今日のテーマは喜びである。今日の記事では「喜ぶ」という表現が4回登場し、それがテーマになっていることがわかる。主イエスの弟子たちが喜び、主イエスご自身喜んでいる。その中で、何がほんとうの喜びなのかが教えられている。主イエスが教える喜びは、この世にはないもので、主イエスを信じるものにしかわからない喜びである。そして、この喜びをかき消すことができるものは何もない。

場面は七十二人の弟子たちによる宣教報告の場面である。1節にあるように、七十二人の弟子たちが指名を受け、ユダヤ地方の各地に遣わされて出て行った。その結果、どうであったか。「さて、七十二人が喜んで帰って来て言った」(17節前半)と、喜び勇んで帰って来た。どうやら、成功を収めたようである。彼らは興奮気味であったと思われる。主イエスは、彼らの興奮を鎮めることを意図して語っていかれるが、ともに、新約時代の喜びを言い表される。

彼らが喜んだ大きな理由が、「『主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します。』」(17節後半)。ある訳は「私たちに服従します」を「私たちに屈服します」と訳しているが、悪者どもが自分たちに屈服して得意げになっている様子をイメージしてもらったら良いだろう。ちょっと自慢の調子が響いている。気持ちが浮ついている。主イエスはこうした喜びを、20節前半で「しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく」と、こうした喜びに釘を刺している。

主イエスは最初に、悪霊どもがなぜ弟子たちに服従したのか、その理由を二つ語る。一つ目は悪霊どものかしらサタンの敗北である。「イエスは彼らに言われた。『サタンが稲妻のように天から落ちるのを、わたしは見ました』」(18節)。「天から落ちる」というのは敗北の描写であり、権威失墜の描写である。新約聖書を読むと、サタンの敗北、権威失墜は三つの段階がある。第一は、キリストの宣教の開始、神の国の訪れによって(ルカ10章18節 同11章20節 第一ヨハネ3章8節)。七十二人の弟子たちに悪霊どもが服従したというのは、サタンの権威失墜の現れであったのである。キリストの来臨、キリストの宣教によって、キリストの権威はサタンに対して行使されることになったのである。第二は、十字架と復活によって(ヨハネ12章31,32節 へブル2章14,15節 黙示録12章5~12節)。キリストは十字架と復活のみわざによってサタンに勝利を治めた。十字架は敗北に思えたが、復活の光において十字架を見るときに、それは罪と死とサタンを滅ぼすためのみわざであったと知る。へブル2章14節では、「死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自身の死によって滅ぼし」とある。黙示録12章9節では、キリスト昇天後の記述で、「こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンと呼ばれる者、全世界を惑わす者が地上に投げ落とされた。また、彼の使いたちも彼とともに投げ落とされた」とある。第三は、キリストの再臨によって(黙示録20章1~3,7~10節)。黙示録20章10節では「彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた」とあり、この時点で完全な敗北、裁きの執行があり、永遠に活動できない状態となる。それまでサタン(悪魔)の活動はこの地上で続くわけであるが、サタンに対するキリストの権威そのものは、キリストの宣教の開始以降、継続して現されている。キリストの御名には権威があるので、「あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します」となる。第一ヨハネ3章8節には、「悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました」とある。私たちはキリストの権威の偉大さを覚えるときに、目に見えない敵に対して必要以上におびえることはないと知る。キリストは勝利者である。私たちは、そのキリストを信じている。

悪霊どもが弟子たちに服従した理由の二つ目は、主イエスが弟子たちにご自身の権威を与えたということ。「確かにわたしはあなたがたに、蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けました。ですから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません」(19節)。サタン、悪霊どもが、「蛇」「さそり」にたとえられている。「蛇」は万国共通して、あがめられる神の一つとされている。私の実家の近くには、通称「蛇寺」がある。実家の屋敷神も「蛇」である。聖書では蛇は神ではなく、神の敵の象徴である。この敵に打ち勝つ権威を主イエスが与えてくださった。この権威を行使できる特権がある。私たちもキリストの御名によって祈ることにより、霊の戦いに勝利できる。ただ覚えておかなければならないことは、この権威は与えられたものでしかないということ。弟子たち自身はただの土の器にすぎない。私たちも同様である。

主イエスは言われる。「しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(20節)。主イエスは、弟子たちが喜んで帰ってきたこと自体を責めるつもりはない。ただ、悪霊どもが自分たちに服従して、有頂天になって、やった~と喜ぶその喜びに、おごり高ぶりが張り付いていることをご存じだったのだろう。主イエスは「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と、このことだけを喜ぶように言われる。「あなたがたの名が天に書き記されている」という表現に、あらためて神の恵みを思う。日本人は、この世以外の名簿というときに、裁きを行うとされる閻魔大王の閻魔帳ぐらいしか聞いてこなかった。しかし、聖書には別の表現がある。「いのちの書」である(詩篇69章28節 ダニエル12章1節 黙示録3章5節 同20章12,15節)。黙示録20章15節には、「いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた」とある。それは「子羊のいのちの書」とも言われている(黙示録13章8節 同21章27節)。黙示録21章27節には、「しかし、すべての汚れた者、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、子羊のいのちの書に記されている者たちだけである」とある。「いのちの書」というのは、永遠のいのちに入る人の名前が書き記されている名簿ということになるが、永遠のいのちは子羊キリストを信じる者に与えられる。この名簿に自分の名前が書き記されていることが幸いなのであり、何よりもこの恵みを喜ぶべきなのである。パウロは「私たちの国籍は天にあります」(ピリピ3章20節)と言うことによって、やはり、私たちの心を天に向けさせる。

私たちが、神さまのために良い働きができた、成功を収めることができた、不可能が可能になった、霊の戦いに勝利した、それはそれで素晴らしいことなのだが、それを自分の手柄にして喜ぶことではない。それができるように権威と力を与えてくださったのは神さま、それをやり遂げる能力や賜物を与えてくださったのは神さま、解決の知恵を与えてくださったのは神さま、初めから終わりまで背後で働いてくださったのは神さま、ということで、すべてのすべてを自分にではなく神さまに、イエスさまに帰してしかるべきである。私たちはもともと滅ぶべき罪人にすぎなかった。にもかかわらず、キリストを信じる恵みによって救われた。永遠のいのちをいただいた。私たちはただ、自分の名が天に書き記されていることだけを喜ぶ者たちでありたい。腕自慢も、能力自慢も、頭自慢も、業績自慢も、信仰自慢も要らない。

続いては、主イエスが喜ぶという場面である(21,22節)。「ちょうどそのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです。父よ、これはみこころにかなったことでした。すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。子がだれであるかは、父のほかはだれも知りません。また父がだれであるかは、子と子が父を現そうと心に定めた者のほかは、だれも知りません」(21節後半、22節)。

主イエスの喜びは聖霊によるものであったことに注目しよう。「ちょうどそのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた」(21節前半)。使徒パウロは、「御霊の実は、愛、喜び、平安・・・」(ガラテヤ5章22節)と言っている。主イエスのことばを聞いてわかることは、聖霊による喜びは、神の恵みに感動しての喜びであり、この喜びの源泉は父なる神にあるということである。

主イエスが喜びあふれる具体的な理由は、「あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました」にある。「幼子」とは、七十二人の弟子たちだけではなく、神を父と仰ぐ私たちも幼子たちである。そして幼子たちとは、「知恵ある者や賢い者」とは対極にあるような者たちである。使徒4章13節を見ると、ペテロとヨハネに関して、「二人が無学な普通の人であることを知って驚いた」とある。そしてこの幼子たちということばには、心の低さということを読み取ることができる。「知恵ある者や賢い者たち」は、誇り高ぶって自分の知恵や賢さに信頼する余り、キリストのもとに行こうとしない。反対に「幼子たち」、彼ら心低き者たちは、キリストのもとへ行く。そのように定められたのは御父と御子キリストご自身である。

知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださった「これらのこと」とは、神の国の福音である。それは、イエスは神の救い主(キリスト)であるという真理が中心となる。今、主イエスのみもとには、ご自分を救い主と仰ぐ、神の国の幼子たちが七十二人いる。めんこい一人ひとりである。これらの者たちは、神の選びのうちにあり、召し出された一人ひとりである。時満ちて、この日に至ったのである。彼らは天に名前が書き記されている者たちである。主イエスは彼らを見て、御父に嬉しさの感情を現さずにはおれなくなった。

「あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました」という事実は、昔も今も変わってはいない。第一コリント1章18,19節を読んでみよう。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る』と書いてあるからです」。神は罪人である私たちを救うために、ひとり子を十字架に釘付けにされた。頭から手から、足から神の御子の血は流れ、槍で突き刺されたわき腹からは血と水が流れ出た。悲惨な死刑執行の出来事である。それゆえに、福音は血なまぐさいとあざける人が出た。救いのわざが十字架などというのはふさわしくないという人が出た。それは愚かなことであると。この世の知恵ある者や賢い者の多くは、それは愚かなことであると言って拒絶した。それは今も変わっていない。だが、この愚かさこそが神の知恵であり、それは人の知恵に勝るものなのである。

さて、聖霊によって喜びにあふれて父なる神と会話していた主イエスは、その喜びから、弟子たちのほうを振り向いて祝福のことばを語る。「それからイエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。『あなたがたに言います。多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たいと願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けませんでした』」(24節)。「多くの預言者や王たち」というのは旧約時代の聖徒たちである。それらの人たちが見たいと願っていたのはキリストであり、聞きたいと願っていたのはキリストのことばである。けれども、それはかなわなかった。モーセもエリヤもイザヤも、ダビデ王もソロモン王も。しかし、弟子たちは今、見て、聞いている。旧約時代の聖徒たちが望んでいたことを、彼らは今、経験している。いにしえの時代より待ち望まれてきたキリストは来臨されたのである。弟子たちは、旧約時代の聖徒たちが経験しえなかった、キリストを見、キリストのことばを聞くということが許され、キリストの救いに入れられたのである。これが新約時代の祝福である。私たちも新約時代の聖徒として、旧約時代以上の祝福に与っているのである。私たちは時おり、神のことばを直接聞いた創世記の時代に思いを馳せたり、スペクタクルなモーセの出エジプトを体験してみたかったと思ったり、偉大な預言者のことばを聞いてみたかったと思ったりするかもしれないが、キリストが来臨され、神の国の福音が開示され、キリストを信じるように招かれているこの時代に生かされていること自体が大きな祝福なのである。

そして私たちは、キリストを信じる者とされている。神の子とされ、天に名前が書き記されているのである。国民栄誉賞の名簿とか、内閣総理大臣賞の名簿とか、都道府県知事賞の名簿とか、天皇が授賞式に列席する恩賜賞の名簿とか、そういう名簿に書き記されていること以上の幸いである。人の選びの名簿ではなく、神の選びの名簿である。しかもいただくものは永遠のいのちであり、神の都に住む居住権である。賞を受賞した人がインタビューで、「まだ実感が湧きません」と良く言うが、天に名前が書き記されているというのは事実である。

私たちは、キリストを喜び、キリストにあって救われ、天に名前が記されていることを喜べるのは大きな特権であると気づかされる。それは、この世の人たちは知らない喜びである。それは天的喜びと言っていいものである。天に名前が記されていることを喜ぶというのだから、まさしく天的喜びである。私たちは、この世的には知恵ある者でも賢い者でも、身分の高い者でも有力者もなく、取るに足らないと思われている者たちかもしれない。弱者かもしれない。だがキリストを信じて神の子とされ、天に、いのちの書に名前が書き記されているのである。

私たちは、自分の生活の足もとだけを見てしまうと、不満は尽きなくなる。そして、成功しただとか、失敗しただとか、健康がどうだとか、損しただとか、得しただとか、この世の人たちと同じレベルで一喜一憂するだけの毎日を送ることになってしまう。だが私たちは、この世の何ものもかき消すことのできない喜びを有している。この世の力が、試練が、病が火の矢となって、この天的喜びを奪えるだろうか。奪えないのである。私たちは誰を信じ、何者とされているのか、どのような特権が与えられているのかを忘れずにいよう。そして、「いつも喜んでいなさい」と第一テサロニケ5章16節で言われているように、聖霊によって、いつも喜んでいる私たちでありたいと願う。