さて、今日の記事は、ルカの福音書にしか記されていない有名なたとえ話、「良きサマリア人のたとえ」が記されている。このたとえは、道徳教育のかっこうの材料と考えられたりするが、主イエスがこのたとえを語られた意図を、丁寧に汲み取っていきたい。

このたとえは、一人の律法の専門家の質問がきっかけとなっている。「さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。『先生、何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか』」(25節)。この律法の専門家は、「イエスを試みようとして」とあるように、へりくだって教えを乞う姿勢から質問したのではないことがわかる。態度は慇懃であったかもしれないが、心の中では、我は律法の専門家なりと、高飛車な姿勢で主イエスをやり込めることを考えていた。

永遠のいのちに関する質問だが、ダニエル書12章2節には、終わりの時に、「ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に」と審判があることが告げられているが、この永遠のいのちを受け継ぐためには何をしたらよいのか、と質問してきた。主イエスは、相手が律法の専門家であったので、「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか」と質問を返す(26節)。すると、彼は、字面の答えとしては正しい答えをする(27節)。この二つの律法は愛の律法で、当時のユダヤ教において、律法の要約、律法の本質、律法の精髄として知られていたものである。

「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(27節前半)。申命記6章5節の命令だが、永遠のいのちを与える神との関係が良くなければ、永遠のいのちは得られない。神は永遠のいのちそのものである。では、神とは誰か。ルカの福音書もそうであるが、新約聖書の文書は、主イエスが神であると教えている。では、この律法の専門家は主イエスを愛していただろうか。そうではないようだ。ねたみ、見下げ、嫌っていたのではないだろうか。主イエスはマタイ19章29節で、「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受けます」と言っている。言い換えれば、「わたしを愛し、わたしを信じ、わたしに従う者は永遠の命を受けます」という約束である。主イエスとの関係が壊れていては永遠のいのちはない。ところが彼らは、主イエスを神と思ってはいない。信じる思いも、従う気持ちもない。彼らにとって、神を愛するとは、規則を守ることにすぎなくなっていた。彼らは律法の教えから人間の戒めをたくさん作り出し、それらの細かい規則を守っていることで、自分たちは神を愛していると勘違いしていた。「何をしたら」と、規則を守って、良い行いをしてポイントを稼いで、永遠のいのちを受け継ごうとしていた。イザヤ書29章13節にはこうある。「主は言われた。『それは、この民が口先でわたしに近づき、唇でわたしを敬いながら、その心がわたしから遠く離れているからだ。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことである』」。まさしく、こうした状態であった。自分たちが考え出した規則は守っても、心は神から遠く離れていた。「心を尽くし」ということは忘れられていた。心の状態ではなく、何かをすることに強調を置く彼らであった。永遠のいのちは神との関係性にあるということを忘れてしまっているようだった。そして、その神は、今や目に見える神となられたのだが、受け入れようとはしない。

「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(27節後半)。レビ記19章18節の命令である。聖書全体を通じて、神を愛することと隣人を愛することは不可分で、一つのこととして教えられている。彼らは、隣人に関する自分たちの勝手な解釈から、この律法を守っていると思っていたが、事実はそうではなかった。主イエスはそれを良く知っておられた。律法の専門家は、28節の主イエスのことばから、さも自分が律法を守っていないかのようなニュアンスを感じ取ったのか、自分の正しさを示そうとして、主イエスに食らいつく。

次は、隣人の定義の質問である。「しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。『では、私の隣人とはだれですか』」(29節)。主イエスは彼が全く正しくないことを示そうと、たとえ話を語る。それを見ていく前に、当時のユダヤ教教師たちの隣人の定義を説明しておこう。彼らは隣人の範囲を恐ろしく狭いものにしていた。彼らにとって隣人でない者は、まず異邦人。異邦人は敵として憎むべき存在。次にサマリア人。サマリア人はユダヤ人との混血民族。背教者のレッテルを張られていた。異邦人同様にみなされ、ひどく軽蔑されていた。ヨハネ8章48節では、主イエスが、「あなたはサマリア人で悪霊につかれている、と私たちが言うのも当然ではないか」と言われてしまっている。ユダヤ人にとってサマリア人は隣人ではない。悪いことばで言うと、犬畜生である。鬼畜扱いである。ではユダヤ人であれば隣人なのかというと、そうではなかった。遊女や取税人と言われる人たちは「罪人」という区分で括られ、愛すべき対象ではなく、異邦人と同じように憎むべき存在だった。隣人とはイスラエル同胞でなければならなかった。同胞と言っても、儀式的に汚れている可能性のある人たち、例えば羊飼いなどは、「地の民」(アム・ハ・アレツ)と呼ばれ、愛すべき隣人とはされなかった。彼らの隣人の定義は明らかに間違っている。隣人とは、敵味方、人種、人間性関係なく、助けを必要としている人すべてが隣人のはずである。

主イエスはこの後、「良きサマリア人のたとえ」を語っていかれるが、律法の専門家に、隣人の正しい定義、隣人とすべき範囲を教えたいだけのことではないことがわかる。主イエスの強調したいことは愛の律法の実践であり、「あなたが隣人になれ」ということである。誰が隣人であるかではなく、「あなたが隣人になれ」である。その隣人の模範として、ユダヤ人が隣人とは認めないサマリア人が取り上げられている。たとえを学ぶ前に、たとえの後の主イエスの質問に目を落とそう。「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか」(36節)。この質問は、「今の話を聞いて、助けを必要とした隣人とは誰だと思いますか」ではなく、「誰が強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか」である。隣人を愛される側としてではなく愛する側として位置づける。受ける側の隣人ではなく与える側の隣人である。主イエスの「誰が強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか」という質問は、本当の意味で隣人愛の実践へと押し出す質問だった。律法の専門家は、抽象的で理論的な議論が好きだったと思うが、主イエスは隣人の問題を、彼個人の、現実の生活レベルに適用しようとされた。最後は、37節後半にあるように、「あなたも行って、同じようにしなさい」である。律法の専門家は反論のことばを失っただろう。隣人ということばを使った、自分の正しさを示そうとするクイズの世界はこれで終わりである。彼は隣人愛に関して、大先生であることも傍観者であることも許されなくなってしまった。

では、「良きサマリア人のたとえ」を見ていこう。物語の設定は、エルサレムからエリコに下る道である(30節前半)。エルサレムからエリコに下る道は、距離にして約29キロで、高低差は1040メートルある。この街道は岩だらけの険しい丘陵地帯にあり、その道は曲がりくねっていて、エルサレム近くには、山賊のかっこうの隠れ場になるスポットがあったと言う。この峠道は、別名「赤い坂」と言われていた。「赤」とは血の赤のことで、ここでよく人が襲われることを物語っている。危険な道であったので武器を携帯することもあったらしい。この道で、一人のユダヤ人が強盗に襲われ、身ぐるみはぎ取られ、文字通り血を流すことに。半殺しの目に遭った(30節後半)。被害に遭ったのはユダヤ人とは言われていないが、そう考えるのが自然である。

この現場を二人の人が通過する。最初は一人の祭司である(31節)。エリコに向かっていたわけだが、エリコはパレスチナの乾燥した地域にあって、良質の泉があり、なつめやしの生い茂ったオアシスとして知られていた。当時、エリコは祭司やレビ人の住む町であったようである。ということは、祭司はエルサレムの神殿でのお勤めを終えて、エリコに戻る途中であったのだろうか。半殺しにされた人にとっては、助かるチャンスが訪れた。ところが、「彼を見ると反対側を通り過ぎて行った」(31節後半)。見て見ぬふりで、近づくこともしない。なぜだろうか。汚れるのを恐れたのだろうか。以前にもお話したが、律法には、死体に触れると一週間汚れるという規定がある(民数記19章11節)。もし死体に触れたらお勤めはできなくなってしまう。だから素通りしたのだろうか。しかし被害者は死んではいない。そして、たとい死んでいたとしても、誰かを呼びにいくとか、それが人としての務めだろう。先を急いでいたという事情があったとしても、人の命には代えられないだろう。次に通りかかったのは、一人のレビ人である(32節)。レビ人とは、祭司の下で仕える下級祭司のことである。彼は、先の祭司と同じ行動に出で、そこを立ち去ってしまう。この二人の根本的問題は、次のサマリア人の姿で明らかになる。

被害者の息があるうちに、旅人のサマリア人が通りかかる(33節)。注目していただきたいのは、「かわいそうに思った」ということばである。このことばは「内臓」ということばに由来していて、ある訳は「腸(はらわた)のちぎれる想いに駆られた」と訳している。同じ原語が7章13節で使用されていて、そこでは「深くあわれみ」と訳されている。主イエスが一人息子を失ってやもめとなった母親に対する感情表現である。それと同じ感情を、サマリア人は半殺しされた人に対して持った。それに対して祭司たちは、深いあわれみの念は持てず、かかわりたくない、で通り過ぎた。つまり、腸(はらわた)はそのままで動いていない。深いあわれみの念は持てず、冷たかったということである。結局は、半殺しにされた人を前にして、深いあわれみの念を持てたかどうかが、一つの分かれ目となった。隣人愛の出発点は、「腸(はらわた)」から始まるということを教えられる。それは外面的に規則を守ればよしとする世界とは違う。

彼は深いあわれみの念から、実際的行動に出る(34節)。近寄って傷の手当をした。「オリーブ油」は傷を和らげ、「ぶどう酒」は消毒液となった。オリーブ油やぶどう酒は神殿でも用いるものであったので、祭司たちが携帯していても不思議ではないものであった。しかし、それを用いたのはサマリア人である。その後、傷口に「包帯」を巻いて、「自分の家畜」に乗せた。おそらくはろばである。ろばは当時のマイカーである。そして「宿屋」に連れて行って介抱した。当時、病院があったら、病院に運んだことだろう。

次の日、サマリア人は、被害者の滞在費と看護の費用を宿屋の主人に渡し、看護を依頼し、割り増し分は帰りに払うと約束した(35節)。宿屋の主人に渡した「デナリ二枚」は、当時の二日分の賃金に相当するが、二デナリで、男性一か月分の食費に相当する。二デナリあれば、一週間分の滞在費と治療代ぐらいはまかなえたのではないかと想像する。うまく行けば二週間分も可能だったかもしれない。おそらくサマリア人は、回復の目途を計算して二デナリ渡したのだろう。そして旅の帰りに立ち寄り、回復具合を確認し、最後まで面倒を見ようという心づもりであった。ユダヤ人とサマリア人は敵対関係だったということにおいて、サマリア人は、「あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者に善を行いなさい」(ルカ6章27節)の命令を実践したとも言えるだろう。

これでたとえは終わりだが、この後、主イエスは小学生でも答えられる質問を学者にする。「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか」(36節)。三択の質問である。強盗に襲われた人を助けた人は一人しかいない。答えるのは簡単な質問であるが、同時に、誰にでもわかる簡単な質問だからこそ、逃げ場のない質問となっている。「わかりません」と逃げることはできない。彼は、「サマリア人です」と答えただろうか。彼は「サマリア人」と発音することができない。したくなかっただろう。ユダヤ教が隣人の範疇に入れていないサマリア人なのに、「隣人になったのはサマリア人です」と答えを誘導するような質問には閉口したはずである。しかし、答えないわけにはいかないので、そこで彼は37節前半にあるように、「その人にあわれみ深い行いをした人です」と答える。この彼の苦渋の答えは読者の益となり、結果として、あわれみ深い隣人になることが教えられる。そして、37節後半の「あなたも行って、同じようにしなさい」の主イエスのことばが、実践へと押し出すことになる。

以上が今日の物語だが、考えて見れば、主イエス・キリストこそが、最高の良きサマリア人であることを思う。主イエスはまことの人となり、あわれみ深い隣人になった。それは、これまでのルカの福音書の記事からもわかる。主イエスは隣人ともみなしてもらえなかった取税人、罪人と言われる人たちと親しくつきあい、福音を語られた。そして、病人、悪霊に悩まされている人たちに近づき、手を触れ、いやしのわざを行った。ツァラアトに冒された人にさわると汚れるとされていたが、主イエスはこのような人にもさわっていやされた物語は衝撃的であった(5章12,13節)。そして先ほど少し見たように、葬式の行列に出くわした時、一人息子を失って悲しむ母親を深くあわれみ、汚れるとされた棺に触れ、いのちを与えるみわざをされた(7章11~17節)。このようなエピソードはたくさんある。

今日のたとえは「良きサマリア人のたとえ」だが、ヨハネの福音書4章には、サマリアの女への個人伝道の物語が記されている。主イエスはサマリアの中でも人々から蔑視されていた一人のサマリアの女に近づき、飲み水を求めた。4章9節にはこうある。「『あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。』ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである」。主イエスは彼女の良き隣人となり、福音を伝えた。ルカ9章51~56節には、時間的にはその後のサマリア人伝道の記事があるが、その時、主イエスはサマリア人に拒まれてしまう。弟子たちはサマリア人に怒りを燃やすことになる。けれども、今日の場面では、そのサマリア人をヒーローにしてユダヤ人の律法の専門家に教えを説いている。律法の専門家は、ユダヤ人がサマリア人を助けた話であるならば聞いていられようが、サマリア人がユダヤ人を助けた話など聞きたくなかったはずである。

隣人とは「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」とあるように、これまでは他者のこととして受け止めて来た。「あなたの隣人」なわけだから、それは自分ではありえない。他者である。しかし、他者にとっては、私たちが隣人であるわけである。ただ、他者の隣人であれば良いということではなく、一歩踏み込んで「隣人になる」という実存的なあり方を主イエスは求めたわけである。

まとめよう。どのような人たちが私たちの隣人と言えるかということが問題なのではなく、私たちが助けを必要としている人々の隣人になるということが問題なのである。そして、その姿はあわれみ深い隣人になるということである。もっと現代に通じることばで言うと、思いやりのある隣人になるということである。

私たちは、「良きサマリア人のたとえ」を聞いて、自分だったら半殺しにされた人をほおっておかない、まちがいなく助ける、最後までめんどうを見るかどうかは別としてと、そんなにハードルが高く感じないかもしれない。助けるのは当たり前でしょうと。しかし、そのような人と出くわすのは、一生に一度あるかないかである。日常を考えてみよう。しょっちゅうガン見してくる近所のおばさんが孤独でいたとしたらどうだろうか。陰険な職場の同僚が困っていたとしたらどうだろうか。私たちは身近な人々に対して、次のことも覚えておきたい。普段接するのはフツーの人たちである。私たちはどうしても身近な隣人を、求める対象、してくれるはずの対象、また依存の対象としがちである。このように、相手に求め、期待するのが習慣化していると、ストレスだけがたまる。どうしてやってくれないんだと。私が理想とする隣人じゃないねと。だが、隣人とは求める対象ではなく、思いやる対象でしかない。そこに立てば、変わって来るはずである。つまり、私たちが今日、主イエスから学んだのは、逆転の発想で、私たちが他者の良き隣人になるということである。