、勝利を与えてくださる。それを生活の現場で学び取っていきたいと思う。