ルカの福音書は祈りに関する記述が非常に多い福音書である。今日は祈りについてご一緒に学ぼう。祈りには、賛美や感謝の祈りや、悔い改めの祈りや、求める祈りなどがある。今日は求める祈りに焦点を定めて学んでいこう。

今日の区分は、主イエスが祈りについて教えてくださいと弟子たちに請われて、このように祈りなさいと教えられる場面である。2~4節までが一般に「主の祈り」と言われる祈りである。主の祈りについては、ルカの福音書の講解メッセージの前に主題メッセージとして5回に分けて学んだので、省略させていただくが、主の祈りのすべての要素を日ごと祈ることに努めていきたいと思う。

5~8節が「友だちのパンを借りるたとえ」と言われていて、求める祈りを教える導入となっている。一人の人が真夜中に友だちに頼みに行く(5節)。なぜ真夜中に?こうなってしまった理由は、友人が旅の途中、家に来たけれども、出してあげることができる食べ物がないということである(6節)。前回は10章の最後の記事から、多くのもてなしのために、「わたしだけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか」と不平を述べたマルタについて見たが、このたとえでは、もてなししたくとも出してあげるものがないという状況である。確認すると、まずこの友人は夜に着いたらしい。パレスチナは日中は暑いので、日中の暑さを避けて、日が傾く時分に旅立って、たどりついたのは夜というのはめずらしいことではないだろう。そして、夜に着きます、などと連絡を入れることができる時代ではなかった。

この友人に出してあげることができるものが何もないので、真夜中に別の友だちに「パンを三つ貸してくれないか」と頼みに行った。それにしても「出してやるものがないのだ」ということはどういうことだろうか。この人は貧しかったかもしれないが、文化の問題も関係しているだろう。当時の食事は、その日、その日の分しか作らない。防腐剤もまだ知られてはいなかった。冷蔵庫もない。だから寝床は用意できたとしても、食べるものまでは用意できなかったということだろう。けれども、旅人をもてなすというのは文化的には珍重されていた。食べ物を出せないというのは失格だった。だから、真夜中でも、別の友だちにパンを三つ借りに行った。

さて、パンを三つ貸してくれないか、と頼みに来られた友人はどうしただろうか(7節)。しぶったというか断った。パンがなかったのか。そういうことは言っていない。当時のパレスチナの家は家族部屋がただ一つ。起きて何かをすれば家族全員の迷惑になる。「子どもたちも私と一緒に床に入っている」とあるが、川の字になって寝ている子どもたちの上を行ったり来たり。音を立てて、明かりをつけてと、一騒動になってしまう。その前に、「もう戸を閉めてしまったし」とあるが、この表現は、「錠を下した」「閂をした」という表現で、現代の指先一、二本で戸を開け閉めするのとは訳が違う。それ自体がやっかいなこと。

主イエスはこのたとえを語り終えて、「迷惑行為はやめて、断られたら潔く引き下がりましょう」とは言われなかった。「あなたがたに言います。この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう」(8節)。カギになることばは「しつこさ」である。新改訳第三版では「あくまで頼み続ける」と訳されていたことばである。原語の<アナイデイア>の意味は「しつこさ」「しつようさ」である。このように、しつこく、しつように頼み続ける元になる態度は何だろうか。<アナイデイア>は<アン>という打消しのことばと、「つつしみ、つつましさ、控えめ」を意味する<アイドース>ということばの合成語である。「つつしみ、つつましさ、控えめ」を打ち消すと「つつしみがない」ということになるので、新改訳第三版の欄外注には、別訳として「あつかましさ」とあった。第一テモテ2章9節を見ると、<アイドース>が「控えめ」と訳されている。控えめの反意語は「あつかましさ」である。神さまに対してあつかましいとなると誤解されるので、「大胆さ」という表現でもいいだろう。また<アイドース>は「羞恥心、はにかみ(恥ずかしがること)」という意味もあり、それを打ち消すわけだから「恥知らず、無遠慮」といった意味にもなる。つまりは、「大胆さ、無遠慮」といった態度が、「しつこさ、しつようさ」を生み出すということである。

私たちは神さまに対して真夜中にお願いしたら迷惑になるだろうか?ならない。では早朝にお願いしたら迷惑になるだろうか?ならない。昼食時にお願いしたら迷惑になるだろうか?ならない。「人間がたくさんいる中で、私のような者に時間を取っていただくのは申し訳ありません。御前にはべるなんてあつかましい限りです。私は何もお頼みするつもりはありません。お屋敷の門をたたいたり、開けてくださいと叫んだり、そのような図々しく、はしたないことも致しません。あなた様のおじゃまにならないよう、ひたすらに努めます。できるだけ沈黙を守ります」。そのようなことは言われていない。

9~13節からは、天の父に求めることが言われている。これまでは友だちに求めるということが言われていたが、私たちが求める対象は天の父である。私たちは、天の父の子どもである。だから、ある意味、あつかましく、遠慮しないで求めていいわけである。天の父は、先ほどの友だちのように、面倒をかけないでほしい、起こさないでくれ、といった態度で居るお方ではない。私たちの必要が何かを知って、待っていてくださるお方である。与えるものも変なものを与えるとか、いやいやながら、不承不承、何かをするというお方ではない。主イエスはそのことを教えようとされる。

「ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます」(9節)。大変有名な教えで、一般の人でも聞いたことがあるというみことばである。ここでは祈るということが様々な表現で言い換えられている。「求めなさい。探しなさい。たたきなさい」は、祈りにおいて先ほどの<アナイデイア>の精神を実践に移すことである。大胆に、遠慮せずに、しつこく求めるのである。原文を見ると、「求め続けなさい。探し続けなさい。たたき続けなさい」と訳せる。まさに、しつこい。誰に対してそうするのか。天の父に対してである。「求める」「探す」も祈りの用語として用いられていたようだが、「たたく」もそうである。当時のユダヤ教で「たたく」と言えば、「神のあわれみの門をたたく」という、祈りを表す文学的表現として理解されていたようである。先ほどのたとえのパンを三つ借りに来た人物も、戸をたたいて求めただろう。こうして、「だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます」(10節)ということが成就するのである。

この求める祈りに関して、ある方は次のように言っている。「今日のクリスチャンの病的状態の恐るべきしるしの一つは、祈りが答えられるというはっきりした経験なしで満足している者が多いということです。その人たちは毎日祈り、多くのことを求めます。そしてそのうちのどれかは聞かれると信じています。しかし、日常生活において、当然のこととして、祈りが明確に聞かれるという経験をしていません」。一般的で漠然とした祈り、また漫然とした祈りは、あまり答えを期待していないと神さまにみなされるかもしれない。また、先ほど何を祈ったのか自分でも忘れてしまうような祈りは答えられるはずはない。だから、手に入れ、見出し、開かれることを期待した祈りをささげたいと思う。心を込めて、大胆に、しつように。祈りの人ジョージ・ミューラーは祈りの記録を取っていた人であったが、神に祈り求め、一年間に三千回祈りが答えられたという。求めるものが得られないのは幾つかの理由があるだろう。先ず、求めたものが間違っていた可能性がある。主イエスは、先ほどのたとえの8節で、「必要なものを何でもあげるでしょう」と言われたが、天の父は、必要でないと判断したならば与えないだろう。また、求めてしかるべきものであっても、私たちが本気で求めていないということがある。先ほどお話したように、祈りが答えられるのを期待していない場合である。さらに、途中で求めるのをあきらめてしまったという場合もあるだろう。

11~13節は、天の父は求める者に良いものをくださるという観点の教えである。「あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか」(11節)。蛇は魚の形に似ていないこともないが、蛇は蛇である。魚の代用にはならない。蛇は悪魔的なものの象徴でもある。そのようなものを与える父親はいない。友だち同士のイタズラですることはあっても。「卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか」(12節)。サソリは毒針を持っている危険な生物である。イスラエルゴールデンスコーピオンというサソリもいる。刺されると死に至らないまでも激痛が走る。そして身もだえする苦しみに襲われることになる。サソリは体を丸めたとしても卵にはならない。それは子どもにとっては殺人鬼に等しい。そのようなものを子どもに与える父親はいない。サソリも聖書を見ると悪魔的なものの象徴とされている(10章19節)。

主イエスの結論は13節である。「ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます」(13節)。主イエスは聞いていた弟子たちに対して、「あなたがたは悪い者であっても」と言ってしまったが、この中に盗っ人、強盗がいるというわけではなく、およそ、人間というものは罪深く自己中心であるという現状を言っておられるのであろう。そのような悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えようとする。では悪とは無縁の天の父はどうなのか。「それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます」(13節後半)。ここでは、「良いもの」とは「聖霊」と言われている。私たちは神さまに祈り求める時に、物質も求める。ですが、ここで、求めるべき最も良いものに心を開かせてくださる。それは聖霊である。聖霊の力、聖霊のいのち、聖霊の品性、聖霊の知恵、聖霊の賜物。すべての良いものは聖霊を通して来るとも言えるだろう。私たちは、この聖霊を求める祈りを欠かさず行おう。私たちは弱さを覚える者たちだが、聖霊は力を与えてくださる。私たちは罪に支配されやすい者たちだが、聖霊の支配にあずかることができる。使徒たちも聖霊を求める者となり、ルカが執筆した使徒の働きは、「聖霊行伝」と言われることにもなる。神さまは、聖霊を求める祈りを私たちに期待しておられる。何にもまして、聖霊を第一に求めることを心がけよう。そして聖霊の働きにあずかり、いよいよ聖霊が分かる者とされよう。

最後に、私たちが求める対象について確認しよう。「天の父はご自分に求める者たちに」と、私たちは「天の父」に求める。実は、この「天の父」と訳されていることばは、ルカ独特の表現である。原文の意を汲んで訳すと「天からの父」である。マタイの福音書では文字通り「天の父」とか「天におられる父」と表現している。ルカはなぜか「天からの父」としている。おそらくは、「天から良いものを与えてくださる父」といったことを伝えたいのではないだろうか。良いものは「天から」という天に起源がある。天に良いものが蓄えられている。父は求めに応じ、その中から分け与えてくださる。天の父に求めることが楽しみになってきたではないだろうか。地上では、デパートが消える、スーパーが消える、行きつけの店が消えるということが続いているが、私たち神の子どもは天を仰ぎ、求めることができる。そこに良いものがある。そこに私たちの祈りを聞いてくださる方がおられる。天の父に祈り求めよう。