さて、今日の物語は、有名な姉妹の物語である。その姉妹とはマルタとマリア。彼女たちにはラザロという男兄弟もいた。主イエスに愛されていた兄弟たちである。「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(ヨハネ11章5節)。ヨハネ11章から、彼らは「ベタニア」という村に住んでいたことがわかる。よって38節前半の「さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた」の「ある村」とはベタニアである。エルサレム南東3キロの地点である。マルタが姉でマリアが妹であったようである。紀元前330年から紀元200年の文書を調べて、当時、多かった女性の名前を分析した方がいる。それによると、第一位がマリア、第四位がマルタ。二人とも当時にあっては一般的な名前であった。だが、まちがいなくこの二人は主イエスを信じていたということにおいて、一般的なマリアさん、マルタさんではなくなっていた。マリアの信仰がクローズアップされることが良くあるが、マルタも目を見張る女性である。あの有名な、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」(ヨハネ11章25節)の宣言は、マルタに対して言われたものであるが、そして彼女は、「はい、主よ。私は世に来られるキリストであることを信じております」(同11章27節)と、りっぱな信仰告白をすることになる。女性の信仰告白の記述は稀有である。今日の物語は、38節後半で「マルタという女の人が家に迎え入れた」とあるように、マルタとマリアの家でのエピソードである。

それを見る前に、マルタが主イエスを向かえ入れたということについて確認しておきたいことがある。10章5~7節をお開きください。「どの家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。そこに平安の子がいたら、あなたがたの平安は、その人の上にとどまります。いなければ、その平安はあなたがたに返って来ます。その家にとどまり、出される物を食べたり飲んだりしなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからです。家から家へと渡り歩いてはいけません」。ここからわかるように、マルタたちは「平安の子」、すなわち、イエスさまを救い主として受け入れているということ。そして、主イエスが教えられた、福音を宣べ伝える者を受け入れ世話をするという務めを忠実に行っているのである。

主イエスはマルタの家に泊まられて、みことばを教える務めをされた。「彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた」(39節)。何気ないこの記述が、実は特別なことなのである。実は、「主の足もとに座って」という記述が注目に値するのである。ユダヤ教の文化にあって、「足もとに座る」というのは、ラビの弟子であるということを意味する。ラビは教師のこと。つまりマリアは、ラビ同様である主イエスの弟子になっていたということである。弟子というのは、当時男性だけであった。というよりも、男性しか認められなかった。当時、女性を律法の学びから閉め出すのが慣習だった。もし女性が弟子入りしたいとなれば、なんてはしたないことを、身をわきまえなさい、と非難されることは明白である。もし、普通のラビの前でこのような姿勢を取ろうものなら、お家の恥、一族の恥と言われて、説教はまぬがれないだろう。ところが、すでに8章1~3節で学んだように、主イエスは女性が弟子となることを認めていた。この時も、認めていたからこその場面である。主イエスは弟子がユダヤ人でも異邦人でも、自由人でも奴隷でも、男でも女でも認める。しかも、マリアの場合、うら若い女性であった可能性が高い。マルタにとっては小娘にすぎない妹であったはずである。気が利かないだけではなく、生意気な妹に映ったかもしれない。

そしてマリアは、「主のことばに聞き入っていた」と言われている。「聞き入っていた」と訳されている原語は、「没頭していた」ことがわかる文体となっている。マリアはみことばに没頭していた。あとで見るが、これはマルタの注意散漫の姿勢と対照的なのである。マリアはみことばに没頭していた。マリアはみことばを聞きながら、昨日サロメさんから聞いた話は面白かったとか、イケメンの弟子がいるわとか、これから食べる食べ物のこととか、あちらこちらに気を散らしながら聞いていたのではない。一つの心で主のことばを聞いていた。集中して聞いていた。このところをもっと丁寧に訳すと、「主のことばにじっと聞き入っていた」となる。

それに対してマルタは、「ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず」(40節前半)とある。マルタはもてなしの賜物を持っている。マルタは10章5~7節で見たとおり、福音を伝える者たちを家に迎え入れ、食事の世話をしようとしている。聖書的でりっぱである。だから、「もてなし」そのものが問題となるのではない。余計なところに神経が行ってしまっているようである。「いろいろなもてなしのために」とあるが、直訳は「多くのもてなしのために」であり、自分から多くのもてなしを作り出してしまった感がある。そうすると、心もからだも忙しくなって来る。「心が落ち着かず」とあるが、これは作り出した多くのもてなしに心奪われる余り、もっと大切なことに注意散漫になっていることを意味する。マルタの心は食事の準備等で、主イエスのみことばに心あらずになってしまっている。「心が落ち着かず」の原語の意味は、「脇道に引きずられる」「脇道に逸らされる」である。どこから逸れていったのか。主イエスの教え、みことばからである。そして、あのお皿、あの食材、あの調味料、手順はああして、こうしてと、多くのもてなしに心が逸れて行った。そして、もてなしに忙殺されていた状態であったと思う。もっと人手が欲しい。お宿の女将さんはパニック状態。にもかかわらず、年下の小娘の妹は、男に交じって弟子を気取り、小生意気な状態。そして主イエスは、それを当たり前のごとく受け入れている。それも面白くない。

だからこその不平が次のことばである。「みもとに来て言った。『主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください』」(40節後半)。主に対して、こんな不平が言えるなんて、親しい間柄なんだなと、ある意味、ほほえましくなる。主イエスもこの後、マルタに対して非難がましい調子では返答していない。せいいっぱいもてなそうとしているマルタの心情は理解していたと思われる。

マルタの訴えが受け入れられれば、マリアは立って、お姉さんの愚痴を聞きながらマルタの手伝いをすることになる。「女は台所って決まっているでしょ。男の人たちの仲間入りして何やっているのよ。こっちは忙しいんだから」。マリアは小生意気で気が利かない妹のレッテルを貼られ、主のことばを聞く機会を失うことになる。

もてなしの賜物豊かで、人よりも一皿も二皿も多く料理を作り、あれやこれやと色々と気配りするタイプの女性のイライラ感はわかるが、もてなしを受ける側のイエスさまに対して、「何ともお思いにならないのですか」と毒づき、半分命令口調で、「私の手伝いをするように、おっしゃってください」と指示するのは行き過ぎた。まあ、親しい間柄であるからこそのことばであったと思うが、イエスさまに対するイライラ態度とイライラことばは、ふさわしくなかった。皆の面前で妹を悪者扱いにするというのもいただけない。かといって、この時、グッとこらえて、眉間にしわ寄せながら食事の準備して、後でしこたま妹を叱るというのも、なんとも、である。もうちょっと柔らかい口調で、ことばを選んで主イエスに相談し、指示を仰げば良かったとは思うが、かなりストレスがたまっていたようである。一人で走り回っている私は何なのよ状態である。

主イエスの働きを考えてみよう。主イエスはみことばを宣べ伝え、みことばを教えることを使命に旅をしていた。一人でも多くの人にみことばを聞いてほしいと。マルタは、主イエスがみことばにどれだけ価値を置いているかを理解する必要があった。

「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています」(41節)。「マルタ、マルタ」と、名前を二回繰り返して呼びかけているところに、主イエスの愛情を感じる。主イエスは彼女が「いろいろなことを思い煩って」、つまりは、もてなしのためにいろいろと気を遣いすぎて、心が千々と乱れてしまっていることを知っておられた。

そして言われる。「しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません」(42節)。主イエスが言わんとしたいことはわかる。「必要なことは一つだけです」の「必要なこと」とは、主イエスのことばを聞くことである。「マリアはその良いほう」をとあるが、「良いほう」の「ほう」ということばは、食事の際に出される一皿分の食べ物を意味しうる。「良い一皿」ということである。そうすると、「必要なことは一つだけです。足りない料理がもう一皿あるというのではありません。マリアは取るべき良い一皿をすでに選びました。それが彼女から取り上げられることはありません」となる。「胃袋に入れる以上の大切な一皿があるよ。マリアはそれを選んだんだからね。それが取り上げられることはないよ」。つまりは、「マリアをこのままにさせなさい」ということである。マルタはむくれただろうか。ナルホドと悟っただろうか。

主イエスは、もてなしそのものを軽んじているのではない。優先順位でみことばが第一位に来るということ、みことばの優位性を知ってもらいたいのである。もてなしは、みことばを伝えるという光の中で位置づけられる必要があるということである。マルタの場合、具体的なことを言うと、もてなしの皿数を減らすことや、スケジュールの調整が必要ではなかったのではないだろうか。

40節では「もてなし」という表現が二回使用されている。「もてなし」<ディアコニア>、「もてなしをする」<ディアコネオー>。「もてなしをする」と同じことばが、使徒の働き6章1,2節でも二回使用されている。「そのころ、弟子の数が増えるにつれて、ギリシア語を使うユダヤ人から、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情が出た。彼らのうちにやもめたちが、毎日の配給においてなおざりにされていたからである。そこで、十二人は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。『私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのは良くありません』」。「毎日の配給」の「配給」<ディアコニア>、「食卓のことに仕える」の「仕える」<ディアコネオー>。ここで言われていることは、弟子が増えるにしたがって、十二使徒たちが食事の世話といったディアコニアまで手が回らくなってきて、このままでは、みことばの奉仕が後回しにされてしまい、それは良くないということが言われている。続く3~6節では、十二使徒たちが祈りとみことばの奉仕に専念するために、ディアコニアの奉仕に携わらせる7人の奉仕者を選出したことが記されている。使徒の働きでもディアコニアの文脈でみことばの優位性が言われている。みことばが後回しにされてはいけないと。

今日の教えを、どのように適用できるだろうか。まず教会での集会に適用できるだろう。礼拝の時間に、婦人が礼拝堂と台所を行ったり来たりする話がある。愛餐会の準備で、文字通り注意散漫になってしまったお話である。毎週行われる平日の家庭での信徒たちによる祈りの集会だが、ある理由で継続ができなくなったという話を直接聞いたことがある。持ち回りの集会であったようだが、お互いに、お茶とお菓子の準備、一品料理の準備が負担になって続けられなくなったしまったということであった。参加する人も、何か食べる物を持っていくのが慣習になっていたということであった。そこで私は、お茶だけにして、お菓子を出すのと、何かを作って持っていくのを止めればいいのにとお話すると、そんなことはできませんという返答だった。私が仕えていた関東での教会の事例を述べると、何か所かで毎週行われていた家庭での祈りの集会は、お茶も無しが原則で祈りに専念した。信徒の方に、そうしますからと言われた。一般の方をお招きしての家庭集会も数か所で行っていたが、簡単な茶菓で開催。教会堂ではある時期、昼食を提供する年配の婦人向けの集会を開催していたが、それは食事を提供して未信者の年配女性にみことばを宣べ伝えたいという、ある婦人のビジョンのもとに始まったものだったので、何で私が作らなくちゃならないんですか、といったことは全くなかった。こうした食事付き集会は、5章29節以降の取税人レビのパーティでも見たように、主イエスと主イエスのことばを伝えるのに益することになるわけである。私がその教会に赴任する前には、天に召された一人の婦人がいて、一人暮らしの苦労の多いご婦人だったそうだが、主イエスにしがみつく信仰を持っておられた姉妹で、その婦人はぜひ私にやらせて下さい、私は主のためにこれしかできないと言って、礼拝の後に、混ぜご飯といったお金をかけない簡単な料理一皿を提供してくれていたそうである。今日の教えから、みことばを優先する姿勢に変えられたマルタさんはたくさん起こされていった。

今日の教えは、個人の信仰生活にも適用できる。家事と子育てに忙しく、祈りとみことばの時の時間を作るのに戦いがあるというお話をある婦人から伺ったことがある。小さいお子さんのいるご家庭は確かに大変だろう。また外で仕事をお持ちの方は、出勤前に時間を作ることに戦いを覚えながら実践していらっしゃる方々が多い。いわゆるデボーションの時間を作るのに、意識しないと時間を作れないので、それぞれが工夫が必要になってくるということである。朝一で時間を作る。朝家族を送り出して時間を作る。通勤時間を利用する。どうしても日中はだめなので、真夜中起きて時間を作る、ということも聞いたことがある。人それぞれである。朝一番で新聞をじっくり時間をかけて読んでから聖書を開くという話を聞いたことがあるが、これは逆にしないとだめだろう。「必要なことは一つだけです」ということなのだから。

「必要なことは一つだけです」ということは、「必要不可欠です」という意味にもなろう。ただし主イエスは、「必要なことは幾つもあるよね。その一つです」と言ってはいない。とても極端に思えてしまう表現を取っている。文字通り、「必要なことは一つだけです」と言っておられる。その「一つ」とは主のことばを聞くことなのだと言う。これを極端と感じてしまうのは、私たちと主イエスの間に、みことばに対して認識のズレがあるからである。主イエスは、何はなくてもコレだけはといった意識で言っておられる。「必要なことは一つだけです」とは、「これだけは絶対に必要です。外せません。生活の中で第一位に来るものです」ということなのである。

主イエスはヨハネ6章において、パンのたとえを駆使しておられるが、「神のパンは天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです」(ヨハネ6章33節)といった表現を繰り返しておられる。「これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べるものは永遠に生きます」(6章58節)。ふつうのパン以上に、このいのちのパンを求めなければならないと知る。そして、こうも語っておられる。「わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです」(6章63節)。すなわち、主のみことばも、私たちにとっていのちのパンであるということである。主の足もとに座る思いで、口を大きく開けて、このパンをいただき続けていきたいと思う。